2003年8月  課題 「命」

手相

「生命線ひそかに変へむためにわが抽出しにある一本の釘」

 83年3月、47才で亡くなった寺山修司の若い頃の短歌である。

 私にも高校時代に同じ経験がある。私の生命線も手のひらのまん中より下のところでぷっつりと切れている。その代わり運命線が手首の端から手の中央を上の方まで伸びている。切れた生命線があと5ミリ長ければ、運命線につながって、私も夭折することなくかなりの寿命を生きられると考えて、釘やナイフで自らの手のひらを削った。しかし二つの線をつなぐことはできなかった。当時の私の考えでは50才まではとても生きられない手相だと思い込んでいた。

 社会に出て仕事に熱中し、家庭を持つようになり、手相への関心は薄れていった。しかし私は42才で心臓疾患で亡くなった母の体質を強く受けついでいた。心臓神経症と診断された時々出る左胸の痛みは高校時代からあり、さらに、30代半ばからは毎日血圧降下剤のお世話になっている。だから、心臓発作あるいは脳溢血でいつ逝ってもおかしくないと思ってきた。

 そんな私が、いつの間にか母の年齢を超え、とても生きられないと思っていた50才も超えてしまった。しかし手相がその人の肉体的特徴や、性格と密接に関連しているという考えは常に心のどこかにあった。不吉な運命を読みとられたくなくて、私は易者どころか、普通の人にも掌を開かないように気をつけた。寺山修司の歌は何より手相が早世した彼の運命を語っていたことを示している。当時の自分の占いが当たらなかったのは、手相に対する私の見方が足りなかったからだと思った。その人の寿命は単に生命線の長さだけからは決められないのだろう。母の生命線が私のように途中で切れていたという記憶はない。

 53才の時初めて手相を見てもらった。ここまで生きれば、もう何を言われても受け止められるという気になっていた。アルコールの勢いもあった。夜の銀座、高級クラブで取引先に接待された帰りだった。通りに立つ50才くらいの女性の手相見の前に立った。

「長生きできそうもない手相をしていると思うのだがどうだろう」と、いきなり切り込んだ。私と同じくらいの背丈で、やや細面の整った顔立ちの女は懐中電灯で私の差しだした両手の掌を眺め、それから、左手だけをとって詳細に調べだした。60才でも、それ以上でも生きられます、それはあなたの気の持ちかた次第です、自分ひとりで勝手に何でも思い込んでしまう傾向があること、もっと周りの人のことを考えてやるようにした方がいいこと、こつこつ一人でやる仕事が向いている、などと語った。

 私の性格に対してはほぼ当たっていると思った。寿命については本当のことはいわないのだろう。しかし、5年も前に60才を超えたのだから間違ってはいなかった。気になったことは、「60才でも、それ以上でも生きられます」という言い方だ。「70才でも」といわなかったのは、70才までは無理ということを言外にいったのかも知れない。

 だとするとあと5年。一度種を播くと10年間は収穫できるというアスパラガスを昨年菜園に播いた。私はそのアスパラを最後までは収穫できないのか?

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