都電のあった頃       

  

東京での第一夜、遅くまで電車の音がうるさくて寝付けなかった。

 昭和24年の正月明けのことである。両親と私と妹の一家四人は、疎開先の豊橋の母の実家から東京の三田に引っ越した。戦争まで父が勤めていた会社の事業が順調に動き出したのだ。私は10歳になったばかりであった。家は道一つ隔てて都電の三田車庫に面していた。翌日の朝も早くから電車の音がした。

 家は国電田町駅前から第一京浜を少し浜松町寄りにいったところ、第一京浜からは一ブロック奥まったところにあった。田町駅周辺と三田は幸い戦災を逃れ、古い家並みが残っていた。家から5分ほどのところにある南海小学校は、テニスコートほどの校庭をコの字型に囲んだ木造2階建てで、大正11年に建てられた。翌年の関東大震災にも被害を受けず、戦災にも遭わなかった。

 電車の音以外に東京に来て驚いたことのもう一つは、進駐軍の兵隊さんをよく見かけたこと。田町駅を出て、第一京浜を渡ったところに進駐軍専用のクリーニング屋があり、通学路がすぐ後しろを通っていたのでよく見かけたのだ。 生まれて初めて目にする外国人だったが、田舎の友達にこんな珍しいものが見られると誇りたい気持ちはあっても、銃も持っておらず、鉄兜もかぶっていない姿は怖いとは思わなかった。

 三田車庫に配置された都電は①系統と②系統。①系統は京浜第一京浜(旧東海道)を品川・三田・新橋・銀座・日本橋を経て上野まで。何本かは浅草まで行った。東京の繁華街を貫く路線だ。②系統は三田から御成門・日比谷・大手門・神保町・水道橋を経て白山上・曙町まで。日比谷からは右にGHQの入るビル、左にはお堀と皇居があった。電車の数は圧倒的に①系統が多かった。

 小学校5年生のことだと思うが、一家で①都電で日本橋の三越へ行った。いくつかの売り場を回っているうちに、気がついたら家族がいなかった。こんなに広く、多くの人がいる場所で家族を探すことはできないと思った。田舎から出てきたばかりの私には、店員に相談することなどは思いも付かなかった。家に帰って待つほかないと決めた。お金は持っていなかったが、電車で帰るしかない。デパート前から都電に乗った。三田に着いたとき運転席側の出口から素早く降りた。うしろから転手が何か怒鳴るのが聞こえたが、知らぬフリをして電車の前を横切り家に帰った。当時の都電の運賃は8円であった。両親は迷子の呼び出しを頼んだという。私はそれを耳にする前にデパートを飛び出していたのだ。

 昭和25年6月25日の日曜日は暑い日だった。父と浅草で映画を見た帰りの都電が銀座四丁目の交差点を通ったときだった。左手の晴海通り方からけたたましい鈴の音が響いてきた。号外を配る音だった。何の号外かはわからなかったが、初めて出遭った号外の鈴の音には切迫感があり、私の記憶に強く焼き付いた。その日の早朝、北朝鮮軍が38度線を越えて南朝鮮に攻め込み、戦争が始まったのだ。緒戦は北朝鮮軍の圧勝で、ソウルを奪い、韓国軍とアメリカ軍を中心とする国連軍は釜山周辺の狭い地域まで追い詰められた。韓国が負けたら日本も大変なことになると思い、子供ながら新聞の戦況報道を眺めた。戦況が変わったのは9月に入り、国連軍がソウルの西、仁川に上陸し、北朝鮮軍の背後を突き分断してからだ。大胆且つ見事な作戦で、それを実行した国連軍総司令官マッカーサー元帥は私のヒーローになった。

 ②系統を私が利用したのは高校生になって神保町の本屋街に行く時くらいだった。本数が少なく神保町の交差点で冬の寒さの中を長く待たされたことが記憶に残る。

 ③系統は品川、飯田橋間を走った。品川駅から①系統と同じ線路を走り、田町駅の手前札の辻で左折し、三田通りを抜け、飯倉の坂を上り神谷町に下り、虎ノ門で120度ほど大きく左折し、赤坂見附から弁慶濠沿いに紀伊国坂を上り赤坂離宮の前を通り四谷を経て飯田橋にいたる。飯倉の坂、紀伊国坂、そして虎ノ門の大曲など、都電の路線でも最も変化に富んだ路線だった。③系統の三田二丁目から赤坂見附は私の高校時代の通学路線だった。三田通りは狭く、三田二丁目には停留所がなく、歩道で待機し電車が来たら乗り込んだ。③系統の車輌は①や②系統に比べて幅が狭く、また色がグリーンで、クリーム色の①②系統とは異なっていた。飯倉の坂をよく登り降りできたものだと思う。

 増上寺の南側一帯は芝公園で、私たちの遊び場だった。赤羽橋の近く、中心に弁天さんを祀った小さな祠がある弁天池があった。公園の中でもこの池の周辺が主な遊び場だった。池の銭亀を捕る悪童達を、堂守のおじさんが大声で怒っている光景がよく見られた。弁天池の西側は道路を隔てて、木々の緑で覆われた丘になっていた。池の側からその丘に登る道はなく、手つかずの聖域のような感じがして足を踏み入れることはなかった。今ではその丘の上に東京タワーが建ち芝公園側からも道は通じている。

 朝鮮戦争は日本に特需景気をもたらした。街をリヤカーを引いて金属類の屑を集めるおじさん達が活躍した。「アカ」と呼ばれた銅が貴重だった。私も友達の真似をして缶詰の缶に集めておいたわずかばかりの銅などの金属を、通りがかりのおじさんに持っていった。意外な高値で引き取ってもらえた。初めて自分で稼いだお金だった。以後道を歩くときはいつも下を見て「アカ」が落ちていないか気にかけた。そんなある日、学校帰りにクラスメートの母親から「金子さん何か落とし物でもしたの」と声をかけられた。さすがに恥ずかしく、以後私は屑拾いをやめたが、本格的に「アカ」を「採集」している同級生もいた。増上寺の本堂は戦災を免れたが、徳川家霊廟や五重塔などは焼け落ちてしまった。焼け跡は芝公園に隣接していて、昭和25年ごろはまだ放置されたままだった。そこが「アカ」の宝庫だったのだ。潮干狩りに使うような熊手で、焼け跡を掻き、焼け焦げて断片になり青く錆びた銅を集めるのだという。

 昭和26年(1951年)4月16日の朝、中学1年生の私は三田通りの札の辻交差点近くにいた。解任されアメリカに帰国するマッカーサー元帥を見送るためだ。マッカーサーを乗せたリンカーンは、赤坂の宿舎を出ると、虎ノ門から都電③系統の路線に沿って、品川に行き、さらに羽田空港に向かった。一家揃ってオープンカーで行くという噂があって、人々の歓呼に手を振って応える一家を想像して心が踊ったが、そうではなかった。

 目の前をがっしりとしたリンカーンが通って行った。左に夫人、真ん中に息子のアーサー君、そしてその横にマッカーサー元帥。ほんの一瞬であったがしっかりと心に焼き付けることができた。元帥は軍服姿であった。車は私の前を過ぎるとすぐに右折して第一京浜に入っていった。

 沿道を埋め尽くした群衆は20万人と報道された。人々は旗を振って見送ったという。しかし私の記憶にはただマッカーサー一家の姿を目にしたことだけが残っている。

 朝鮮の戦争は、国連軍が押し返し秋には満州との国境まで迫った。しかし、建国間もない中華人民共和国の軍隊が大挙参戦してきて、1951年の年明けにはソウルが占領された。春には国連軍がソウルを奪還した後、戦線は38度線辺りで膠着した。中国軍の補給を叩くためマッカーサーは満州の爆撃を強く主張した。トルーマン大統領は頑としてそれを認めなかった。4月11日マッカーサーは突然解任された。

 突然の解任に私は腹立たしく思った。しかし、しばらく後で、中学の国語の先生が「マッカーサーを解任できたところがアメリカの偉さだ。日本はそれができなかった」と言った。私には考えても見なかった言葉だが、それだけに心に残った。その後、満州での軍の暴走を押さえられず、日中戦争、太平洋戦争へと突き進んでいった日本の歴史を学ぶようになり、先生の言葉は心に強く蘇った。

 高校3年の夏、私たちは大田区に引っ越し、③系統都電による通学も終わった。その2年後の昭和33年には飯倉の高台に東京タワーができた。東京タワーが象徴するように日本は高度経済成長時代に入り、車社会へと入っていった。そうなると都電は邪魔でしかなくなる。荒川線を残して全面撤去されたのは昭和47年(1972年)である。

 ①系統はもともとJR線と平行していたし、②系統の廃止後はその路線に沿って都営地下鉄三田線ができた。しかし③系統を代替する地下鉄はできなかった。虎ノ門での大きなカーブと高低差の大きな路線が障害になったのだろう。私のように三田から赤坂見附への通学は、現在ではJRで田町から新橋まで行き、そこから銀座線で行くのだろう。

 三田の町も急速に発展していった。学童人口は激減し私の通った南海小学校は2000年に、港中学校は翌年に統廃合されて、名前が変わってしまった。都電のあった頃の三田通りは狭く見えたが、今は片側二車線で中央分離帯のある立派な道になっている。

 田町駅前も、三田通りも高層ビルが建ち並び大きく変わったが、田町駅前から慶応大学に向かう慶応仲通りには、個人商店が軒を連ね七〇年前の雰囲気を感じることができる。



 補足:作品は『天為』有馬朗人賞随想部門に応募した。審査員の岸本尚樹さんには2席に推して頂いたが、入賞しなかった。

2026-01-21 up


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