2013年11月    課題:「寺」 

旦那寺


 私が高校3年の夏、一家は大田区の下丸子に引っ越した。父母にとっては初めての自分の家、新築のテラスハウスであった。「文化住宅」と銘打っていたが、要は、鉄筋コンクリートの長屋。私の家は6軒続きの一番端にあり、総2階で床面積は15坪(50平米)という小さな家だったが、それでもそれまでの借家に比べれば倍の広さがあった。やっと手にしたマイホームであったが、母は、「文化住宅」での生活を一年半しか味わうことが出来ずに亡くなった。

 病弱の母ではあったが、思わぬ死であった。葬儀をどうするかをすぐに決めなければならなかった。幸い、長福寺が隣接していた。もともと長福寺の土地を不動産業者が買い上げて、私達のテラスハウスを建てたのだ。父は躊躇なく長福寺に葬儀を依頼し、滞りなく葬儀をすませ、檀家となった。

 農家の四男に生まれた父は、遠縁に当たる金子家に養子に入った。しかし、どういう事情か、位牌も財産も金子家から引き継がなかった。金子家の菩提寺は豊橋にあると知ったのは、父が亡くなってからだ。父はそのことを気にし、長福寺の住職に相談したようだが、位牌も引き継いでいないのならあなたが金子家の祖になればいいといわれた。位牌を作り、墓も長福寺の境内に作った。

 父の決断は良かったと思う。なにしろ法事も墓参りも、家から2分もかからないで行ける。私は結婚を機にこの家を出たが、墓参と実家に寄るのとを同時に出来て都合が良かった。

 父と同年配の住職は気さくだが筋は通す立派な人だった。父が亡くなった際、「居士」の称号をもらおうと思ったが、それ程熱心な信徒でもなかったし、母が「信女」だったから夫婦同じであるべきだといって「信士」の称号になった。金銭に関しても無欲だった。戒名料などもこちらが適当に決めて包んだ。

 長福寺は真言宗智山派に属する寺院。総本山は京都東山にある智積院。驚いたことに、長福寺の住職は晩年、そこの第67第化主(けしゅ、住職のこと)となった。人柄だけでなく、学識も深かったのだ。化主を数年勤めて、また長福寺に帰ってきた。智山派の最高位の僧だから、智山派や智積院の大きな行事の際には、輿に乗って高々と担がれて出かけなくてはならないが、そんな晴れがましいことがいやだったと、住職は語っていた。

 11年前、90歳で住職は亡くなった。葬儀には多数の人が参列した。30分も待ってやっと焼香の番が回ってきた。焼香しているとき、何人目かの弔辞が読まれていた。弔辞は、住職が夜の銀座をこよなく愛し、幇間玉介を常にそばに侍らせていたと言った。悠玄亭玉介のことだろう。幇間の第一人者、最後の幇間と言われた人だ。あの住職に、こんな一面があったとはと驚いたが、その金は檀家の浄財から出ていると思うと、ちょっと複雑な気持ちでもあった。

 日光街道を宇都宮から今市まで歩いたとき、沿道に真言宗智山派の表札を掲げる寺院が3つもあった。ネットで調べてみたら、全国で末寺3000とある。川崎大師、成田山新勝寺、高尾山薬王院も智山派の寺であることを知った。

 京都に行ったら、総本山智積院にお参りしなければと思っている。

      2013−11−22 up


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