2019年12月  課題:「蟹」 

 怖い蟹

 耳から入ってくる歌詞はとんでもない思い違いをすることがある。

 大正生まれの私の母が子どもの頃に歌った歌に「三河男児の歌」というのがある。母の郷里は、渥美半島の太平洋に面する村で、現在は豊橋に編入されている。「三河男児の歌」は、郷土を称え、三河に起こり天下を取った徳川家康の家臣団を称えるもので、明治の末に出来、大正の頃には三河地方の学校で盛んに歌われた。

 その五番:嗚呼慶元(注)のその昔/大久保酒井井伊本多/千古の名将雲のごと/この地に起り大八洲/六十余州に振ひてし/三河の当時を思ひ見よ

 なんとも大げさな歌詞だ。「大久保酒井井伊本多」は徳川譜代として天下取りに家康を支えた家臣の名だ。そんなことを知らない母はこの部分を「多くの坂へ入り込んだ」と歌っていたという。

 私にもそうした経験はいくつかある。「埴生の宿」の出だし部分を意味も分からずに歌っていた。「埴生の宿も我が宿/玉の装い羨やまじ」。「埴生の宿」も分からなかったが、「玉の装い羨まじ」は、「タマノヨソオイ」というなんだか得体の知れないものが、裏山をうろついていると解釈していた。「うらやまじ」は「うらやましく思わない」という意味を知ったのはかなり後だった。            

 
もう一つは「昔昔浦島は」で始まる「浦島太郎」の歌だ。「助けた亀」「乙姫様」「鯛や平目の舞い踊り」に加えてもう一つこの歌に登場するキャラクターがある。蟹だ。それも「怖い蟹」だ。

 この歌の四番:帰りて見ればこは如何に/もと居た家も村も無く/路(みち)に行きあう人々は/顔も知らない者ばかり

 夢のような竜宮城から帰って見たら、家もなく人々も知らない人ばかり。そのうえ、蟹までが怖い顔して、目玉をむき、大きな鋏を振るって浦島を脅かす。そんな光景をイメージしていた。怖い蟹の正体は「これはどうしたことだろう」の文語表現だったのだ。

 私は戦後もしばらく母の実家に疎開していた。渥美半島の太平洋岸は、伊良湖岬から御前崎まで続く美しい砂浜になっている。広い砂浜には直径1センチほどの小さな穴がたくさん開いていて、黒灰色の蟹が棲んでいる。小さいがすばしこい蟹で捕まえようとするとすぐに穴に逃げ込む。その穴を掘って奥に潜む蟹を捕まえる。海に流れ込む小流れには沢蟹がいた。こちらは4~5センチほどの大きさで色も鮮やかな赤だった。沢蟹が口からぶくぶく吐く泡が面白かった。蟹はそんな浜遊びの玩具だった。

 怖い蟹が実際にいることを知ったのはずっと後だ。平家蟹と言う蟹。主に瀬戸内海でとれ、壇ノ浦に沈んだ平家の公達の亡霊が乗り移ったという命名の由来からして、おどろおどろしいが、実際その甲羅を見たときにはびっくりした。図鑑で見たのかそれとも水族館で見たのかは記憶がないが、人の顔ほどの大きな黒い甲羅には凹凸あり、それが人間の憤怒の顔を連想させるのだ。つり上がった目、太い鼻、きっとむすばれた口。平家の武者の怨念が乗り移ったとされたのも無理ない。

 甲羅つきの蟹を食べる機会などまずない私だが、平家蟹は食用にならないと聞いてほっとする。


注:「慶元」は慶長と元和のこと。関ヶ原から大坂の陣へと続き、徳川政権が確立した年代

 2019-12-18 up


エッセイ目次へ