2017年6月  課題:「薬」


 医薬品を作った


 30年以上前のことだが、医薬品を作ったことがある。ユビキノン10(コエンザイムQ10ともいう)とジデオキシシチジンという二つの医薬品である。

 当時、私の務めていた専売公社は日本たばこ産業(JT)へ民営化された直後で、たばこ以外への新しい事業分野を模索していた。タバコで培ったバイオテクノロジーをもとに医薬分野へ乗り出そうというのが経営トップの方針だった。研究所で合成化学という基礎分野を担当していた私のところへユビキノン10(UQ10)を作って見ろという要請が来た。UQ10は当時年間500億円という途方もない市場を持っていて、エーザイ社のドル箱の医薬品だった。効用は心不全の治療であった。UQ10はエーザイ社が独占的特許を持っていたので、作ったものはエーザイ社に売り込むか、あるいは特許切れを待って今でいうジェネリック医薬品として出そうという思惑だった。UQ10に目をつけたのは、その合成の出発原料としてタバコ植物に含まれるある物質が使われていたからである。

 普段は数グラム単位で合成反応を行っていたので、1キログラムほどの薬品を使う合成反応には苦労したが、最終的には200グラムほどのUQ10の橙色の粉末を得ることが出来た。難しかったのは、反応自体よりむしろ最終段階で不純物を除き、純度の高いUQ10へ精製することだった。

 UQ10についで行ったのがジデオキシシチジン(DDC)。当時、欧米ではエイズという新しい感染症が大問題であった。DDCは遺伝情報を担うDNAを構成するデオキシシチジンの類縁化合物で、天然には存在しない。エイズウイルスは自身が増殖するためにヒトの免疫細胞にDNAを作らせる。その際、天然にはないDDCが間違ってDNA内に取り込まれるため、DNAは正常に機能せず、エイズウイルスは増殖することが出来ない。

 私たちが行ったのはDDCを従来法より容易に合成する新しい方法の考案だった。この方法はのちに特許として認められた。

 私たちの作った二つの化合物は、日の目を見ることはなかった。JTは既存の医薬品を作るのではなく、新規な薬効を持つ新規な化合物を開発するという本格的な薬品事業への参入を目指すことになったからである。医薬開発をやりたいという私の希望は、会社の上層部には認めてもらえなかった。代わりにもう一つの新規分野である食品開発を担当することになった。

 UQ10はもともと人体内で作られ、どの細胞にも存在する物質である。その後、心不全への効果が疑われ、医薬品として使われることはほとんどなくなった。その代わり、サプリメントとして広く一般に普及している。製造法も合成法ではなく、すべて酵母や細菌を利用する発酵法に変わっている。

 DDCは共同開発した関連会社で真剣に実用化が検討されたが、設備投資を回収する見込みが立たず、結局これも実現しなかった。エイズの薬は、DDCとはコンセプトの違う薬品が後その後多く開発されていて今ではDDCは過去のものとなってしまった。

 医薬品にも寿命があり、医薬会社は常に新薬を開発し続けなければならない。一つの薬を開発するには、10年500億円のコストがかかるとされている。競争力強化のために、日本の製薬会社もいくつかが合併した。そんな中で、約30年を経て、JTの医薬事業は最近やっと単年度黒字を達成するまでにこぎ着けた。

   2017-06-19 up


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