2021年10月 課題:月見 月見酒あるいは天保水滸伝のこと 「愚痴じゃなけれど、世が世であれば、殿の招きの月見酒、男平手ともてはやされて、今じゃ今じゃ浮世を三度笠」 平手御酒、本名平田深喜は、江戸末期に起こった博徒の一家飯岡助五郎と笹川繁蔵一家の抗争を題材にした講談『天保水滸伝』に登場する義侠の剣客。飯岡は漁師町飯岡一帯を、笹川は利根川河畔の今の千葉県東庄町一帯を支配していた。賭場をめぐって二人は対立する。天保15年(1844年)8月6日、利根川を遡って飯岡が大人数で笹川に殴り込みをかける。迎え撃った笹川は少人数であったが、よく健闘し防いだ。数人の死者を出したのは飯岡側で、笹川側ではただ一人の死者であった。それが平手御酒。 平手は講談では、仙台藩あるいは紀州藩士で、江戸の千葉道場で修行し千葉周作門下の四天王とされたが、酒乱のために破門され、博徒の用心棒になったとされる。『大利根月夜』の「世が世であれば殿の招き月見酒」はこの講談に沿うものだ。だが、平手の素性のはっきりしたことは分からない。ただ一つ、確実な史料は平手の検死書であり、11個所に傷を負った30代の男で、翌朝亡くなったということ。検死書からは平手の壮絶な奮闘ぶりが窺われる。 この抗争の3年後笹川は飯岡の子分に闇討ちにされる。笹川を継いだ勢力富五郎一家もその2年後、幕府の取り方500人に囲まれながら、山にこもり50日余の抗戦の末全滅する。翌嘉永4年(1850年)には早くも、一連の事件は江戸の講釈師宝井琴凌により『天保水滸伝』としてまとめられた。 『天保水滸伝』はその後浪曲、昭和に入ってからは何回も映画化され大衆に親しまれた。この講談では飯岡が悪者にされ滅ぼされた笹川が持ち上げられ、さらに散りぎわの見事だった平手御酒がヒーローにされた。驚いたのは、飯岡は博徒の親分でありながら、その人柄を見込まれて、関東取締役にも任じられ、幕府から十手を預かるという二股役だった。天保の時代にもなると幕府の力も衰えて、地方の親分に治安の維持を依頼せねばならなかったようだ。こうした二足のわらじが、飯岡への反感となって『天保水滸伝』では悪役になっている。飯岡は安政6年67歳で死去。 3年前、飯岡町と東庄町を歩いた。飯岡町には飯岡が弔ったという笹川の立派な首塚があった。東庄町の延命寺には笹川、平手、勢力の3名の堂々たる墓もしくは石碑が建っていた。いずれも昭和になって作られた。寺からはかなり離れたところには平手御酒最期の地があり、そこにも古びた石碑が建っていて、その前には花とともに、大小の徳利や、カップ酒などが供えられていた。 殿の招きの月見酒というのが実際にあったかどうかは分からないが、統治者がお気に入りを手なずけるために行ったものだから、あったとすれば、さしずめ昨今の「総理主催の桜を見る会」に類するものだろう。 私には無縁な催しだが、平手御酒のように嘆くことはない。 |
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