2013年9月    課題:「火山」 

焼山

 焼山は不遇な山だ。標高2400メートルもあり、1950年代に活火山と分類されていた山の中では、浅間山、焼岳についで3番目に高い山だった。浅間山、桜島、三原山、阿蘇など、活火山の多くはよく知られ、訪れる人も多い。対照的に焼山は名を知る人も、訪れる人もほとんどない山だった。焼山という名前からして、さえない。

 1957年8月、18才の私は高校のクラスメート2人と新潟県西部に聳える頸城山塊へ挑んだ。

 初日は黒姫山。円錐形の整った山容は信濃富士ともよばれる火山である。夜行列車に揺られて信越線柏原駅に着いたのは朝の4時半。すぐに黒姫山頂を目指して歩き出す。やがて正面の黒姫の山頂からだんだんと夜が明けてきた。6時間で山頂。ガスの切れ目から眼下に野尻湖が望まれた。黒姫からは笹ヶ峰牧場を目指す。これが長い道だった。黒姫を下って林道を延々と歩き、牧場に着いたのはもうすっかり暗くなった7時半だった。暗闇の中からぬっと現れる牛にびっくりしながら、その夜の宿泊場所、牧場管理事務所にたどり着いた。飯ごうで飯を炊き、持参した毛布にくるまって寝る。寝袋などまだ持っていなかった。

 2日目、8時に出発、火打山に向かう。途中標高2100メートルに高谷池という池を中心とした湿原がある。尾瀬を小さくしたような天上の庭園といったところ。豪雪地帯だけあってまだ残る雪を左右に見ながら、高山植物とハイマツの中を登ると山頂。東から妙高、火打、焼山と並ぶ頸城三山の中の最高峰で、標高2461メートル。

 山頂はあいにくガスっていた。しばらくいると、ガスが一瞬だが晴れた。山頂部は赤茶けているが、全体が緑につつまれた円錐形の山が西側に現れた。焼山だ。2日もかけてやってきた火打山のさらに先にこんな山が、人知れず静かに佇む。驚きであった。焼山という名前も、それが活火山であることも私は全く知らなかった。火打山頂には私達しかいなかった。焼山には多分誰もいないだろう。日本にまだ残された秘境。山頂を踏んでみたいと思ったが、もう時間はなかった。人目を拒むかのように、すぐに焼山はガスの中に姿を隠した。

 3日目、4時起床、高谷池ヒュッテを5時発、西側から妙高を目指す。しばらく登ると北側にも眺望が開け、朝のすがすがしい空気を通して、日本海の海岸線から、その先に佐渡島までが目に入ってきた。最後に岩を這っての急登を経て山頂へ。雪を頂いた後立山連峰の眺めが特に素晴らしかった。下りは硫黄の臭う地獄谷に沿っての長い下りだった。途中の燕温泉の無人温泉に入り、関山から信越線に乗り、東京の家に帰ったのは夜の12時過ぎであった。

 深田久弥の『日本百名山』が出たのは、この山行から数年後だ。火打山と妙高山は百名山に選ばれたが、焼山は入らなかった。

 焼山が「俺を無視するな」とばかりにニュースになったのは、1974年。水蒸気爆発により、登山中の大学生が3人死亡した。それ以後、98年までは登山禁止になった。現在禁止処置は解除されたが、アプローチが不便であることもあって、登山者の数は相変わらず少ないようだ。

補足
 私が頸城山塊に登った当時は、まだ活火山、休火山、死火山という分類がされていた。その後、死火山と考えられていた雌阿寒岳、御嶽山などに活発な噴気活動が見られ、活火山に変更された。さらに、休火山と考えれていた雲仙岳の噴火などがあり、火山区分の見直しが行われた。「概ね過去1万年以内に噴火した火山及び現在活発な噴気活動のある火山」が活火山と再定義された。その結果現在活火山と分類される山は110座におよび、富士山も含まれている。

 活火山はさらにABCランクに分けられている。焼山はBランクであるが、常時観測態勢が必要とされる山に指定されている。
 
 なお、焼山という名称は他にもいくつかあるので、この山は「新潟焼山」として区別されている。

追記  2023−12−20
 NHKBSで百名山頚城三山縦走を放映していた。それによると、火打山から焼山への縦走路が2022年に整備され、通行許可になった。番組ではこのルートを通って焼山山頂に達した。ゴツゴツした溶岩の山頂であった。



   1957−08−20  妙高山頂

   2013−09−18 up


エッセイ目次へ