2003年3月  課題「彼岸」
 
クレオパトラのワイン・ミトコンドリアイブ・原始生命
                 
「クレオパトラのワイン」という話がある。2000年前、クレオパトラが飲んだ1杯の赤ワイン中の水の分子は、体外に排泄された後、そのほとんどが現在も地球上に残っているというのだ。そして、もしそれが地球上に均一に分布したら、我々が今飲むコップ1杯の水の中にもそのワインの水分子が10個は入っている計算になるという。これは分子というものの小ささと、化合物としての水の安定性を示す例え話だ。何しろコップ1杯の水(180ミリリットル)の中に含まれる水の分子の数は、6のあとにゼロを24個つけた数なのだ。

 地中海に注いだと思われるクレオパトラから排泄された水が、2000年という歳月で、日本までやってきたかどうかは疑問だ。しかし、2000年前の弥生時代に日本に住んでいた私の遠い先祖が飲んだ1杯の水の中の分子は、間違いなく私が毎日飲むビールの中に何十個かは入っているだろう。それどころか、その先祖の体を構成していて大地に帰った水の分子は、地下水を経て、海に注ぎ、雨となって地上に戻るという循環を繰り返して、広い範囲に分散して、ついには2000年後の私の体を構成する水の一部にもなっているはずだ。

 それではDNAはどうだろう。2000年前の先祖のDNA分子は私の体に残っているだろうか。答えは否だ。DNA分子は水のように循環することはない。我々のDNAは受精時に親からもらったDNAを、コピーして我々自身が作ったものだ。DNA分子自身が先祖から歴代受け継がれることはない。代々受け継がれるのはDNAに書き込まれた遺伝情報である。

 私たちの細胞にはミトコンドリアという小さな器官がある。この中にもDNAが存在する。ミトコンドリアDNAの遺伝情報は母親からしか伝えられず、父親からのDNAと混ざり合わないから、変化が少ない。そこで、現存人類の色々な人種のミトコンドリアDNAの塩基配列(遺伝情報に相当)を調べてみた。すると、人種の違いによらず、塩基配列は極めて類似していた。このことから、現在の人類はすべて、約20万年前にアフリカにいた1人の女性、「ミトコンドリアイブ」を共通の先祖として持つという仮説が導かれた。

 ミトコンドリアイブをさらに遡るとどうなるか。恐らく人類の色々な祖先を辿って、類人猿に行き着き、さらにその祖先の哺乳動物にいたり、さらに遡れば、結局は最初の生命体に行き着く。それは30億年以上前の原始の海辺で生まれたか、あるいは深海の奥深くで生まれたか、いずれにしても、たった一つの細胞であったはずである。地球上の生命はその細胞から進化して今のような複雑で多様なものとなってきた。ヒトも、サルも、バッタも、桜も、O157菌も、あらゆる生き物は遺伝物質としてDNAを持っている。DNAの長い分子を遺伝情報を書き込んだ文書と見立てると、その文字の規則はヒトも、O157菌も同じなのだ。このことが、あらゆる生命は共通のたった一つの先祖から進化してきたことの有力な証拠であるとされている。

 私の体には、遠い祖先の体を構成していた水分子や、原始地球まで続くDNAがあると思うと、祖先や、あらゆる生き物が一段と身近なものに感じられる。


追記
   
 クレオパトラのワインの話は、『分子生物学入門』美宅成樹、岩波新書に載っていた。著者のオリジナルではないと断っている。インターネットで検索してみたら、東京大学の分子分光学の浜口教授のHPで、アボガドロ数の大きさを表すエピソードとして紹介されていた。ただ、このHPでもオリジナルではなく、この話の出所を知っている人は教えて欲しいと呼びかけていた。
 
 アボガドロ数の大きさについては、私もずっと以前に考えたことがあった。その時計算してみたのだが、コップ1杯、180ミリリットル(10モル)の水分子を、1秒間に1つずつ数えたとすると、全部数え終わるには、4000万人余の人々が地球の生誕と同時に数え初めてやっと数え終わることがわかった。
 
 日本の独自の単位、1合と1升は水の場合はちょうど10モルと100モルに相当するのが、偶然とはいえ興味深い。

  
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