2003年12月 課題「勝負」
「フェアプレー」への疑問
横綱朝青龍の品位に関して、色々言われている。大関で初優勝した昨年暮れ、横綱審議会から、もっと品位と人格を磨くよう、特別の注文がついた。昨年の秋場所、貴乃花戦に敗れた後、「ケガしている足の方を攻めなかった自分が悔しい」と言ったという。その発言も問題となった。
貴乃花戦の感想は正直だと思う。土俵に上がるからには勝つことがすべてであり、相手の弱点を突くというのはあらゆる勝負に共通する鉄則だ。たとえそれが相手のケガによるものであっても、いやしくも土俵に上がるのであるから、そこを狙われても仕方がない。それを狙うことはフェアでないと言うが、疑問に思う。まして相手は自分より上の横綱だ。 ケガのハンディを負った者より、それと対戦する相手の方が、むしろハンディキャップが大きいのではないか。ケガの部分を狙ってはいけないという「フェアプレー」の精神が、普段の作戦、技を限定する。そのハンディは、ケガ自身のハンディに匹敵するのではないか。一方、ケガをしている方には、同情という味方がつく。そうした精神的な面を考えると、極めてやりにくいのではないか。 もう一つの例は、今もってフェアプレーの鏡とされ、美談となっている84年のロサンゼルスオリンピックの柔道の山下泰裕対ラシュワンの決勝。準決勝で右足をケガした山下の右を狙わなかったラシュワンのプレーが称賛を浴び、後にフェアプレー賞をもらった。直後のインタビューでラシュワンは「山下が右足をケガしているのが分かっていたから狙わなかった」と言っている。 ラシュワンには普段通り戦って欲しかった。「フェアプレー」への圧力から、それが出来なかったとしても、少なくとも、ケガをした足を意識的に狙わなかったという発言は自分の胸にしまっておいて欲しかった。山下にしてみればそう言われることは、自分の金メダルの価値にけちをつけられたような気分ではないだろうか。 ラシュワンの「フェアプレー」よりも、朝青龍の勝つことへの飽くなき執念を私は買う。 補足
エッセイ教室で下重さんは私の主張に賛同してくれた。
「ラシュワン」と「山下」でインターネット検索するとたくさんヒットし、あのプレーに関する色々な意見を閲覧できる。フェアプレーと称える意見が多いが、反対の意見も結構ある。前者の代表はhttp://www.akiminami-h.hiroshima-c.ed.jp/hanasi/judoyamasita.htmであり、右足をケガしたのだから、左足に重心があり、そちらを狙うのは作戦として当然で、フェアプレーでも何でもないというのはhttp://www.spopara.com/sp/cover/0003-ohta/ohta05.htmlである。
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