2017年8月  課題:「鉛筆」


 
HBから4Bへ

 鉛筆を握った感触を確かめようと思った。机の上の筆記用具立てにはボールペン、シャープペンシル、色とりどりのマーカーペンなどがごちゃごちゃと立っていたが、鉛筆はなかった。

 鉛筆を最後に使ったのは『ニューズウイーク日本』の下訳をやっていたとき。『ニューズウイーク日本』の創刊は1986年の1月だが、私は創刊当初から、下訳をやった。毎日曜日に編集室に十数人の下訳者が集まり、衛星回線を通じて送られてくる英語の記事を、即座に訳した。朝出かけていき、まず一番にすることは、書架から辞書を持ち出し、担当者の机の上に並べられた鉛筆を5,6本持ってくること。下訳はその日の夜までには仕上げねばならないので、一刻を争う。それに、報酬は一字いくらの出来高制だから、1本ごとに鉛筆の芯を削るのは時間が惜しい。5,6本手元に置き、次々に取り換えて、全部の芯が丸くなってきたらまとめて削った。硬度は何種類かあったが、子供の頃から慣れていたので最初はHBを使った。やがて柔らかい方が書きやすいことに気がつき、Bの鉛筆にした。

 私は筆圧が高いので、もっと握りの太い鉛筆なら、疲れも少ないだろうと思っていた。下訳を始めて2年ほどしたとき、たまたま握りの太いシャープペンシルを見つけた。モンブラン製の黒いシャープペンシルだった。当時で五千円という高価なものだったが、思い切って買った。疲れがまるで違った。以来鉛筆とは縁が切れた。芯にはBを入れたがいつからかもっと柔らかい2Bへと変わっていった。多いときで1日に原稿用紙10枚ほどの下訳を仕上げた。縦書き、右から左へ書いていく原稿用紙なので、右手の小指の横から手首にかけて鉛筆で黒くなった。

 この下訳の仕事は2002年に終わった。以後、シャープペンシルも使う機会が減った。鉛筆書きは消して訂正することが可能だから、翻訳やエッセイの執筆には必要だったが、家でするこうした作業はパソコンを使った。プライベートなメモなどは、すべてボールペンを用いる。千円もしない、グリップの太いボールペンが出回っているのでもっぱら愛用している。

 昨年、シャープペンシルの出番が来た。私の属する俳句の会が、丹沢の戸川公園で吟行会を主催した。別の句会の人たちも招いての20人近くの参加者。普通なら投句は数句ずつ手分けして全員が清記し、それを回覧して各人がノートに写し取る。しかし、この時は時間を節約するために、私たち世話役3人が手分けし、50数句の出句を一覧表に清記し、そのコピーを皆に配った。迅速になめらかに書くために、またコピーが鮮明に出るように、私は4Bの芯を初めて使った。期待通りの鉛筆の滑りだった。相変わらず筆圧は高く、何回か芯を折ったが、シャープペンシルだから一押しで芯が出て、時間のロスはなかった。

 先月末、横浜市の市長選挙があった。候補者名を書き込むブースには鉛筆が2本あった。なるほど、鉛筆はもっとも手軽で、身近な筆記用具なのだ。

 硬度はBであった。

    2017−08−30 up


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