2017年5月  課題:「椅子」


 総統の椅子


 椅子はそこに腰掛ける人の社会的地位を端的に現す。私の経験では、平社員から役付きになると肘掛けの付いた椅子になる。さらに上級管理職になるとリクライニング機能も付く。極みは豪華な装飾を施した玉座。「○○の椅子」というとき、「椅子」は「地位」と同じ意味である。

 私は座席がすべて「総統座椅」、総統が座る椅子という意味のバスに乗ったことがある。バス会社の名前は「如皇旅遊」。総統の座るような椅子で、皇帝になった気分の旅を提供しますというのだ。車体は赤。乗ってみて驚いた。座席は2列しかない。通常のバスの2席分のスペースをとっている。えんじ色の革あるいは合成皮革で覆われた椅子の肘掛けの幅は20センチはあり、背もたれも同様の厚さで、座ってみると申し分ないクッションである。各座席にはテレビモニターとイヤーホーンが付いている。「総統座椅」はこのバス会社だけが使っている名称ではなく、こうした豪華な椅子に対する一般名であった。

 超デラックスバスだ。しかし、これは観光バスではない。長距離の路線バスである。乗ったのは台湾の台中市から高雄市の間。20年近く前のことである。

 当時、第2の職場としてたばこのフィルターを作る会社に勤務していた私は、フィルターの売り込みに台湾へ何回か出張した。台北市の専売局本局、台中県にある豊原工場とたばこ試験場、高雄市から車で1時間ほどの内埔工場が訪問先で、ちょうど台湾を北から南へ縦断する形になる。まだ台湾新幹線とも呼ばれる高速鉄道はできておらず、移動は台北から高雄までを貫く高速道路を利用し、現地商社の人の車で行った。台湾の大動脈に当たるこの道路は広いところは片側4車線の道路だ。

 台中市から高雄へはおよそ200キロ。東京―静岡間ほどの距離だ。たまたまその時は、現地商社の人の車の都合がつかず、利用したのが上記のバスだった。乗客は全部で10人ほどであった。高速道路は快調に飛ばしたが、路線バスなので途中で何回か高速を下りて、街中へ入っていった。そんなわけで、高雄まで3時間半を要した。

 リクライニングもでき、ゆったりとして座り心地は満点であった。残念だったのは、ノンストップのバスではなかったこと。ノンストップだったら、皇帝あるいは総統の気分にもっと近かったかもしれない。

 このバスでもう一つ驚いたことはその料金。日本円で1,000円程度だったと記憶している。ネットで調べてみたら、台中―高雄間の通常料金は300台湾元とのこと。日本円で1,100円である。この路線には5社も参入し、競争が激しく、料金の割引、座席の豪華さを競っていたのだ。

 13年後、観光旅行で台湾を訪れた。この時は高雄から台北までの350キロを台湾高速鉄道に乗った。通路をはさんで2列3列配置の列車の座席は、座った感じも日本の新幹線に乗っているようだった。車輌は日本の新幹線技術を導入したとのことである。高雄―台北の普通指定席料金が約4,500円である。台湾の交通料金は日本に比べると格段に安い。

   2017-05-23 up


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