2003年4月  課題  「水」
 
分水嶺
                                                         
 降り注ぐ雨粒を左右に振り分ける地上の目に見えない線。分水嶺という言葉はロマンをかき立てる。振り分けられた雨粒はその後の運命を大きく変えてゆく。片方は太平洋に、そして片方は日本海にといったように。分水嶺は人の世の出来事や個人の一生の転機を比喩的に表すのにも使われる。

 アメリカ大陸を北から南に貫くロッキー山脈の頂上で、背中合わせに一人が東に、一人が西に向かって放尿すれば、一つは大西洋に、もう一つは太平洋に注ぐ、という話が井上靖の小説の中にあった。分水嶺というものの存在を意識したのはそれがきっかけだと思う。20代前半のことだ。

 ロッキー山脈ほどのスケールはなくても、日本にも降り注ぐ雨粒を太平洋側と日本海側に振り分ける、目には見えない1本の境界線、大分水嶺が本州を津軽半島の先からから山口県の端まで、切れ目なく走っている。この境界線の太さは無限小であるから、落ちた場所がわずか何万分の1ミリ違っただけで、一つの雨粒は右に流れ、太平洋に注ぎ、もう一つは左に流れ、日本海に注ぐ。

 この大分水嶺を全部踏破したら素晴らしいだろうと思った。そこで、まず地図で北から南に辿ってみた。大分水嶺は日本の背骨に相当する険しい山地を通る。碓氷峠や野麦峠あるいは関越トンネルなど、大分水嶺を横切る、もしくは貫通する道は著名なものが多いが、大分水嶺に沿う道は山道か、もしくはないことが多く、忠実に全部を踏破することは出来そうにないことがわかった。

 地図で大分水嶺を眺めていると他にもいくつかの発見がある。一番意外だったのは、岐阜県と福井県の県境を抜けて、琵琶湖の北岸を通って中国山地に入ること。ここでは大分水嶺は若狭湾までわずか5キロほどで、標高も500メートルに満たない所を通っている。大分水嶺を境に「表日本」と「裏日本」が分かれるとすると、ここでは「裏日本」の幅は5キロほどしかないのだ。そして、琵琶湖の水はすべて太平洋側に流れる。もう一つは日本の3000メートル以上の高山、富士山も、北アルプスも、南アルプスも大分水嶺からは外れていること。富士山周辺に降る雨はすべて太平洋に注ぐ。

 那須連山、谷川岳、八ヶ岳など大分水嶺を形成するいくつかの山に登ったが、当時はまだ分水嶺ということを意識していなかったので、これらの山では特別の感慨もなかった。分水嶺を意識したのは奥秩父の山に登ったときだった。

 67年のゴールデンウイークに信州側から大弛峠に登り、そこから国師岳、甲武信岳と縦走した。長野県と山梨県の県境をなす標高2300〜2400メートルのこの稜線は、大分水嶺そのもので右側の谷は笛吹川から富士川となり太平洋へ、左側は千曲川の源流で、日本海へと落ちていく。職場の同僚と2人の山行だったが、さすがに井上靖の小説の真似はやらなかった。しかし、途中で用を足したとき、これはやがて千曲川に流れ、信濃川となって日本海に注ぐのだという感慨にふけりつつ、1メートルほどの残雪の上にしみ込んでいく淡黄色の自分の液体を眺めた遠い記憶がある。甲州ではなく信州側へ放出したのは、日本一長い信濃川経由で、できるだけ長い旅をさせてやりたかったからだろう。
 
補足
 大分水嶺の通っている地名については、堀公俊著『日本の分水嶺』(山と渓谷社、2000年刊)を参考にした。本書には分水嶺のロマンが満ちている。好著である。
 
 日本地図上に大分水嶺を辿ってみたのは、もう、10年近く前のことである。色分けだけで高低を示してある100万分の1の地図上で、分水嶺を正確に辿ることは結構難しい。一番わかりやすいのは、近くの川が太平洋か日本海か、どちらに流れているかを見ることである。ところが、近くに川の表示がない場合は分水線をどこに引いていいか迷う。特に猪苗代湖周辺がわからなかった。『日本の分水嶺』によれば、安積疎水があるため、猪苗代湖の水は日本海へも太平洋へも流れているとのことである。とすれば、大分水嶺はここで不連続になっているわけで、本エッセイの「大分水嶺が本州を津軽半島の先からから山口県の端まで、切れ目なく走っている」という表現は間違いである。
 
 大弛峠は今は甲州と信州を結ぶ林道が通っていて、マイカー利用で、朝東京を出れば、午後には大弛後小屋に着けるとのこと。私たちは夜行で行き、時には腰まで浸かる雪に難渋しながら小屋にたどり着いた。

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