この項を掲載するに至った経緯

あちらこちらでサイトの亭主が書き散らかしている通り、八ケ岳は横岳の杣添尾根の中腹に山墅を構えています。ここは最寄り駅のJR小海線野辺山駅から10キロほど、クルマで30分ほど登ったところで、横岳山頂まではさらに徒歩3時間半、赤岳頂上まではさらに1時間半ほど(健脚で)の位置です。

以前は西武環境開発、現在は株ェヶ岳高原ロッジの管理下に杣添尾根添いの100万坪ほどの土地に約1300軒ほどの山荘があります。住人で作っている「海の口自然郷オーナー会」が毎年会社側と共催という形で、ここにある音楽家憧れの施設、八ケ岳高原音楽堂で「緑陰トーク」を開催しています。サイトの亭主はこの企画・立案・運営に関わっています。

オーナーの人たちにここ八ケ岳の自然をよりよく知ってもらおうという趣旨ですので、テーマを自然科学に絞り、例えば2018年「ヤマネの話」(講師は清里・やまねミュージアム、湊秋作館長)、2019年「八ケ岳の蝶ーアサギマダラとオオムラサキ」(講師はオオムラサキセンター、跡部治賢館長)、2020年「八ケ岳の地質学ーナウマン博士のフォッサマグナ発見の地・南牧村平沢峠」(講師は大塚勉・信州大教授=予定=)といったテーマで講演会を開いています。

2019年9月、日野春アルプ美術館の鈴木伸介館長から「アサギマダラに魅せられた山男の話が日本山岳会の今年の会報に出ているのでお届けします」と連絡がありました。

日野春アルプ美術館のことを少し紹介します。オーナー会会長の原田威夫氏に連れられて訪問したことがあります。山梨県北杜市長坂にあり、桜で有名な清春芸術村やオオムラサキセンターの近くにあり、ともにサイトの亭主がよく知っている場所でもあります。

清春芸術村は銀座で吉井画廊を経営している吉井長三氏が廃校の小学校あとに開設シたもので、当時サイトの亭主がいた新聞社のパリ支局長から、一度取材してあげてと国際電話が入り出かけました。パリ・エッフェル塔の階段を移設したり蜂の巣状のレンタルアトリエを若手画家に提供したり、武者小路実篤、志賀直哉ら白樺派の絵画を展示してある立派な施設です。小学校跡なのでソメイヨシノの大木が並んで春には一大、桜の名所になる場所で、このサイトの「さくら」の項で紹介しました。

アルプ美術館
日野春アルプ美術館
それはともかく、日野春アルプ美術館は鈴木館長個人の趣味で集めた山に関する絵画、著作などが展示されています。例えば山岳画家、坂本直行の作品40点があります。その中には八千草薫から寄贈された大作絵画もあります。夫の谷口千吉監督が集めたものですがトシをとってきたので山荘(サイトの亭主と同じ海の口自然郷にあり、我が家から50メートルと離れていない)に置くよりも、よく理解している方のところがふさわしいという思いから寄贈されたといいます。八千草薫は2019年亡くなりましたが、このサイトの亭主はささやかながら交流があり、マドンナ追悼の一文を掲載しています。

鈴木館長の説明で坂本直行は北大出身のアルピニストでもあることを教えられました。サイトの亭主も北大で、驚いたことに鈴木館長が小樽商大の出だといいます。札幌では毎年「北大ー樽商(タルショウ)」の定期戦があり、応援合戦が駅頭で繰り広げられる仲でもあります。そんなことで意気投合し、何度かお邪魔する間柄になりました。


坂本直行
若い頃の坂本直行
包装紙デザイン
デザインした六花亭の包装紙
坂本直行  明治39年(1906)7月26日 - 昭和57年(1982)5月2日
「なおゆき」と読むが、人々は親しみを込めて「ちょっこう」さんと呼んでいる。山岳画家、植物画家だが他の2点で有名。一つは坂本龍馬の直系の子孫であること、もう一つは北海道で観光客が必ず買い求める帯広市の製菓会社「六花亭」のホワイトチョコをはじめとするお菓子類の包装紙(北海道の花のいろいろをデザイン)を描いた画家としてだ。

 北海道・釧路生まれ。北海道大学農学部入学、在学中は山岳部に在籍し、登山に親しんだ。卒業後は温室園芸を学ぶために東京の温室会社に就職し、その後、札幌で温室園芸会社を起業するが、失敗。1936年に25町歩の土地を取得し、自ら牧場経営を始める。その間、ツル夫人と結婚し7人の子どもをもうける。十勝の原野に入り開拓農民となったもののその生活は想像を絶し、ついに離農。

坂本直行
坂本直行
また、この時期、北大山岳部OBとしてペテガリ岳登頂計画に参加したほか、北海道の自然をモチーフとした風景画や植物画を書き始める。1957年、第一回個展を札幌市で開き、1959年には東京で個展を開催、独特の画風が人気を集め、以降は画業に専念した。

直行は生涯、龍馬のことを語らなかった。土佐には出かけたこともない。ひたすら農民として、画家として生きた。1982年、膵臓癌のため、札幌市で死去。

鈴木伸介館長から連絡をもらったのは緑陰トークでアサギマダラの話が終わったあとだったので「この会報がもう少し早かったら参考になったのに・・・」と残念そうな文面が添えられていましたが、読んでみると学名の由来や、アサギマダラの魅力と不思議がぎっしり詰まったエッセーであることがわかりました。

2019年9月3日に頂いたのですが文末に「八千草さん入院中とか。深く、心配しているところです」とありました。マドンナは翌々月の10月24日亡くなりました。訃報を聞いた時、日野春アルプ美術館の階段の踊り場に飾ってあった坂本直行の大作が瞼に浮かびました。

坂本絵画
「新緑の原野と日高山脈(1959)
この絵は、坂本直行「新緑の原野と日高山脈(1959) で日本橋・白木屋デパートで開かれた坂本直行個展で谷口千吉・八千草薫夫妻が購入して50年間にわたっって東京・世田谷の自宅2階の一室に掛けられていました。八千草さんがアルプ美術館を訪れた、2015年(平成27年)坂本作品が多数展示されているのを見て、自宅に置くよりもと寄贈されました。

その後「アルプ美術館」の鈴木伸介館長がもっと大勢の人に見てもらったほうがよいというので八ヶ岳高原ロッジへの寄贈を希望され、館長とロッジの岩見和敏社長両方と昵懇の海の口自然郷の原田武夫オーナー会会長が仲介して実現したものです。

株ェヶ岳高原ロッジでは、この絵にもっともふさわしい場所は、北海道ゆかりのヒュッテだろうと展示場所を食堂の壁面と決めました。ヒュッテは尾張徳川家の当主、徳川義親公の東京・目白にあった自宅を移設したものです。

この建物は徳川家の「領地」だった北海道・八雲の開拓地から取り寄せたタモ材をふんだんに使い、手斧(ちょうな)削りという建築史上からも由緒あるもので重要文化財指定が待たれるものです。目白にあったころ、日本最初のバイオリン演奏会などが開かれ、多くの文化人から革命家まで出入りした場所でもあります。先だってロッジが行った改築ではタモ材などが現在では入手難で、瓦も石の一枚板でこれまたなかなかないというので数億円の経費がかかった程です。

八ケ岳高原ヒュッテの食堂壁面に飾られたこの絵画の説明文にはこうある。 「北海道で制作された当作品は八千草さんに導かれ東京から山梨へ、そして長野のやつがだけこうげん海の口自然郷の安住の地へ、長い旅路を経て辿り着いたことになる」

HPづくりの師もファンだった

上のように、坂本直行のことを紹介した翌日、意外な方から「学生時代からファンだった」とメールを頂いた。サイトの亭主のプログラムの先生、中村せつ子さんからだった。

ホームページづくりでは、タグでHTMLというプログラム言語に書き直し、FFFTPでサーバーにアップするという 段取りを踏む。ところが坂本直行の写真などがアップできない現象が起きた。そこで先生に相談したら、たちどころに サーバー側にファイルが上がっていない、と解決策の返答があったのだが、その指示のあとに次のような 一文が添えられていたのである。

「坂本直行さんは、私は入学前から『原野から見た山』を読んでお名前を存じ上げていました。1年目の夏、広尾の野塚のお宅にお訪ねし、奥様に人参の葉っぱの天ぷらをごちそうになりました。とてもおいしかったことを覚えています。」

なんと、彼女は早くから坂本直行のファンだったのである。 中村せつ子さんは同じ北大農学部のOBである。入学直後に、札幌から国鉄(当時)を乗り継いで広尾まで数時間はかかるところである。相当な思い入れがないと訪ねられない距離である。

サイトの亭主とは北大馬術部の同期生である。農学部なのにどこでIT技術を身につけられたのかは知らないが、スキルは小生よりはるかに高い。このサイト「八ケ岳の東から」を始め、「北大馬術部ホームページ」など数個のHP、ブログを運営しているが、自分ひとりの力ではとてもここまで手を広げられなかった。すべて中村せつ子さんの助勢があって可能だった。そんな身近に坂本直行のファン がいたとは。

日野春アルプ美術館の鈴木伸介館長は八千草薫が寄贈した坂本直行の大作を、ここに置いておくよりも八ケ岳高原ロッジで受け入れてくれるなら譲ってもよいとの意向だと、原田さんからのメールにあった。アサギマダラの取り持つ縁で面白い展開になってきた。

坂本直行の人生を紹介するNHK番組

坂本直行
坂本直行(番組から)
以上のようなことを書いてだいぶたった2023年1月、NHK日曜美術館で「山と原野とスケッチと〜農民画家 坂本直行〜」という番組が放送された。釧路で生まれ北大農学部を出たあと一時東京で園芸会社に就職するも北海道での開拓を目指し浦河に入植する苦難の人生を歩む姿が描かれていていた。彼が青春を過ごした北大山岳部の後輩たちが、開拓地ではいつも傍らにスケッチブックを置いて鉛筆一本で日高の山並を描いていたことを紹介していた。

この番組で北大正門を入ってすぐのサクシュコトニ川が流れる中央ローンを眺める場所に北大山岳部の「山岳館」があり、たくさんの坂本直行のスケッチブックや絵が残されていることも知った。長々と文章で紹介するよりこの番組一本で知ってもらうほうが早い。幸い上述の中村せつ子さんがこの番組を録画してくれていたので以下に動画を掲載する。






アサギマダラとの出会い

「約束の蝶」アサギマダラ 藤條好夫
日本山岳会 「山岳」2019年号から

(前半省略)筆者がヒマラヤ登山で九死に一生を得た話などですが、ここでは「アサギマダラとの出会い」から再録。

 時は流れて、ハヌマン・ティバ登山からおおよそ30年後の2003年8月の中旬、南八ヶ岳、権現岳の三ツ頭ピークに向けて私は登っていた。身内がJR小海線の甲斐小泉駅近くに別荘を構えた。訪ねたら権現岳へ延びるアトノ尾根の麓であることに気付いた。別荘の玄関からザックを担ぎ、出発できる手軽さであった。ひと汗かき、カラマツ林の中で一服していると、見掛けぬ綺麗な蝶が近くのマルバダケブキにふわりと止まり、吸蜜を始めた。山麓に国蝶の「オオムラサキ・センター」があったが、入場料を払って昆虫を見学するほど当時は興味がなかった。

 

目の前に止まった蝶を見ながら「高い料金を払わなくてもオオムラサキが見られた」と、独りほくそ笑んでいた。当時はオオムラサキとアサギマダラの区別もつかない、浅く恥ずかしい知識であった。近寄って写真を撮った。オオムラサキにしては赤味がかっているな、と思いながらも……。

 帰宅し、インター不ット上の写真と比べたら、オオムラサキではなかった。偶然、写真の蝶と同じデータに出くわした。名前は「アサギマダラ」。初めてロにした名前であった。読んでみたら驚きの内容だった。日本列島で北上と南下を繰り返す。距離は太平洋を渡り2000`bも移動する。遠くは台湾までの移動記録があり、翅ににマーキングし、放蝶しての調査活動が行なわれている。どれも、自分が持っていた蝶のイメージから外れていた。そんなときタイミンダ良く、薬師岳登山□の有峰湖のビジター・センターからアサギマダラ訓査のメールが届いた。

 興味半分で参加してみた。一応の捕獲やマーキンダ方法などレクチャーされて、湖畔の林道へ向かった。秋風に乗ってアサギマダラが優雅に漂つでいた。要領も得ず、やみくもに網を振り回したが、当日は3頭ほど捕まえた。慣れない手付きで、翅に富山県から放蝶した記号の「TSN」記号と番号・日付などをマーキンダして放した。

蝶の数え方は「匹」ではなく「頭」と数える。翅はセロハンのような感じで張りがあり、鱗粉はない。物珍しさもあり、子どもたちに交じっての楽しい時間であった。

 翌年も参加した。少しずつアサギマダラについて調べ、知識を得ていった。ある日、捕まえたアサギマダラに記号が書き込まれていた。志賀高原から放たれた個体であった。また、私の放蝶したのが高知県で再捕獲された。

こんな小さい蝶がはるか遠くに移動できることが、私の感覚では当時、驚異に感じられた。当初、秋だけ捕まえていたが徐々に夏にも、そして、北上する季節の春にも出かけるようになった。少しずつアサギマダの生態が理解できるようになって面白くなってきて、「マーキンダ調査活動」に参加していた。

 アルピニズムに駆り立てられ、挑んだ若さ日の峰々。ご多分に漏れず、中高年登山と称し仲問と和気あいあいと過ごした山旅の日々。しかし、アサギマダラに関心を持ってからは、全く違う山での時間の過ごし方になっていた。

頂を踏んだ数の満足よりも、華やかに咲き乱れる稜線の花々や鳥たちに会う感動よりも、裾野に広がる日本の緑豊かな森や林の中で自然を感じながら過ごす充実感かたまらないし、新たな出会いと安らぎの連続である。

 大小様々な動植物で溢れている。これらが溢れている山麓、それは小宇宙であり、ある種のカルチャー・ショックを受けた。ある意味で、山では上しか見ていなかった自分に気が付いた。そこでは、太古の昔よりたくさんの生物がしたたかに生命をつないぐいる。アサギマダラとてはるか昔からその中を移動しながら現在に至っているのである。

 アサギマダラが海を渡って移動すると驚いているが、それは、日本列島が分断される以前の地形の変遷を考えれば、なんら不思議なことではないらしい。なぜなら、昆虫は形態を変化させながら、4億年以上を生き続けているのである。

彼らは生き抜くためのノウハウを備えている。アサギマダラの長距離移動を可能にする「くびれ」と「うねり」のある翅の効率的な動きを研究し、それを模した羽根を使った自然の風を作り出す扇風機が発売されている。動植物の優れた機能を工業製品に応用することを、生物摸擬技術(バイオミメティクス)と言う。

 北上移動中のアサギマダラが北陸に来る5月中旬は、意外と標高の低い場所を飛んでいる。家の窓から見える大鷲山の林道へは20分と近い。山菜採りを兼ねて捕虫網を持って出かける。草木が芽吹き始め、さわやかな風が吹く中を、ポツリポツリとアサギマダラがたなびいている。翅を痛めないよ 初夏になると気温も上がるので、適温を求め1000m以上の高山ヘアサギマダラは移動する。世代交代するのもこのころである。9月になり秋色が濃くなるころ、高地で過ごしたアサギマダラは温暖な地に向けて繁殖・越冬のため一斉に南下を開始する。ときとして、数百頭の群れとなり突然、飛来する。秋のマーキングは大忙しで、体力勝負である。

 剱岳北方稜線の僧ヶ岳山腹は、日本海沿いを南下する群れの休息地らしい。たくさんのアサギマダラが舞っている。この時期、毎年、福島や長野からのマーキンダされた個体を捕まえる。また、富山から放蝶した個体を京都・四国・九州、遠くは与那国島など各地から再捕獲したとの嬉しい連絡が届く。全国的に、各地で自然観察会を兼ねた「マーキング会」がこの時期に大々的に開催されるからである。

 不思議な蝶である。1日で100km移動するのはざらである。2日問で700`移動したという記録もある。ときおり、平気で登山者の髪や衣服に止まることもある。突然現われた数百頭の群れが、翌日には忽然と姿を消す。愛好者はこの不思議さに魅了されるのである。私もいつしかアサギマダラを求め、捕虫網を携えて出かける日々を送っていた。なぜこんなに気に掛かるのか、と不思議に思いなが ら……。

 ハヌマンとアサギマダラ、そして神話『ラーマーヤナ』 「ハヌマン・ティバ登山」と「アサギマダラとの出会い」。全く関係がないと言えるこの2つの事柄がつながっているのに気付く出来事が起きた。マーキング調査に夢中になり、10年ほどたったある日であった。本棚の中が煩雑になってきたので並べ直し、整理していた。ふと手にした本が、沖先生さんから贈られた例の『インドの山と街』であった。懐かしく拾い読んでいた。ハヌマン・ティバの山名由来の部分を読み返していたとき、「シータ」という文字にくぎ付けになった。
  

 「ハヌマン」とはヒンズー教の神のことである。イン
  ド中世の大叙事詩「ラーマーヤナ」で活躍する猿の顔
  をした神である。物語の主人公「ラーマー」はその妻
  「シータ」を魔王「ラーヴァナ」に奪い去られた。救い
  出す為、ハフマンが捜索の旅に出て……

 と書いておられた。この「シータ」という名前が引っ掛かった。アサギマダラの学名は「パランテイカ・シータ・ニッポニカ (『Parantica sita niphonica」で、マダラチョウ亜科の一種である。「シータ」という名は、蝶が発見されたインド・ヒマラヤ山地にちなみ、ヒンズー教の女神の名前から名付けられたことは知っていた。「ハヌマン」も「シータ」もともにヒンズー教の神の名前である。もしかして、と思いヒンズー教の『ラーマーヤナ』を調べてみた。その内容は思わず「えっ」と声を上げるほどの驚きであった。

 ヒンズーの三主神の一人であるヴィシュヌ神は、10通りのものに化身できるのである。そのうちの一つの姿が、物語の主人公のコーサラ国王子ラーマーであった。そのラーマーがあるとき、ヴィデーハ国ジャナカ王の王女の婿選びに参加して、見事に射止め妻とする。その王女の名前こそ、アサギマダラの学名である「シータ」であった。神話の中では、女神シータとは農業と実りを支配するとともに貞淑・貞節を具え、美貌でヒンズー教では理想の女性とされている。

 しかし、妻シータがあるとき、ランカー島(現在のスリランカを指すとの説あり)に住む魔王ラーヴァナにより、突然奪いさらわれるのであった。ラーマーが妻シータを取旦戻すための戦いの物語が、『ラーマーヤナ』の主題である。

 この救出の旅に途中よりお伴し、活躍するのが猿の神ハヌマンである。ハヌマンはランカー島に乗り込み、太激戦を繰り広げた末にシータを救い出す。怪力・忠誠心・不死身の神様としてヒンズー教徒の間では人気が高い。仲間の傷を癒す薬草を求めヒマラヤ山中に出掛けたが、見つからず「エイッ」とばかりに山ごと持ち帰ったとか、太陽を果実と間違えて食べそうになったとか、豪快である。現在も各地のヒンズー教寺院では、神の使いとして猿が大事にされている。

 猿が主人公とともに旅をして活躍するこの話は、やがてアジアの各地に広がり、いろいろな物語に取り入れられたと思われる。中国では、三蔵法師のお伴をした孫悟空か活躍する『西遊記』がある。孫悟空か天上界で厩(うまや)の番人をしていたように、古来、中国では猿が神の使いと崇められていた。これはヒンズー教でのハぬマン神と同じである。

 日本にもご存じの童話『桃太郎』があり、猿がお伴して鬼ヶ島で活躍する。また、庚申信仰なるものもあるが、中国道教が伝来したものと言われている。しかし、学者の南方熊楠の説によると、これも例のヒンズー教の『ラーマーヤナ』のハヌマン神がモデルと言われる。一方、女神「ンータ(別名ラクシュミ)」もやがて仏教に取り入られ、日本に伝来する。その名前は「吉祥天」と言う。美・幸運・繁栄・豊穣の神である。さわやかな風に乗り、野山を飛んでいるアサギマダラは、心安らぐ吉祥の蝶である。

 『ラーマーヤナ』の主人公のラーマーにも触れておこう。先に、ラーマーの元の姿であるヒンズー教三主神の一人ヴィシュヌ神は、10通りのものに化身できると触れたが、それはラーマー以外では魚・亀・人獅子・英雄など多彩である。その10化身の一つに「ブッダ(仏陀)」がある。ブッダとは元々個人を指すものではなく、真の悟りを得た人を指していた。それが悟を得た釈迦族の王子の「ガウタマ・シッダールタ」と結び付いて取り入られ、仏教の祖「お釈迦様」として広まったのであった。故に仏教では、ブッダとは釈迦を指すのである。東南アジア諸国では、今日も日常生活に『ラーマーヤナ』が深く影響を与えている。たくさんの演武劇・影絵劇などが演じられている。仏教国タイでは、このヒンズー教の経典をうまく仏教と融合させて取り込み、ラーマー仏教文化を創り上げている。故に国王は代々ラーマーを名乗り、現在は「ラーマー10世」である。

 アサギマダラの学名が神話の女神シータより名付けられていたが、そのシータを猿神ハヌマンが旅路の末に見付け、助けた物語など全く知らなかった。若さ日にハヌマン・ティバに挑み、奇跡とも思える生還をしたこと。そして、年月を経て心穏やかにアサギマダラを求め野山を歩く今のこと。この2つの出来事は、ヒンズー教の神話『ラーマーヤナ』の物語を知ったとき、私の思考の中で時空を超えてしっかりと結び付いた。

 もちろん、非科学的である。でも、あの日、下山の途に着く私の後ろ姿に、「雪崩より生き延びたのだから、やがてシータを捜す旅に出よ」と、ハヌマンが呪丈を投げ掛けていたと信じている。そして今、アサギスダラを追い掛けているのは、ハヌマンより託された女神シータ捜しの旅なのか。再度書くが、井科学的であり、夢 物語である。しかし、そのヒンズー神話の中でシ−夕を捜して旅をする自分を空想の世界で登場させて、第2幕をしっかりと創り上げていた。緑豊かな森の水陰で、風に乗って現われるアサギマダラ(シータ)を待ちながら、自作自演の夢物語を楽しんでいる。

 アサギマダラの生態

 アサギマダラは、蝶類の分類ではタテハチョウの仲間に分類される。漢字で書くと「浅葱斑」となる。前翅は濃い茶色で、後翅は赤い色の模様を持って、その色で縁どられた薄青い部分の浅葱色から名付けられている。この浅葱色の部分に、油性ペンを使い情報(場所・氏名・番号・日付を記号でマーキング)を書き込み放蝶する。後日、各地で再捕獲されたら書き込まれた情報を読み、飛行日数や距離 などを割り出して記録していくのが、現在行なわれているマーキング訓査手法である。

 両麹を広げると手のひらくらいの中型蝶で、適温の20〜25度を求め、春には温暖な南方より北上し、秋には反対に越冬のため南下移動をして繁殖を繰り返している。北上当初、本州では平地に来るが、梅雨時期ともなり気温が上がると、涼しさを求め里山から高山帯に移動する。夏季には、高地の近距離移動を繰り返して過ごす。近距離移動と言っても、↓00`b以上移動している例もある。近年は、温暖化の影響で北海道までもたくさん渡っでいる。

 ただし、重要なことは、北上と南下の個体は世代が違うということである。行ったことのない場所への移動を、古来より繰り返しているのである。その途中には、広大な太平洋が広がっている。世界中のマダラチョウ類は移動が確認されているが、海を渡るのはアサギマダラだけである。

 1980年ごろに、「アサギマダラは渡りを行なっているのでは」と疑問を待った研究者の呼び掛けに応じて各地の愛奸者がマーキンダ調査に参加し、移動が立証されたが、それまでは生態も含め謎に包まれた蝶であった。

 私か昭和40年ごろ、初めて登った白馬岳の山小屋で記念に買った「フォトカード・セット」を今でも持っていて、その中の1枚にアサギマダラがある。裏の説明文に、現在ならびっくりするような文章が堂々と添えてある。「本種は北海道では全島に産するが、中部以西は分布しないものと思われる(中略)発生は年一回七月〜八月。成虫で越冬」とある。

 生態が分からなかったとはいえ、余りにもでたらめな記述である。小学生まで参加してのマーキング訓査の結果、しっかりとした生態が把握されたのは、30年くらい前からである。

 アサギマダラには、「渡り蝶」と「旅する蝶」との二通りの表現がある。仏は「旅する蝶」が実態に合っていると思う。鳥の渡りのように越冬地などの点と点を結ぶ移動ではなく、北上時でたとえれば、桜前線ならぬアサギマダラ前線のごとく暖かさを追って移動してくる。それも各地で産卯を繰り返しながら。秋の寒さを避けての南下時も、温暖な場所では産卵をしながら南西諸島付近を目指している。

 遠くは台湾まで渡り、捕獲されている。高尾山など関東平野から西の太平洋側で降雪のない所では、幼虫などでの越冬が確認されている。

 タテハチョウ科の蝶は毒蝶が多いが、アサギマダラも毒蝶として有名である。毒と言っても、蛾のように鱗分か皮膚に着くとかぶれるということではなく、体内に毒要素を蓄えて、鳥に襲われるのから守っているということ。それは体内で生成するのではなく、植物成分のピロリジジンアルカイドロ (PA)を取り入れている。

 幼虫の食草ではイケマやキジョランなどのつる性植物の葉より、成虫はヨツバヒヨドリやフジバカマなどの花よりの吸蜜行為で体内に蓄積している。烏がアサギマダラを食べるとこの毒を嫌い、吐き出すとも言われている。蜘蛛が巣に引っ掛かったアサギマダラを切り落とす動画を見たことがある。

 幼虫時代は、食草の葉の上で黒地に鮮やかな黄色の模様で、成虫になると浅葱色を鮮やかな赤模様で飾り立て、鳥たちに対し警戒色を示しながら優雅に舞っているのを見ると、なるほど、と納得する。アサギマダラはカモフラージュではな く、はっきりと自分を目立たせて、外敵から身を守っているのである。

 特に雄はPAを摂取して、体内で性フェロモンに変化させるのである。その匂いを発散させて雌を呼び寄せ、繁殖行為につなげるので、絶対に必要な物質と言える。PAを持つ花の匂いには非常に敏感と言われていて、十数`先からでも嗅ぎ付け、集団で飛来する。特に越冬地に向かう秋は、各地のフジバカマ畑を数百頭の群れとなって訪れ、吸蜜を繰り返しながら南下移動をするのである。

 O・5gにも満たない蝶が、なぜ2000kmhもの旅をで+きるのか、どのようにして目的地を見付けているのか。確たる学説はいまだに確立していない。確立しない故に謎を秘めた蝶で、愛好者を魅丁しているのであろう。言えるのは、気象状況を確実に読んで、移動手段としての風を上手く利用しているのである。それも、移動先の気象情報をも把握していると言うのである。

 同じ話を、北米大陸のメキシコとカナダ問、5000kmの移動を繰り返している、オオカバマダラチョウを主役としたテレビ番組で見たことがある。数十万頭のオオカバマダラが風に乗り移動する様子は、気象レーダーに捕えることができる。広大なカナダ国境の湖を渡るときは、風の吹き出しを待って湖畔にとどまっているらしい。

 アサギマダラとてそれよりも広い太平洋を渡り、遠くは与那国島々国境を越え台湾まで、驚異の移動をしている。それも最善の風を捕える能力を駆使して。体内磁石を使って方位が感知できるとともに、アサギマダラには紫外線が見える、との説もある。空気中に漂うエアロゾル(浮遊微粒子)が紫外線と乱反射している様子が空気の動き、すなわち風の流れとして見えていると言う。ときには渦巻く上昇気流として見える。故にアサギマダラを観察していると、人間には見えない上昇気流を上手く捕え、天高く舞い上がったと思ったら下降滑空に転じ、一気に前進飛行していく。2000`を飛び続ける技として、エネルギーを使わずに飛行するには絶対不可欠な能力である。

 アサギマダラはヒマラヤ一帯でも生息している。果たして、ヒマラヤ山麓のアサギマダラはどんな生態で過ごし、どこを旅しているのだろうか。

 これからのことなど

 私は「アサギマダラの生態を調査して」などと決して大上段には構えていない。それは日本鱗翅学会などが行なう分野である。旅の途中であろう「ロマンの蝶」に、山の風を感じながら触れ合える時間が、たまらなく楽しいのである。アサギマダラのマーキング調査は、放蝶者がいても再捕獲してもらわなければデータとして成立しないのである。1000頭放蝶しても、捕まえてもらわなければ苦労はすべて水泡と消える。近年、自然観察の一環として子どもたちも参加する「アサギマダラーマーキンダ調査会」が各地で行なわれ、再捕獲率も上がり、その不思議な生態の一端が分かりつつある。

 ここでぜひ紹介したい日本山岳会の会員がいる。北九州支部の福村拓己会員である。山口県を含め中国地方のアサギマダラ調査の記録が乏しかった時期、福村会員がマーキング調査に参加されてから日本海沿いを移動する情報が多 数発表され、南下ルートの一端が解明されてきている。富山県から放蝶している「TSN」記号の個体を、たびたび再捕獲してもらっている。当初、福村さんが山伝会会員とは知らなかったが、「北九州支部報」63号で調査活動が掲載されているのを見てお礼のメールを出し、連絡を取り合う間柄となった。

 また、福村さんの調査の結果、大分県の九重山でのアサギマダラの越夏行動が知られることとなり、主に本州の山岳地帯で夏を過ごすものと思っていた皆を驚かせた。大乱舞していた、と書かれていた。山口県から九住高原に、7月から9月にかけて23回も通ったそうである。情熱的な行動力が感じられる。福村会員の放蝶した個体が台湾・香港でたびたび再捕獲され、移動訓査の貴重な記録としても報告されている。

 また、私が「富山支部報」に「アサギマダラに誘われて・旅するロマンの蝶」と題しか文章を掲載したことがあった。しばらくして東京多摩支部から「こちらの支部報に再掲させてほしい」と申し込みがあった。アサギマダラ調査に関心を持っている会員がいることが嬉しかった。後日、掲載になった「たま通信」10号が届いた。その巻末の編集後記で「藤條会員の実体験にもとづく原稿でした。山好きの息吹が伝わってくるようでした。(中略)全国三一支部(当時)が交換している支部報には興味深い情報が多く掲載されています。交流の輪を広げていきたいと思います」と載せてあった。

 そう、「交流の輪」なのである。日本山併会がほかの山登りの同好会とは一線を画するとなれば、それは山というフィールドでつながっている、各会員の活動内容の多様性にあると言えよう。登山技術はもちろん生物学・伝承や民俗学・芸術・文学など、あらゆる分野の山に関する趣味・文化で集うのが目本山岳会である。それを、山岳会の創設当時の理念を綿々と引き継いできた「質」とも読み替えても良いのではなかろうか。そういう同好の士が、支部をまたがって情報交換できればすばらしいことであろうし、日本山岳会の強みである。自然豊かな各地の山々に分け入り、二のマーキング訓査に参加している会員がいるはずである。毎年、私が放蝶したマーキング蝶の再捕獲情報をいただいているが、もしかしたら、その再捕獲者の中に福村会員のように同じ日本山岳会の方がいるのではないかと 思っている。遠方の支部の会員同士の交流を、アサギマダラが結んでくれる。これは楽しいことになる。

 私かマーキンダ調査を開始したとき、地元富山ではアサギマダラの生息に関する情報がはとんどなかった。そこで、岳友などにお願いして目撃情報を集め、時期的

な生息場所などが把握できるようになった。富山支部では、公益事業として高頭山で登山道整備を5月中句に行なっているが、作業途中でアサギマダラが毎年たくさん飛んでいるのを発見した。ほんのわずかの区間であるが、ときとして数十頭の群れで飛んでいることもある。北上移動時に、山中でこれだけまとまって見られるのはまれである。

 全国各支部の方々は、それぞれ地元の山麓を幅広く分け入っておられるはずである。会員の皆さん、花に止まり休んでいるアサギマダラを見掛けたら、ちょっと足を止めて観察してみていただきたい。翅に記号が書かれている、貴重なマーキング蝶を発見できるかもしれないし、もしかして、把握されていないアサギマダラの繁殖・集結地の可能性もある。なぜなら、アサギマダラを調査している人たちは、そんなに奥山深く入り込んではいないからである。全国でマーキングして放蝶した数の、ほんの2%にも届かない発見率で、大方は行方不明なのである。

 奥山にひっそりと乱舞している貴重な場所を、会員の皆さんは自覚なしに目にしているのかも知れない。ぜひ目撃情報を発信してほしい。特に春先から初夏にかけての情報が少ない。登山道でアサギマダラを見付けたら、白いタオルをクルクルと手首を使い早めに回してみてもらいたい。アサギマダラは興味を示し、翅をV字にして滑空し近寄り、あなたの周りを飛び回り続けるだろう。そして、汗ばんだ手やザックに平気で止まる。

 現在、インターネット上の情報交換の手段として代表的なものでは「アサギマダラの会」(大阪市立自然史博物館)と「アサギネット」(個人のホームページ)がある。画像掲示板やフェイスブックが備えてあり、情報の書き込みなどができる。偶然写したマーキングされたアサギマダラの写真を、一般の人々がたくさん投稿してくれている。どちらのホームページからも随時、メーリング・リストヘの参加ができて、たくさんの愛好家が情報のやり取りをしている。

 平成11年から行なわれていた、日本鱗翅学会のアサギマダラ・プロジェクトによる調査は終了している。だが、愛好家による驚きの新知見が、今も発見・発表され続いている。年問↓万頭以上のマーキングをしておられた、有名な研究者の方が言っておられる。「アサギマダラを知ることは、常識を超えることである」と。今も謎に満ちた蝶なのである。

 毎年、夏山登山の喧騒が収まるお盆過ぎ、上野君の遭難現場である白馬岳玉枝付近へ花を供えに行き、ひとときを過ごしてくる。そこでは、夏のさわやかな風に乗ってたくさんのアサギマダラが舞い、私を出迎えてくれる。やはり私にとってアサギマダラは、ハヌマン・ティバから生還し、やがて出会わなければならなかった・「約束の蝶」である。