2019年9月  課題:「遅刻」 

 遅刻は出来ない

                            
 時の日や時計を持たず野良仕事     肇

 百姓に時計は不要だ。百姓にとってはお天道様が唯一の時計だ。明るくなったら畑に出る。お天道様が真上に来たら、昼飯を食って一休みする。暗くなったら家に帰る。

 逆に言えば、農民は時間にルーズだ。農村の寄り合いが時間通りに始まることがまずないのは、疎開先の田舎で子供ながら聞いていた。時の記念日が制定されたのは1920年(大正10年)。「時間をきちんと守り、欧米並みに生活の改善・合理化を図ろう」と生活改善同盟会が呼びかけて始まった。当時の日本の人口の大多数は農民であったから、特に農村を意識した呼びかけだろう。

 私はサラリーマンとして40余年を過ごした。自己完結型の農作業とは対照的に、サラリーマンの仕事は大きな全体の中のほんの一部だ。仕事の遅れは他人に迷惑を掛ける。時間を売って糧を得るサラリーマンには時間励行は基本的な心構えだ。

 私の仕事の大半は研究開発で、職場は研究所であった。特に若い頃従事した基礎研究では、仕事の遅れが他の迷惑になるようなことはなかった。にもかかわらず、私は時間には極めて厳しく自分を律した。これは、後年管理職になっても変わらなかった。部下よりも早く出社することが多かった。部下は内心ではいやな上司だと思っただろう。サラリーマン生活を通じて、電車の事故以外に遅刻したという記憶はない。

 私の両親は農家の出であるが、一生を勤め人として過ごした。父は零細企業で律儀に働いた。そんな父の姿を見て私も律儀に働くこと、つまり時間に厳しくすることが身についたのだろう。その上、私が小心者であることも時間に厳しくする理由だろう。遅刻して他人に迷惑を掛けたくない、遅刻はみっともない、自分の評判を落としたくない。一方遅刻をなんとも思わない人もいる。会議に遅ることが大物である証だと考えるような風潮もある。私のもっとも嫌うタイプだが、そうした人物の方が、私のような小心者よりも出世するようだ。

 定年後も遅刻しない習慣は続いている。すこし前まではかつての職場の仲間と、麻雀や将棋を楽しんだ。相手があるゲームだから職場よりも一層遅刻は厳禁だ。最近の楽しみは句会だがここも遅刻は許されない。出句締め切り時刻は厳密に守られている。私の属する結社天為の東京例会は70名以上が参加するが、有馬朗人主宰を初めとして全員が定刻前には着席する。私は席を確保するために1時間前には行くが、すでに10数人の会員がきている。

 芭蕉に随行して奥の細道を旅した曽良は、1時間単位で日記を書いた。丸谷才一は、曽良が農民ではなく今のサラリーマンに等しい武士の出身であったことと、芭蕉が俳諧連歌の宗匠であったことが曽良を時間に敏感にさせたのだろうと言っている。芭蕉の行く先々では連衆が待っている。芭蕉の発句をもって句会が始まり歌仙が巻かれる。遅刻するわけにはいかないのだ。

 もともとが武士であり、神田上水の改修工事を監督したこともある芭蕉も時間にはやかましかったに違いない。
 

 2019-09-17 up

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