2003年10月   課題 「実り」

稲作り日記2003
                              
 
私の住む横浜市緑区の恩田川沿いにはまだ水田が残る。私は菜園の行き帰りこの水田の中を通る。6月の田植え、一面敷きつめた緑となる7月、むせかえるような稲の臭いが夏雲の下に漂う8月、そして黄金色の稲穂を垂れる9月。いずれも渥美半島の田舎で過ごした少年時代に連なる、私の原風景、あるいは民族の原風景といったものだ。そうしたものへの回帰願望もあり、また長年の菜園のレパートリーを広げる意味でも、野菜だけでなく米も一度作ってみたいという思いが高じていた。ポットでの稲作りを今年実行することにした。

 春に横浜北農協に行った際に、種籾を分けてもらえないかと聞いた。驚いたことに農協にはおいていなかった。代わりに一昨年のもち米の籾をもらった。インターネットでポットでの稲の作り方を探し、それに従って作ることにした。

 4月の末に籾の発芽を試みたが、1週間水に漬けておいても発芽しなかった。やはり古い籾ではだめなのだ。農家から苗をもらう他ないと思っていたら、6月中旬、恩田川沿いの水田の隅に植残った苗があった。居合わせた田圃の主に頼んだら、快く分けてくれた。持ち帰って、用意してあった深めのプランターに植えた。15センチくらいの間隔で8株、1株に4,5本の苗を植える。

 プランターは家で最も日当たりの良い居間の前に置いた。とはいっても狭い庭で無計画に植えた木が茂り、また、物干し竿があって、洗濯物の陰になったりで、日中でも日が当たる時間は半分あるかないかだろう。苗は成長し始めた。しかし、同時期に植えた恩田川の田圃の苗と比べると生育が劣っているようだった。特に苗が細く、また分けつの数も少なかった。

 7月に入って家の外壁の塗り替えを行った。作業の邪魔にならないようにポットを庭木の下の方に移動したので、さらに日当たりは悪くなった。せっかく伸びてきた苗の一部が途中で折れてしまったりした。外装工事も終わり再度日当たりの良い居間の前に移動した。梅雨明けのカンカン照り期待したのだが、今年の8月は低温、多雨となって、稲の生育にはさんざんな夏であった。我が家だけでなく、全国的に米の作柄は悪いだろうと思ったが、やはり、農水省の稲作予想は10年前の93年に匹敵する「不良」であった。

 それでも田圃では8月下旬には見事に穂が出そろって、黄色い小さな花をつけていた。我が家ではまだ出穂しない。穂も出ずに終わるかとあきらめかけていたら、冷夏の8月を取り戻すかのような暑い日が続いた9月に入ってやっと穂が出てきた。田圃には数十個の案山子が立ち、あるいは雀除けのテープやネットが張られ、その下で黄金色の稲穂がゆらぎ始めた。9月下旬にはポットの稲も穂先を垂れるようになった。9月末には田圃では刈り入れを行っていた。苗をもらったおじさんに出来具合を聞いたら、やはり今年はよくないと言う。

 我が家の稲は10月に入って、黄色く垂れた穂の隣に新しい穂が出てきて花をつけた。新しい穂が実るのを待って、月半ばを過ぎても収穫しないでいるが、果たして一食分の米がとれるかどうか。どんなに技術が進歩したといっても、米作りの鍵を握っているのは日照と気温、つまりお天道様だと再認識した。
 
追記
 10月末に穂の部分をはさみで切り取り収穫。指先でしごいて籾を得たが、ちょうど30グラムの収穫であった。一食分にも満たない。来年は日当たりの良い2階のベランダで育ててみたらと、家のものは言う。

 
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