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米沢は織物の町。機屋(はたや)の末娘に生まれた母は、祖母の方針でいろんな習い事をした。あるとき鼓(つづみ)を打って家族を驚かせた。
三笠宮殿下が来られた時、ご接待役に選ばれお茶を差し上げたころの写真らしい。
昭和13年、上野・精養軒で挙式。翌年、長男・健が生まれた。板橋区常盤台の住まいには陸軍士官学校の生徒がよく遊びにきたが、彼らが腰に下げていた短剣が子供心にも怖かった。
大阪に移り住んでからはじめた俳句。佳人という言葉がもっともぴったりした橋本多佳子先生には心酔。こどもを連れてご自宅におじゃましたこともあった。
橋本先生が亡くなられて、句会は日本の俳句界をリードされた山口誓子先生のもとで開かれるようになった。温厚な人柄は多くの人を引き寄せた。
大阪府の公安委員長などをつとめられた猪俣敬次郎氏夫人、みよ様とは京都、奈良をはじめよくご一緒した。国立京都近代美術館長をされていた今泉篤男 氏が米沢出身ということもあって、美術館から瓢亭で食事というコースがなんどか。
(猪俣みよ様は2009年9月3日、98歳を目前に亡くなられたとのこと。夫が関西フィルの指揮者をされているという孫の藤岡典子さんよりスペインからメールをいただきました。 「この写真を海外で見て懐かしく、大好きで尊敬していた祖母でした」とありました。)
身なりには無頓着の方だったが、晩年は着物が多かった。足の具合が思うようでなかったので、大阪・難波駅の階段を抱き上げて下りたことがあるが、軽くてつい、「・・・母を背負いて三歩歩まず」の短歌を思い出した。
仲がよかった。戦後、陸軍士官学校の生徒名簿に戦死した人の名を朱色の筆で消していくのが日課だったころ、母がそばで黙って墨をすっていた。
健・真喜子の結婚式(昭和45年4月4日 大阪ロイヤルホテル)。「雪散華」にはないのだが、鬼籍に入られた方が多いので記念に掲載した(平成18年8月アップ)。
九州の親戚と(平成2年5月)。玄界灘に近い菖津が父の故郷。半農半漁の村のために干拓事業に乗り出したのが原因で家が逼迫した。丘の上に村の人たちが建てた祖父の顕彰碑が残るのみ。
母方の親戚と(平成2年7月、那須高原)。米沢に家族が疎開したこともあって、当時の遊び仲間でもある従兄たちを中心にいまもよく集まる。2年ごとの一族会も10回を数えた。
兄の看病でしばらく滞在した米沢・土手の内町の分家の庭で。年月日不明。
男ばかり3人。マスコミ、建築、商売とまるで仕事が違うので相談することも互いにない。東京、横浜、大阪と分かれて両親の住まいは今空き家同然。
平成16年(2004)10月16日、母の十三回忌と父の追善供養を唐津・松雲寺で。前年結婚した長女、恵理子と連れ合い、治郎丸俊紀も参列。 17年1月には両親にとってはひ孫が誕生することを報告した。
両親はじめ先祖が眠る宮崎家の墓。
松雲寺は一等地である唐津城の堀の内にある。宮崎家の墓は本堂の前、鐘撞き堂の横というこれまた一等地だ。
母の13回忌での九州の親戚の皆さん。翌日みんなで菖津を訪ねた。3回忌以来の訪問だった。前回、新田の土地台帳筆頭にある「宮崎一之助」 の名前を削除してほしいという人の手紙がたくさん届いたものだった。
菖津を訪ねた帰途、呼子の近くのイカ料理の浮き船店「萬坊」で食事した。前回もここで食べたのだが、お手伝いさんとして母を支えてくれた柳秋子さん (左から4人目)も山口から駆けつけてくれた。
菖津の村と入り江を一望する丘の上に立つ宮崎一之助の顕彰碑。彼が開発した新田は写真の右奥の入り江にある。収穫は終わっていたが黄金色に輝いていた。 初参加の渡辺美恵子さん母娘、中移昭彦さん夫婦も「祖父の偉業をはじめて知った」という。叔母たちは謙虚で子供になにも説明しなかった。
菖津の村から小舟でも渡っていける対岸に開いた「一之助新田」。訪ねたときはちょうど稲刈り寸前で黄金色に波打っていた。
宮崎一之助。「明治参拾X年 唐津白石写真館」の印があるから、令二が生まれる明治38年前後の、まだ干拓事業に乗り出す前、菖津から唐津に出てきて撮影したもののようだ。宮崎家は嘉助、一之助、令二、健と続くものの、嘉助以前の資料がないためルーツはそこまでしかたどれない。屋号が「五島屋」なので五島列島の島々の人相手の商売だったのかも。郵便局から雑貨まであったというから、今のスーパーのようなものか。


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