2002年1月  課題  「祝う」
 
40歳の祝い                                       
                                                       
 78年12月17日、40歳の誕生日はちょうど日曜日だった。当時、私は単身スイスのジュネーブにいて、取引先の香料会社で半年間のフレーバー調合の研修を受けていた。先生はポール・ディートリッヒ。彼は会社の書類から私の誕生日を知って、当日私を自宅へ招待してくれた。

 ジュネーブの中心から車で10分ほど、フランスとの国境に近い所にディートリッヒのアパートはあった。外見はそれ程とも思わないのだが、内部は広くて、7室もある。独立している長女を除き、夫妻、長男、次女、次男とそろって皆で食卓を囲む。夫人手作りのバースデーケーキの上には、ローソクが4本ともされている。食事はスイスの典型的な家庭料理であるラクレット。溶かしたチーズを、茹でたジャガイモの上にかけて食べる、素朴な料理だ。丸のままのポテトをナイフで切り分け、溶けた熱いチーズをかけ、ホワイトワインを飲みながら、美味しく食べる。

 将来大学へ行くために今はデザイン関係の仕事をしている22歳の長男、19歳の次女は美容師、次男はまだ小学生。家族の紹介から、自ずと子供の教育の話が中心となる。子供たちは英語がしゃべれないので、もっぱらエリカ夫人が話す。日本では家庭が子供の面倒をよく見る一方で、学校では厳しく教育していると聞いているが、それはいいことだと、盛んに言った。受験勉強で確かに日本の子供はよく勉強すると、私は言ったが、それは学歴が幅を利かせる日本の社会のためで、ディートリッヒの長男のように、本当に勉強したい人が、経済的にも親に面倒をかけずに大学に行くスイスの方がいいのだ、とまでは乏しい英語力もあって、言えなかった。

 食後、夫妻とフランス側の、サレブ山へ車で行った。山頂はあいにく雲がかかっていたので、中腹にあるモンティエの町で車を止める。ここからはジュネーブの町と、レマン湖が一望でき、逆方向にはモンブランの眺望がすばらしい。

 異国で、心を込めて祝ってもらった不惑の誕生日。父の40歳の誕生日はどんなだったろうかと思った。戦争で焼け出された父は、疎開先の田舎の農協の事務員として、必死に一家の生活を支えながら、上京する機会をうかがっていた。おそらく誕生日の祝いなどもなかったであろう。そして当時10歳の私には、スイスはおろか、ヨーロッパという名前も概念もあったかどうか。
 
 30代半ばのことを思った。その頃私は、澄んだ知性も、みずみずしい感性も衰えるから、人生は40になったらもう終わりだと感じていた。40歳の誕生日に、黒枠に入れた自分の写真を飾り、盛大な「告別式」を挙行した将棋の芹沢八段に痛く共感したものだ。

 しかし、こうして迎えた40歳の誕生日は、思ったほど人生に対するあきらめを伴っていなかった。10歳の私に、スイスで40歳を迎える私が想像できなかったように、人の一生には何が起こるかわからない。そして、何歳になっても、その年齢に応じた生き甲斐というものはありそうだと思った。

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