2004年4月 課題 「走る」

スイノオーザ号
                              
 もしあと100メートルあの鋭い足が持続したら、スイノオーザは昭和45年の秋から翌年の冬にかけて、今でいうグレードレースで5連勝していたであろう。勝ったクモハタ記念レースを除き、あとの4戦はすべて2着で、しかもその差がハナ、ハナ、頭、3/4馬身であったからだ。ハナの差というのは高々10センチから30センチほどの差である。

 昭和45年は私の競馬元年だ。初めて府中競馬場に行きダービーを見た。関東の快足馬アローエクスプレスと関西馬タニノムーティエの対決が話題を呼んが、タニノムーティエが皐月賞に続きダービーをも制して二冠馬となった。

 この2頭と同期のスイノオーザは、3歳馬のクラッシックレース(皐月賞、ダービー、菊花賞)には目もくれず、名を捨て実をとり自分の能力にあった一段格下のレースを選んで出走した。そのレース振りは、後方に待機し、4コーナーを回ってから、疾風のように馬群を抜けてくるものだった。名馬シンザンの末足は「ナタのような切れ味」と称されたが、スイノオーザの末足は「カミソリのような切れ味」であった。サラブレッドにしては小柄な430キロ台の黒鹿毛。私の心を熱くしたのは華やかに表街道を進むアローエクスプレスやタニノムーティエというスターではなくスイノオーザだった。

 スイノオーザの父は英国産のダイハード。その産駒はいずれも鋭い差し足を特徴とする馬が多く私の好きなタイプであった。ダイハード(Die Hard)とは「がんばり抜く」という意味だが、産駒は勝負弱かった。クラッシックレースの勝ち馬はついに産出しなかった。典型的な例は49年のダービーをハナ差で取り損なったインターグッドである。

 スイノオーザは6歳まで中央競馬で走った。しかし、3歳秋から4歳冬にかけての活躍で燃焼し尽くしたかのようにその後はさえない成績で終わった。中央競馬を引退後、東北の地方競馬で走った。その後は転々と売り飛ばされ、ガタガタの馬体になって大津の乗馬クラブにいるのを発見され、熱心なファンが買い取り、世話をしたという。最後は心臓麻痺で亡くなったとのことだ。

 私が競馬に夢中になったのは昭和45年から10年余り。競馬場に足を運んだのはダービーや天皇賞など、スイノオーザには無縁の大レースであったので、同馬の実物はついに見ることはなかった。それでいながら、スイノオーザはテンポイントやシンボリルドルフといった、圧倒的強さと気品とで時代を画し、私を魅了した名馬と同じように私にとっては忘れがたい馬である。

 若い頃のテニスやバトミントンなどのスポーツでも、今も熱中している麻雀や将棋などの勝負事でも、私は肝心の所で決め損なうことが多い。スポーツや勝負事だけではない。振り返ってみて、そこそこ二番手の位置には付け得ても、ずば抜けた一番手になることはなかった、というのが私のサラリーマンレースの総括である。

 スイノオーザの切れ味の鋭さに憧れると同時に、名より実をとりながら惜しい2着を繰り返すその勝負弱さに、私自身と共鳴するものを感じていたのだ。
 
 
蘊蓄
  スイノオーザは2歳時に函館で、2回連続でタニノムーティエの2着になっている。明けて3歳の春には京成杯でアローエクスプレスからハナ、ハナの差の3着になっている。
 昭和45年の秋にスイノオーザがハナ差で負けたのはスプリンターズステークスのタマミとオールカマーのマキノホープである。タマミはその年の桜花賞馬でかつ最良スプリンターに選ばれた短距離の女王だった。マキノホープの馬主は田中角栄氏。田中氏の持ち馬には、愛娘の真紀子さんにちなんで「マキノ」がついていた。マキノホープは氏の持ち馬では最も活躍したサラブレッドである。

 スイノオーザの最後は寺山修司の「旅路の果て」という、サラブレッドの末路を書いた本に掲載されていた。熱心なファンのお陰で、食肉にされることなく終わったと知って、ホッとした。
 
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