2002年10月  課題  「隣」
 
その確率は?                                          
                              
 山崎雅子さん、新橋の会社に勤める30代の物静かな女性。「下重暁子のエッセイ教室」でかつて一緒だった。帰りの電車で会ったことが2回ほどある。その日、青山一丁目駅で銀座線から乗り換えるとき、田園都市線のホームのベンチに座っている女性の横顔が山崎さんのように見えた。また会えた、一緒に帰ろうと近寄ってみたら、目元がよく似てはいたがロングヘアの別人だった。

 私が乗ったのは鈍行であったので鷺沼で後から来た急行に乗り換えた。山崎さんのことがまだ気にかかっていたのだろう、乗り込んですぐに車内を見回してみた。驚いたことに真ん中の座席に山崎さんがうつむいて眠っているではないか。今度は紛れもなく山崎さんだ。私は彼女から二人隣の座席の前のつり革が空いていたのでそこにつかまる。

 彼女の隣、つまり私の左前は私と同年輩の紳士が座っている。膝に鞄を置き、顔のかなり前方に文庫本を突き出して読んでいる。何処かで見たことがあると思った。大学の2年先輩でS製薬に勤める城島さんのようだ。最後に会ったのは10年以上前。S製薬の研究所に城島さんを訪ね、農薬開発の進め方についての情報を交換した。その後確か滋賀県の工場に転勤したと聞いていたが、また東京に帰ってきたのだろう。ぴんと伸ばした背筋、白髪が混じったとはいえ端正で面長、上品な容貌は間違いなく城島さんだ。あまりの偶然に私は信じられない心地でしばらく2人を見ていた。それぞれ眠りと読書に一心で、私に気がつく様子はない。声をかけようかどうか迷ったが、声をかけると山崎さんを起こすことになり、そちらとも話さなければならいし、青葉台までは6,7分の時間しかないから、そっとしておこうと決めた。

 そのうち山崎さんが城島さんに寄りかかり気味になった。しかし城島さんは肩で彼女を押し返すこともせず、端然として文庫本を追っている。やがて青葉台駅。彼女はまだ目をあけない。乗り越すのではないかと心配になったが、停まった瞬間目を覚まし、立ち上がり出口に向かう。見事なものだ。私の背後に来かかったとき、私は振り向いて「山崎さん、こんばんわ」と声を掛けた。

「ヒャー、こんばんは」と彼女は悲鳴に近い声を出して、私のわきを通り過ぎて足早にドアに向かった。降りるとすぐにドアは閉まった。

  城島さんは私と同じ次の長津田で降りたようだが、結局話しかけなかった。

 初老の紳士と、寄りかかるように眠る若い女性。行きずりのこの両方が私の知人である。そんなことが起こる確率はどのくらいだろう。実は以前に城島さんの姿を帰りの電車で見かけたことが1回ある。従って、私が山崎、城島のそれぞれと会う確率は年に1回はありそうだ。年間の通勤日数を250日とすると、確率は250分の1となる。私が山崎、城島の両方と会う確率は従って、250分の1×250分の1、つまり62500分の1となる。そこへ山崎、城島が隣り合わせに座る確率を40回に1回とすると、全体の確率は250万分の1となる。つまり、1万年通勤すれば1回はあるというほどの偶然なのだ。

  通勤の楽しみとも言えるこうしたハプニングとも今は無縁になった。


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