岬に立つ
               「そるえんす」 No.38,  1996年
            
1.知床岬
 
 知床岬の先端に立ったのは59年の7月、大学3年の夏休み。もう40年ほども前のことになる。いわゆる「カニ族」のはしりで、友人と二人で、リュックに寝袋(当時はシュラーフと言った)を入れ、北海道を歩き回った。18日間通用し、道内の国鉄は乗り放題の周遊券が、学割で確か2100円だった。

 標津から羅臼に行き、町から山の方に入った所にある湯治小屋に泊まった。次の日、沿岸の昆布の番屋に人や食料、資材、手紙を運びながら、羅臼から知床半島の突端まで行く、小さな船に便乗した。進行左手は知床の山が鋭く切り立って海に落ち込んでいる。いかにも人跡未踏の山々で、断崖と海との間に所々ある、わずかな砂地に建つ番屋への交通は、船によるしかない。人びとは夏の間この番屋にきて昆布を採集する。私達の乗った船がそうした番屋の沖まで来て停まると、浜から小さな艀がやってきて、荷物を受け取り、あるいは人を乗せてまた戻っていく。夏休みになったばかりで、子供を連れて艀に移っていく婦人も何人かいた。

 進行右手には、知床半島に平行して伸びる国後島の山々が、雲の上から顔をのぞかせている。行くこと4時間半で半島先端の赤岩に着いた。昆布の密生する浅瀬を艀で運ばれて上陸した。ここはもう知床山地の険しい峰は終わっていて、大小のごつごつした岩がゴロゴロと転がる、開けた場所であった。岩の間に首のちぎれたアザラシの死体が一つ転がっていた。うち捨てられた海獣の死体が、その場の風景の中に不思議と溶け込んでいた。

 岩にもたれて、持参のパンとチーズをかじった。正面に国後の山々が間近だった。それは私が初めて見る「外国」であった。自分が今いる場所とあの青く霞む山を分かつ海には、国境という目に見えない一本の線が走っている。この線を越えて、多くの漁船がソ連に拿捕されていた。その線は越えることの出来ない線なのだ。そしてまた、その線があるからこそ私達は、恐れも感じることなくこうしてここにやってこられたのだ。当否はともあれ、今はソ連が占有している島を目の前に見ることによって、日本は海に囲まれ、海に守られている国だということが、実感として迫ってきた。それにしても、国後の山々は「外国」と言うにはあまりにも間近であった。

 ここまでやってきた旅行者は全部で四人だったが、その中にアメリカ人の旅行者が一人いた。同じように乾いた食パンの昼食をとっている彼に話しかけた。アメリカ大使館に勤めるその人は日本語も話せた。目前の景色を見ながら「いい景色ですね」と言った。私はその言葉に少し違和感を感じた。そうか、外国人にとってここは、良い景色という以外に特別の意味はないのだ。だが、私達にとってここに来た意味は単に景色を見るためではない。この景色は取り立てて言うほどの景色でもない。私たちがここに来たのは、ここが日本の最東北の端の辺境の地であるからであり、さらに、ここは「外国」である国後島が見える国境であるからなのだ。このアメリカ人の一言で、私は自分がここに来た動機を鮮明に自覚した。

 来た船で羅臼の港に帰ったのは夕方だった。標津へ帰るバスはもうないのでまた湯治小屋に泊まる。小屋の主人に明日は月に一度か二度という好天になる、と言われて、翌日は予定を変更し、3時半に起きて羅臼岳に登った。あいにく羅臼側は霧に隠されていたが、反対の斜里側はオホーツク海から、網走まで素晴らしい眺望を楽しめた。標高わずか1661メートルしかないのに、山頂付近には大きな雪渓があり、その周辺には高山植物の群が咲き乱れていた。登山者は私たちの他に三人いたのみだった。羅臼からはバスで標津に向かう。車窓から国後島が手に取るように、山肌の褐色のガレ場まで見える。これが日本の領土でないなんて、という思いがこみ上げてきた。

2.喜望峰

 83年5月に喜望峰を訪れた。前年、私は各国のたばこ関係科学者の集まりであるコレスタという組織の科学委員に選出された。科学委員会は世界各地を回り持ちで年1回開催される。それから4年間科学委員を務め、各地を訪れる機会を得たが、最初の開催地がアフリカの南端、ケープタウンと聞いたとき、是非喜望峰に行ってみたいと思った。

 土曜日に出て、次の金曜日に帰ってきたこの出張は、会議の時間より飛行機に乗っている時間の方がはるかに長かった。往きは香港経由で南アフリカ共和国のヨハネスブルグに入り、さらにフライトを乗り継ぎケープタウンに着いた。成田空港を出てからちょうど24時間であった。

 ケープタウンのテーブルマウンテンの麓にある、五つ星の格調高いマウント・ネルソンホテルで行われた科学委員会は月曜日と火曜日の午前中で終わった。私は水曜日の昼の便で帰らねばならない。ビジネスの出張で、観光のために日程をのばすことは出来ない。南アのどこかの研究所とか、他にビジネスで立ち寄るところでもあれば、それにかこつけて多少の観光も出来るのだが、何しろ今まで全く交渉のなかった国で、そんなところなどない。

 二〇人の委員のうち、かなりの人が夫人同伴であり、しかも、多くが会議が終わったら、南アの北部にあるサファリパークやその他の観光地を2,3日回って帰るという。イギリスやフランスの委員からは、一番遠い日本から来たのに、観光もしないで帰るなんて日本人はどうかしていると半分馬鹿にされ、半分同情された。

 火曜日の午後、ケーブルでケープタウンを見下ろす、テーブルマウンテンに登っただけが観光では、まる一日も飛行機に乗ってはるばる来たのに自分としても情けない。ホテルのフロントに聞いたら、喜望峰まで半日で十分往復できるという。これは是非行かなければならない。明日の午前中に行って来よう。その夜、夕食の時、イギリス、フランス、オーストリーの委員とテーブルを囲んだ際、私の明日のプランを話し、誰か同行する人はいないか誘ってみた。オーストリーのライフ氏が特に観光の予定がないので、気が向いたら行くという。それで明朝のタクシーの時間を彼に教え、もし行くならその時間にロビーに来てくれと言って別れた。

 翌日8時、チェックアウトしてライフ氏を待ったが来なかった。二人で行けばタクシー代が半分になるのにと思うと残念だった。8時20分、タクシーに乗り込む。口ひげを生やし、赤いシャツを着た中年の運転手は、ベンツを飛ばして、ケープタウンから南60キロの喜望峰を目指す。往きは大西洋側の道を通る。南アは日本と同じ左側通行だから乗っていて違和感がない。喜望峰は実際にはアフリカの最南端ではない。最南端はテーブル湾を挟んで喜望峰の東南にあるアグラス岬であるが、バスコ・ダ・ガマがインドへの航路を開いたとき、ここに上陸したことで、その名を世界史にとどめているのだ。

 喜望峰近くなって、低い灌木の台地となる。所々に山火事があり、煙が道路まで漂ってくる。通る車もほとんどない道を飛ばしていたら、どこにいたのかパトカーが出てきて、私たちの車はスピード違反で捕まってしまった。運転手は警官にしきりに謝ってとにかく、すぐに私たちはまた南を目指すことが出来た。1時間半で、岬の駐車場に着く。ケープ半島の最南端、ケープポイントはここから丘を登ったその先にある。運転手と二人で丘の上の展望台まで歩く。石垣で囲まれた狭い展望台の真下、少し先に海に突きだしたケープポイントが見え、その先にはどこまでも広がる青い海があった。インド洋と大西洋が一体になる海だ。空の色を写して微妙にその色を変える海の先には、もう南極大陸があるのみだ。展望台には数人の外国人観光客がいるのみだった。バスコ・ダ・ガマが上陸した地点、つまり本来の喜望峰はケープポイントではなく、その西側に突き出た小さな岬であった。その岬が、今上がってきたきた駐車場の先に見える。先端が丸い形をした台地だ。

 それにしても、「喜望の岬」(Cape of Good Hope)とはなんといい名前ではないか。最初にここに達したのは、ポルトガル人のディアスで、この岬は「あらしの岬」と命名された。その10年後、バスコ・ダ・ガマがここを通ってインドに達した時、ポルトガルの王様が「喜望の岬」と命名したという。ポルトガルにGood Hopeをもたらすという願いがこめられている。そして、その名は500年後の今も変わらない。

 遙かにアフリカの果てまでも来たものだという感慨が、胸を満たした。今自分が立つここと、日本とを頭の中の世界地図上に描いてみた。極東の島国と、アフリカ大陸の南端。それはとてつもなく遠い距離であった。だが、朝鮮半島の南端、釜山まではここから歩いていける、とその時気が付いた。アフリカはユーラシア大陸とつながっているのだ。もちろん、人間が作ったスエズ運河というものがあって、アフリカはアラビア半島とは切り離されてしまってはいるが、スエズ運河には当然橋があるだろうから、ともかく釜山までは歩いていけるのだ。アフリカのジャングルを横断し、ナイル川沿いに下り、アラビアの砂漠を横切り、ペルシャからシルクロードを経て中国にいたり、朝鮮半島を南下する。それはどんなに遠く、険しく、困難な道のりであろうとも、とにかく釜山までは人の足で歩いて来られる。しかし、そこから先、日本には船がなければ行けない。朝鮮と日本の間に海があることは、とてつもなく大きなことだ。日本は海で世界の大半から隔離されている。アフリカの果てまで来て感じたことは、島国であるという日本の特異性であった。

 帰りはケープ半島の東側を通ってケープタウンに帰ってきた。運転手はよくしゃべる人で、いろいろ説明してくれた。ケープタウンの郊外では、大きな病院を指し、あれがバーナード博士が世界で初めて心臓移植をした病院だなどと教えてくれた。帰りは行きより時間がかからず、正午前に空港に着いた。料金を払う段になって、南アの通貨ラントが足らなくて、不足分は米ドルで払った。日本円にして3万円を越すタクシー代であった。生涯でこれほどのタクシー代を払ったのは後にも先にもこの時だけだが、その価値は十分あったと思っている。

 昼過ぎのフライトでケープタウンを発ち、ヨハネスブルグ、ロンドン、アンカレッジを経由して成田に帰った。ケープタウンを発って実に42時間30分の旅。結局、西回りに世界を一周し、しかもアフリカの南端から、アラスカまで、地球を縦断するような出張だった。

3.ロカ岬

 せっかくユーラシア大陸の最西端、ロカ岬に立つなら、そこから大西洋に沈む夕日を眺めてみようと思った。85年のコレスタ科学委員会が、リスボン郊外の、かっての王宮のある古い街、シントラで開かれた時のことだ。ロカ岬はシントラの西、車で30分ほどの所にある。3日間の日程の会議は最後の日は昼で終わり、明日の朝のフライトで帰るばかりの5月10日のことだ。

 前日のディナーは、大西洋岸の町ラゴスのレストランでの会食だった。海にせり出した岩の上に作られたテラスで、潮風に吹かれ、青い海を見下ろしながら、食事前のひと時、私はアメリカのスミートン氏やオーストリアのクルス氏などに、2年前に喜望峰に行った話をした。そして、今回はロカ岬へ行くが一緒に行かないかと声をかけた。彼らは「Westmost Point of Eurasian Continent」への私の執着を不思議がるばかりで、誘いには乗ってこなかった。結局今回も一人で行くことにした。何故そんなところに執着するのかと言われれば、突出点への憧れと言うしかない。若い頃熱中した山登りが、空間に突き出した陸の特異点への憧れなら、岬は海に突き出た陸の特異点。そこに立つことに限りないロマンを感じる。一つのものが終わり、新しいもっと広大なものが始まるところ。ましてそれがアフリカの南端や、ヨーロッパの果てともなれば見逃すわけにはいかない。

 その日も晴天だった。昼食後、徒歩で40分位の所にある亜熱帯植物園までフランスのデローン氏と行って来た。ホテルに戻ってもまだ時間はたっぷりあったので、シントラの広場からそびえるように見える山の上に建つペナ城までタクシーで登った。アメリカ人観光客のグループの後について説明を聞いた。城からの眺望は素晴らしい。南にリスボン、西に大西洋。昔のポルトガルの王様は、リスボンからテージョ川を下り、大西洋に乗り出して行く自国の帆船を、ここから誇らしく眺めたことだろう。そのポルトガル人が、やがて喜望峰を発見し、そしてはるばる種子島に漂着し、鉄砲を伝え、戦国日本の戦法を革新し、いち早くそれを取り入れた信長が天下を統一したことを思うと、感慨が深い。私がその日の最後の観光客で、私が出るのを待っていたようにペナ城の扉が閉まった。帰りは急な坂道を徒歩でホテルに帰った。時間はやっと7時近かったが、5月中旬のヨーロッパで、しかも夏時間だからこの時間ではまだ陽は高い。ロカ岬ではタクシーなど拾えないだろうから、乗っていったタクシーで帰らなければならない。とすると早く行きすぎてそこで日が沈むのを長い時間待つわけには行かない。日没の5分くらい前に着くことをもくろんだ。ぎりぎりまで待ってタクシーに乗ることにする。

 ホテルで少し休んでから、町の広場のタクシー乗り場で運転手にロカ岬行きを告げたのは8時半頃だった。太陽は緩やかにうねる緑の大地の端にかかっていて、西の空には赤みが差し始めていた。ちょっと遅すぎたかなと不安を感じた。一路西に向かう。太陽の落ちるのは予想外に早かった。着くまでにあの空の赤みが消えないでくれと、祈るように座席から身を乗り出し、前方を見つめた。不安は現実になった。あまり交通のない田舎道で、タクシーはかなり飛ばしたが、走り出してから15分ほどであたりの田園には闇が落ちてきた。 
 ロカ岬に着いたのは9時だったが、もうすっかり暗かった。突端の碑のすぐ横までタクシーは乗り入れた。タクシーを降りると強風が吹き付け、吹き飛ばされそうになった。誰もおらず、周囲にはなにもない闇の中に大きな碑だけが建っていてた。運転手にシャッターを押してもらって、碑の前で写真を撮った。フラッシュの光もかき消されてしまうのではないかと錯覚するほどの強風だった。海はもう見えず、風の音のみが耳をふさぎロマンを味わうどころではなかった。写真を撮るとすぐにまた車に乗り込んだ。

 かくして、ポルトガルの国民詩人カモンイスに「ここに地尽き、海はじまる」と謳われた、ユーラシア大陸の最西端からの壮大な落日はわずか15分ほどの差で逸してしまった。つるべ落としとは秋の陽の形容だが、春の陽も負けずに落ちるのが早かったのが恨めしかった。
  
  2022-04-23  up

   

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