2004年3月 課題 「穏やか」    
 
穏やかな風土―我がルーツ
                                                     
 私の両親はともに渥美半島の太平洋岸、現在の豊橋市西七根町の農家で生まれ、育った。母の家は私の曾祖父の時代に父の家から分家したもので、二つの家は隣同士だ。母は父の家のことを「本家(ほんや)」と呼び、父は母の実家を「隠居」と呼んだ。四男の父は遠縁の金子家の養子になり、金子姓を名乗ったが、父の家も母の家も高橋姓である。西七根村は徳川時代には旗本戸田氏の知行地であり、隣の東七根村は幕府の直轄領であった。村で十数代続いている高橋一族は名門で、大本家は明治まで名主あるいは代官を務めてきた。

 渥美半島は遠州灘に面し、海岸側は常緑の照葉樹林帯で、冬でも濃い緑に覆われた森になっている。その北側に広がる台地で、人々は稲を作り畑を耕した。私は戦後の3年間を疎開先の母の実家で過ごしたが、村ではたくさんのものを作っていた。米、麦の主食から、サツマイモ、ジャガイモ、大根、白菜、ナス、キュウリ、スイカ等の野菜はもちろん、お茶、サトウキビ、桑などを栽培していた。サトウキビは搾汁し煮詰めて粗糖を作った。父の家の何万匹ものカイコが桑を食む時のザワザワという音は遠い記憶に残っている。味噌も自家で作った。炭も自家で焼いた。そして、遠浅の海岸では地引き網による沿岸漁業を行った。イワシ、イシモチダイ、イサキ、アジ、コノシロなどが、戦争中漁業が出来なかったことが資源保護の役を果たし、戦後は面白いように獲れた。浜には煮干しを作るための小屋もあった。入り浜式塩田で海水から食塩も製造した。

 黒潮が洗い、一年中陽光降り注ぐ温暖な気候と豊かな地味。農業構造改善事業により、かつての水田はキャベツ畑に変わり、酪農やハウス栽培などが行われるようになったが、渥美半島の風土は今も変わらない。季節の推移に合わせてまじめに働きさえすれば、自然は人々に十分な生活の糧を与えてくれる。

 こうした恵まれた風土は穏やかな人柄を生む。私の4人の祖父母も、私の父母も、おじやおば達も皆、人と争うことを好まず、勤勉で温厚だ。私の知る限り、村の人々も皆善良で、村民同士の諍いを聞いたことがない。

 決断力、冷酷さ、あるいは名声への執着など、傑出した人物に必要なものをこうした風土は育まない。だから、著名な政治家も、進取の事業家も、優れた芸術家も父母の郷里とその近辺からは生まれていない。東海道筋から離れているためか、戦国や幕末維新の動乱期にも歴史の舞台になって揉まれることもなかった。それもまた渥美半島に人物が出ないことに輪をかけてきたのだろう。

「ボルジア家の圧政はミケランジェロ、レオナルド・ダ・ヴィンチそしてルネッサンスを生んだが、スイス500年の泰平は鳩時計しか生まなかった」という意味のことを、映画「第三の男」の中でオーソン・ウエルズは言った。歴史の皮肉に対する鋭い洞察である。これにならえば「渥美半島の温暖な気候と数百年の泰平は渥美たくあんしか生まなかった」ということになろう。

 私も渥美の人々の特質を強く引いている。厳しい自然や過酷な圧政が培い、新しいものを生み出す原動力となる、荒々しい精神とは無縁で、他人と争うこともなかった祖父母や両親のように、平凡な生涯を終えることだろう。
 
追記
 教室では、「駿河ぼけ」「日向ぼけ」という言い方があるとコメントされた。いずれも気候が良すぎて、人々がのんびりしているのをからかった言い方だ。渥美半島は静岡県に隣接しているから、共通する点が多いのだろう。 
 オーソン・ウエルズの台詞については、例えば以下を参照:
 
    豊橋市西七根町のキャベツ畑

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