2013年8月    課題:「初秋」 

武佐宿中村屋旅館


 3年前の2010年も記録的な暑さの夏だった。日が短くなる前に中山道歩きを完成させたいと思って、夏の盛りに美濃路から近江路へ130キロほどを歩いた。最後に残った行程は高宮から草津までの37キロ。途中の武佐で一泊する。武佐には創業400年という旅館があり、予約した。

 9月10日、早朝に横浜を発ち、米原乗り換え、近江鉄道高宮駅に9時半に着く。快晴、滋賀県の最高気温予想は35度。豊郷、愛知川、五個荘と近江商人を生んだ里を過ぎ、武佐へ。武佐はその日歩いた町並みでは最もさびれた町だった。人通りもなく、商店もほとんどない。

 中村屋は中山道に面した2階建ての旅館。築200年という。斜め向かいには武佐宿本陣の遺構がある。間口が広く、中央の玄関には大きな白い暖簾が垂れ下がっている。「中山道武佐宿 六拾七番」「旅籠」「創業慶長年間」「中村屋」の文字が染め抜かれている。玄関の左右には連子格子が連なる。5時過ぎにチェックイン。宿帳に記入する。驚いたことに9月に入ってからは私が3組目、5人目の客だ。これでよくやっていけると人ごとながら心配になったが、翌朝その疑問が解けた。早速風呂を浴び、10畳ほどの和室で、近江牛のすき焼きの夕食。2本のビールに心地よく、坪庭に面した和室で早々に床につく。扇風機はあるが、エアコンはない。

 翌朝、昨夜遅く着いた若い男性の相客もいた。朝食に濃い紅色のこんにゃくの煮付けのようなものが出た。近江独特のベンガラ入りのこんにゃくで、信長さんが作ったと女将はいう。こうすることによってこんにゃくを長く保存できるという。軍用食がそのまま引き継がれたのだ。信長と呼び捨てにしないで、「さん」をつけて呼んだ。安土城はここからすぐのところにあり、信長に寄せる地元の人々の思いを見る。中村屋ではこの女将以外の人は見なかった。70才過ぎと思われたがしっかりした人だった。武佐のことを色々話してくれた。スーパーができて街道筋の個人商店が店じまいしてしまったという。

 食後建物内を案内してくれる。坪庭の奥には宴会用の和室の大広間がいくつかある。旅籠といっても今は割烹旅館として成り立っているのだ

 古くからの調度品なども丁寧に説明してくれた。中で目を引いたのは、手のひらに乗るほどの鋳物のゾウ。将軍吉宗から贈られた物。享保14年、安南から吉宗に贈られたゾウが、長崎から江戸に向かう際、武佐宿を通り、人々が懇ろに世話をしたことへのお礼の品だ。ゾウは垂井からは中山道を離れ、名古屋経由で江戸に着いた。何しろ京都では天皇に拝謁し、そのために「広南従四位白象」という官位までもらったゾウだ。道々世話する人々も大変だったろう。

 快晴、女将に送られ武佐から草津へ。2時過ぎ中山道の終点、草津の中山道と東海道の追分に着く。途中、昼前というのに守山の野洲橋のたもとの気温表示は34度を示していて、9月も中旬に入ったとはいえ、仲秋はおろか初秋の気配も感じられなかった。

 それから1年余り経って、中村屋が焼失したことを知った。私が泊まったちょうど3ヶ月後の12月10日のこと。あの女将は無事だった。だが、もう再建されることはないだろう。あの小さなゾウは生き延びただろうか。


      中村屋


         武佐の町並み


  街道にある武佐宿の説明板  享保年間のゾウのことが武佐宿の目玉


    2013−08−28 up


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