2002年8月  課題  「帽子」
 
西方さんとクラクラ研究会

 ソフト帽と扇子を手に、白い半袖の開襟シャツ姿で、西方さんは私のオフィスのドアを開けて入ってきた。西方さんと私は同じ年。第2の職場として香料会社に勤める彼とは、前の会社の研究所で、長いこと同僚として研究開発の仕事に携わってきた仲だ。都心の顧客回りをした後で西方さんは私の所によく寄ってくれた。 

 いつものように読んだ本の感想などを交換しあったあとで、真夏に出歩くにはこの姿に限るといって、白いソフト帽子をかぶって立ち去る彼の格好は、いかにもおやじ臭く、いかさないと思ったが、それを押し通すころがすごいとも思った。もう3年ほど前のことだ。

 2年ほど前に彼は「クラクラ研究会」なるものを立ち上げた。定年後の人生を創造的に有意義に過ごすことを目的として、その方法をみなで話し合うのが会の趣旨だ。会員は15,6人。西方さんや私を含め、大半が自適の身だ。今までに9回の例会がもたれた。私も「読書の楽しみ」で話題を提供したことがある。

 今年の8月、記念の第10回例会は、国府津のある団体の研修施設で泊まりがけで行うことになった。講師は西方さん自身で、テーマは「ケチの研究」。

 都城の工場長として単身赴任したとき、1年間の食費を10万円に抑え、その時の家計簿が、全国家計簿コンクールで入賞したこと、立食パーティの時は普段食べない珍しい高価な飲食物しか手を出さない、といったケチを楽しむエピソードを交えながら、ユーモアたっぷりに皆を惹きつける。いたずらな見栄や義理は無視して出費を抑え、その代わり自分でこうと決めた目的のためには思い切ってお金を使おうという主張には私も大賛成だ。

 終わった後で、西方さんが自ら自転車で離れたスーパーまで行って仕入れてきたビール、ヤキトリ、サラダ、おにぎりなどで酒宴。

 実は私はここに来るまでに「ケチの研究」を実践したのだ。自宅のある横浜線十日市場駅から国府津へ行くのに、私は横浜に出て東海道線に乗るJR利用しか考えなかった。インターネットで時刻表を調べていて、小田急利用で行く方法があることを知った。横浜線で横浜とは逆方向の町田まで出て、そこから小田急で藤沢まで行き、東海道線に乗るのだ。この経路だと、JRだけの場合より、片道170円も安い。しかも、所要時間はほぼ同じだ。研究会の趣旨からしてもこれは町田回りで行くべきだ。外はカンカン照り。おやじ臭くても構わない、周りにつばのあるソフト帽をかぶって家を出た。

 酒席で私は西方さんに、来るとき170円を節約した顛末を自慢げに話した。西方さんも、そうでなくては、と私の実践を喜んでくれた。

 夜も更けてきた頃、ここに泊まって明日はゴルフという皆を残して、私は宴半ばで帰宅した。
 
 翌日、帽子を忘れたのに気がついた。すぐに管理人に電話してみたら、会場の机の下にあったという。運賃着払いで送ってもらった。

 640円の余分な出費になってしまった。西方さんごめん。

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