2021年6月 課題:巣ごもり
有馬朗人先生
昨年12月7日、外出から帰宅したのは5時過ぎだった。しばらくして、オリーブ句会のルツ子師から電話があり、有馬朗人先生が亡くなったという。有馬先生の死は、午後のテレビニュースで速報されたようだ。信じられなかった。
有馬朗人、俳句結社天為の創始者にして主宰。有馬先生ほど、「籠居」という言葉から遠い人も珍しかった。海外での学会や研究会、国内各地での吟行や句会指導でいつも飛び回っておられた。天為の福永法弘同人会長は『天為』六月号の中で、コロナ禍で出かけることが制限され、リズムが乱れたことによるストレスも急逝の要因の一つだと思うと書いていた。先生は以前は1日2万歩、最近では1万歩を歩くことも目標とされていた。
私が天為に入会したのは俳句を始めて1年あまり経った9年前。ルツ子師の句会が天為の支部であったからだが、私自身、朗人の句の知的な抒情に新鮮なものを感じていたので、入会には何の躊躇もなかった。しかし、天為は会員が700人近くの大結社だから、朗人師は遠い存在であった。
2018年の秋、朗人先生が指導して下さる20人ほどのさねさし句会というのが相模大野にでき、私も参加した。先生は浜松の大学の理事とか武蔵学園の学園長などの仕事も抱えながらであったが、喜んでさねさし句会の指導を引き受けてくださった。80人も参加する天為東京例会と違って、少人数、ロの字型に向き合った句会で、名前もすぐに覚えていただいた。
句会ではまず会員による互選があり次いで師の選がある。互選で先生の句が選ばれると「朗人」とよく通る声で作者を名乗る。時には「ありがとう」と続ける。自分の句が選ばれるのがうれしいのは先生も同じなのだ。師の選には特選と並選があり、特選句には師からコメントがつく。コメントは簡潔にして明快。
そこへ、昨春からのコロナ禍。さねさし句会もしばらく通信句会になった。句会にも吟行にも行けないと先生が嘆いておられると聞いて、さねさし句会の世話役が、コロナも少しおさまった8月に神奈川県の宮ヶ瀬ダムへの吟行を企画した。マイクロバスをチャーターし、一行9名。男は先生と私の二人。ケーブルカーで堰堤まで上がり、大きな人造湖を眺めながら、皆が思い思いの場所で句帳を開き句を練り、持参の弁当を食べる。相模大野に戻り句会。終わってホテルでビュッフェスタイルの夕食。お酒を口にされない先生の横で、私はビールを飲みながら、話を聞く。先生は浜松在住の中学生の頃、米軍機の機銃掃射を受けた話をされ、戦争は絶対に避けなければと強調された。
11月のさねさし句会が朗人先生との最後の句会となった。私はその句会で5句のうち3句が朗人特選となった。特選がなしというのもよくある私にとって初めてのことであった。句会の終わりに「金子肇さん、今日はよかったねー」とおっしゃっていただいたのが、先生との最後になった。それからちょうど3週間後に先生は卒然と逝かれた。亡くなる2日前にはNHKの「“科学立国” 再生への道」の録画撮りが行われた。12月20日に放映された番組で先生は科学技術振興のためにもっと国家予算をつぎ込むべきだと、日頃の持論を熱く語っておられた。享年90才。生涯現役を貫かれた。
親しく薫陶を受けたのは2年あまりだが、驚くほど博識の先生だった。そして何よりも、東京大学学長、ノーベル賞候補の原子力物理学者、文部大臣という経歴にもかかわらず、少しも偉ぶったところがなく、優しい先生だった。
先生の代表句
光堂より一筋の雪解水 朗人
本歌取りをさせていただいた私の追悼句
朗人逝くも光堂より雪解水 肇
2021-06-16 up
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