表浜の海辺で
                『天為』30周年記念懸賞随想 3席入選 2020年2月号掲載

 昭和20年8月15日、国民学校一年生の私は、昭和天皇のいわゆる玉音放送を聞いたという記憶はない。

 私は母の実家、愛知県渥美郡高豊村西七根(現豊橋市西七根町)に疎開していたが、覚えているのは、よく晴れた夏空が広がっていた一日であり、近くの家にやはり縁故疎開していた中学生がやってきて、開け広げられた縁側で母や叔母に向かって盛んに敗戦を悔しがり、敗戦を宣言した天皇を非難していたことだ。私も悔しかった。母も叔母も悔しがった。父と叔父は出征していて家にはいなかった。

 戦争末期に米軍の艦載機がたまに海からやってくることはあっても、直接の被害も戦争の悲惨さも目の当たりにすることのなかった田舎の人々が、敗戦をひたすら悔しいと思ったとしても、それはごく自然なことだ。ましてあの戦争の是非に疑問を抱く人など、私のまわりにはまずいなかったであろう。

 渥美半島は愛知県の南部を、太平洋に対峙して東西に延びる半島である。西七根はその半島の付け根部分、太平洋に面したところに位置する。半島の中央は台地が東西に走っており、人々はその上で田畑を耕し、米や麦の他にも甘藷、サトウキビなどさまざまなものを作っていた。温暖な気候に恵まれた豊かな農村で、西七根の隣の東七根は幕府直轄地、西七根は旗本戸田氏の知行地であった。西七根の割元と称する大庄屋を代々務めた一家から江戸時代末期に分家したのが父の実家で、母の実家は父の実家からすこし前に分家し、両家は隣あっていた。

 戦争が終わって3年余を豊かな自然の中で過ごした西七根は私の故郷となった。

 半島の太平洋側は、海蝕崖と呼ばれる標高50メートルほどの崖になっているが、崖といってもなだらかで、照葉樹に覆われている。その下は砂浜になっている。砂浜は西は伊良湖岬から東は御前崎まで続く。特に伊良湖から浜名湖までの浜は表浜と呼ばれる。木曽山系の花崗岩が風化して、天竜川によって運ばれたもので、西七根辺りの広さは30メートルを超える白砂である。すくってみると花崗岩を構成する石英、長石、雲母がはっきりと識別される。これほどの美しい砂浜を私は知らない。

 浜では戦時中出来なかった地引き網が再開された。戦争が禁漁期間の役目を果たしたようで、再開された地引き網には大漁が続いた。浜には煮干し小屋が作られ、大きな釜でイワシを茹で、むしろに干した。捕れた魚や煮干しは町からバイヤーが来て引き取っていった。生干ししたイワシは、良質の肥料として村人達が使った。

 崖の上には色見場という魚群の見張所があった。沖の海の色が変わると見張り役が「ホーイ・ホーイ」と声をあげる。母の家は村でも海岸に近く、色見場からは300メートルくらいで、林を越えて「ホーイ・ホーイ」というよく通る裏声が聞こえた。「ホーイ・ホーイ」の合図を機に、人々は野良仕事の手を止め、浜に駆けつけ、魚群を目指して和船を漕ぎ出した。最初は綱、ついで袖網という魚を追い込むための網、最後に袋網といって円筒形の袋を魚群を囲むように投下していく。帰りは逆に袖網、綱と投下して戻る。舟が戻ってくると、二カ所で綱を引く。網を引く動力は牛で、ろくろと呼ばれるドラムに綱を巻き付け、二頭の牛がドラムを回転させながら綱を引く。ドラムの横に座って、綱をたぐり寄せながら巻いて行くのは女の仕事だ。綱が終わり袖網の部分になると男たちが膝まで海につかりながら網をたぐる。男たちは冬でも下帯一丁だ。私たち子供も、地引き網がある日は浜に駆けつけた。綱を巻くのを手伝ったりして、イワシのひとつまみを持参した籠にもらうこともあったが、多くの場合は網から洩れる魚を拾うことであった。あるいは袖網にかかった魚を、大人に気づかれないように抜き取ることだった。こうして捕った魚は持って帰っていいことになっていた。

 イワシ以外にもアジやサバ、イサキ、カマス、コノシロなどがよく揚がった。すごかったのはイシモだ。あまりもの大漁だったため、地引き網の最後の部分、円筒形で長さ二〇メートル以上もある袋網が波打ち際で動かなくなり、そのうちに破れてしまった。イシモチのピンク色の魚体があふれ出た。夢中で捕まえて、籠一杯のイシモチを家に持ち帰った。

 波は荒かったが、遠浅の砂浜では泳ぐことも出来た。荒い波と細かい砂のため、波打ち際の地形と潮の流れは毎日変わる。遠浅が続き、引く波が渦になっていないようなところを見極めて泳いだ。私たち遊び仲間のリーダーは六才年上の私の父方の従兄弟の章で、10人ほどがその下にグループを作っていた。私たち同級生4人が一番年下であった。泳ぐのに適した潮の見極めは温厚でしっかりした章が行った。泳ぐというより波と戯れるといった方が適切で、波打ち際まで行って波に乗って岸に向かうか、あるいは崩れようとする波の根元めがけて頭から飛び込み波の向こうに出るといった遊びだった。

 戦争が終わって間もない頃、浜で遊んでいると、東の方から爆音がして、海岸沿いに米軍機が超低空で飛んできた。私たちは驚いて、崖側に逃げた。眼の前をジュラルミンの機体が、伊良湖の方に飛んでいった。去ったあとで、浜に戻ってみると、玉音放送の天皇を非難した例の中学生は逃げずに残っていて、「下から石を投げたら当たって、カーンと音がした」と言い放った。あり得ないことは私にも分かったが、ほらの大きさに感心した。

 同じような体験はもう一度あった。今度は海岸をジープがやってきた。ジープなど見たこともないから、遠くに見えた時から米兵だと思った。私たちのグループはこの時も崖側に逃げた。ところが、別のグループは逃げずに残っていた。ジープはそのグループのところで止まり、子供達にキャンデーを渡して、西へ去って行った。

 海が荒れて、海水浴が出来ないときは、溜池がプール替わりだった。村の北側は台地になっていて、その台地にいくつかの溜池が点在していた。溜池に入る前には、必ずその持ち主の許可を得た。そうした役目はみな章が果たした。立樋といって、溜池の水を水田に流す装置の栓には絶対に触らないことが、溜池で泳がせてもらう条件だった。私が好きだったのは、胸くらいまでの深さの澄んだ水を湛えた池だった。蛙も、時には蛇も一緒に泳いだ。持ち主がたまたま留守で許可が得られない場合は、別の溜池の許可をもらった。摺鉢型の粘土色の池で泳ぐこともあった。この池ではパンツが黄色くなるので、パンツなしで泳ぐ。上がって肌が乾いてみると、全身が、特に産毛が粘土で黄金色に輝いていた。

 砂浜の上のゆるやかな崖には冬でも黒々と輝く照葉樹林が東西に続いていた。秋から冬にかけての楽しみはこの樹林だ。秋はアケビを採りに入った。高い松の木によじ登り採った、鮮やかな紫色の皮が口を開いた完熟アケビは、当時の私には最高のごちそうであった。

 冬にはこの樹林に鳥が渡ってきた。コブチという罠を仕掛けた。囲みの中に米粒などの餌をおいて、鳥がそれを啄むと、たわめておいた木が跳ね上がり、鳥の首を打つ仕組みの罠で、すべて手作りである。一度だけコブチにかかったことがあったが、見回りに行ったときには、獲物はなくて、白い羽毛がコブチの周りに散乱していた。誰かが先に見つけて、持って行ってしまったのだ。

 メジロは鳥もちを使った。大きなモチノキの皮をはぎ、石で叩き水で洗い鳥もちを作った。叩いていくにしたがって、樹皮がネバネバしたものに変わっていく過程が不思議で面白かった。海岸の薮椿にもちを塗った棒を仕掛けた。椿の花の底には蜜がたまっていて、私もよくすすったものだが、メジロもこの蜜を求めてやっく来る。残念ながらメジロがかかったことはなかった。

 復員後、中学の代用教員や農協の事務員をしていた父に、東京のかつての職場から声がかかった。昭和24年年明け早々私たちは西七根を去った。渥美電鉄の植田駅まで、6キロほどの道を章が駆る牛車で送ってもらった。温暖な地とはいえ、正月早々の幌もない吹きさらしの牛車は寒かった。私は疎開ッ子に対するいじめもなく、すっかり村の子供になっていて、西七根を去るのがひたすら悲しかった。二つ下の妹は泣いていた。私は涙は出さなかったが、震えながらうつむいて牛車にゆられていた。

 私が西七根を去ってしばらくすると、地引き網が行われなくなった。焼津辺りからやってくるトロール船のため魚が獲れなくなったのだ。それよりはずっと後になるが照葉樹林の一部も伐採、整地されて蔬菜畑に変わってしまった。豊川用水が半島の先まで通じたので、溜池もなくなってしまった。

 数年前の冬、法事で西七根を訪れた。表浜は半世紀以上前と変わらず、少しも俗化していなかった。西の伊良湖方面を見ても、東の浜松方向を見ても、どこまでも白い砂だけが続き、人影がほとんどない。南に目を転じると、打ち寄せる波の彼方にただ太平洋の水平線が続くのみであった。足下には、細かい、さらさらと乾いた砂が、西からの季節風に煽られて、海岸とほぼ直角に規則正しい風紋を作っていた。

2022-04-23 up

   

   

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