2014年06月        課題:「半袖」

佐和山

 佐和山は下り新幹線が米原駅を過ぎるとすぐ右手に見える標高232メートルの小高い山だ。石田三成の居城であった佐和山城は、慶長5年(1600年)9月18日、関ヶ原の戦いの3日後に落城した。三成は伊吹山中を逃亡中で、城を守っていた三成の父や兄、妻ら一族は討ち死にもしくは自刃した。

 源義経、楠木正成、あるいは西郷隆盛など、後々の人に勝者以上に慕われる敗者と違って人気のない三成への同情心もあって、佐和山を訪れてみたいと思った。ネットで佐和山案内を調べたら、野猿とマムシに注意とあった。

 佐和山へのルートはJR彦根駅から往復するのが一般的だ。私は東側の近江鉄道鳥居本駅から、佐和山を越えて彦根駅へ出るルートを行った。5月下旬で、夏の陽気が続いていたが、途中で猿に襲われても長袖なら被害が少ないだろうと思って、長袖シャツを着た。早朝に横浜を発ち、新幹線米原乗り換えで、鳥居本駅に着いたのは9時少し過ぎ。ホームから南西に鬱蒼と樹木に覆われた佐和山が見える。新幹線の下を潜り、裾野の佐和山城大手門跡に向かう。東に開けた大手門には武家屋敷が並んでいたというが、今は一面の草の茂る野原だ。

 大手門から山麓を右手に回り、いよいよ登りにかかる。リュックからストックも取り出す。歩行の補助というより猿とマムシ用だ。樹林の中はひんやりとして、長袖シャツの上からジャンパーを羽織っていても暑くはない。しばらく登ると尾根に出て彦根側からの登山道と合流する。そこからはかなりきつい登りであった。西の丸遺構を過ぎて山頂の本丸に至る。西の丸遺構にはわずかに土塁の跡が残っていた。本丸跡は円形広場。5層の天守台があったというが、当時をしのばせるものはまったく見あたらない。木々に覆われた広場の中心に「佐和山城趾」の石碑と、その隣りに「萬霊供養地蔵尊」の小さな像があるのみだ。山頂には誰もいない。地蔵に賽銭をあげ、手を合わせる。

 本丸の西下には彦根の町が広がり、さらに北へ琵琶湖、彦根城から竹生島、琵琶湖の対岸の山々まで一望。東側の中山道へも睨みをきかせられる。ここから見ると、戦略的地の利は彦根城に比べて圧倒的に佐和山だ。関ヶ原後、この地に封じられた井伊は、三成の居城であったことを嫌い、新しく琵琶湖に浮かぶ彦根山に築城した。佐和山城も築城の資材として利用された。

 帰りは、龍譚寺を経て彦根に下りる。猿にもマムシにも会わずに済んだ。龍譚寺の入口には三成の座像があった。端正な三成像だ。その隣りには石田一族の供養観音像もある。三成は善政を敷き、領民に慕われていたので、井伊も領民の心を掴むために三成の菩提を弔ったのが龍譚寺であるという。それを知って私もほっとした。

 この日は、翌日にそなえて甲賀市水口に泊まった。

 翌日7時過ぎに水口のホテルを出る。今回の主目的の東海道歩きだ。東海道の53宿は、佐和山落城の翌年、徳川家康の命令で制定されたものだ。三雲、石部を経て3時過ぎ草津着。猿の心配も虫の心配もないので終日半袖シャツで通した。帰宅し腕時計を外すと腕にくっきりと白くバンド跡が残っていた。


補足
 JR彦根駅前には、井伊直政の騎馬像と共に、彦根の歴史を記した石碑が建つ。それには以下のような文言が刻まれていた:彦根の地は誰れ言うともなく「一に大老・二に佐和山殿」として、井伊直弼公と石田三成公を、彦根が輩出した偉人として市民の敬慕となり象徴となっているのであります。
 この碑は平成13年、2001年井伊家が彦根の町を開いた400年目を記念して建てられた。

   鳥居本駅から 佐和山                 佐和山城天守台


    佐和山城から彦根市内            佐和山城から琵琶湖、竹生島


      2014−06−27 up


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