街道歩き―馬上の芭蕉  
                                  『天為』懸賞随想 第5席 佳作      2017年7月掲載


    
定年退職後の生活に何か達成感を得たくて始めたのが旧街道歩きだった。

 2007年から始めて、日本橋を基点とする東海道、中山道、甲州街道、日光街道、奥州街道の旧五街道を切れ目なく歩き終えたのは2014年の秋であった。一つの街道を通しで歩ききるのが本来の旅であるが、体への負担も大きく、時間もとれないので、日をおいて小刻みに歩いた。一日の歩行距離は25キロ前後。寄り道をしながらの歩き旅である。

 私は一人旅が好きだ。行く先々の風物と対話するには一人旅に限る。東海道の半分は妻を同伴したが、他はすべて一人で歩いた。歩き旅ではより深く、街道を行き来した人々を偲ぶことができ、歴史に思いを馳せ、その土地その土地の風を感じることができる。

 旅の計画を立てるのも旅の大きな楽しみ。二万五千分の一の地図上にこれから歩く旧街道を赤い線でなぞり、立ち寄る旧蹟をマークし、ネットを駆使し鉄道や路線バスの時刻表を調べ、ビジネスホテルや民宿の予約をする。

 街道歩きで目についたのは芭蕉の句碑と明治天皇碑。明治の初め、天皇は全国各地に行幸した。その足跡が石碑として各地に残されている。行在所はもちろんだが、明治天皇が鳳輦をとめて休息されたという碑が多い。それだけ、天皇が各地を回ることのインパクトが大きかった証しだ。御膳水を差し上げたという井戸まで大事に保存されている。

 歩き始めたのは私が俳句を始める前だった。芭蕉の句はそれなりに知っていたが、その生涯の詳しいことはあまり知らなかった。中山道や甲州街道にも芭蕉の足跡を示す石碑がかなりあるのに驚いた。東海道と奥の細道以外にもこんなところを通っているのが意外だった。甲州街道は「野ざらし紀行」で、名古屋から木曽を通り、諏訪から甲州街道を江戸に帰ってきた。中山道は、「更級紀行」で岐阜から中山道を通り、長野に出て、さらに小諸経由、軽井沢から碓氷峠を越えて中山道を江戸に帰ったことは後で知った。

 現代で街道歩きといえば、文字通り歩くことである。だから、芭蕉を初め当時の人々もひたすら歩いて旅をしたと思っていた。特に蕪村や許六が描いた奥の細道の芭蕉と曽良の旅姿が心のどこかに刷り込まれていて、二人は歩き通したと思い込んでしまった。芭蕉存命中に画かれた許六の絵では、芭蕉は法衣にずだ頭巾、手には長い杖と菅笠を持っている。蕪村の絵も、ずだ頭巾こそないが、長い杖を持ち、背には菅笠。少し前屈みの姿だ。

 芭蕉の旅が徒歩ばかりではないことに気がついたのは、東海道小夜中山を通ったときだ。

 小夜中山は金谷と日坂の間にある古くから歌枕として詠まれた峠だ。私が越えたのは三月の中旬。前日は岡部から、藤枝、島田と歩き、大井川を1024メートルと表示される長い橋で渡り、金谷まで来た。街道はJR金谷駅の裏側から、復元された石畳の坂道を登る。朝一番の急な登りだ。登り切ると日本最大の茶の産地、牧ノ原台地で、一面の茶畑が行く手に広がる。少し行くと諏訪原城趾。武田勝頼が家臣の馬場美濃守に築城させたと案内板にある。武田の勢力がここまで及んでいたことに驚く。やがて菊川村へ石畳の道を下って行く。

 菊川からは舗装された道を小夜中山目指し登る。左側がなだらかな谷になっていて向こう側の山肌高くまで一面茶畑だ。新芽の出ているところはまだほとんどない。見事に刈り込まれた茶畑には人影がない。路傍にいくつかの歌碑が現れ、峠の久延寺につく。ここまで歩いている人には会わなかったが、久延寺には日坂側から車で来たと思われる観光客が10人ほどいた。寺の周りにはブルーの幟がたくさん立ててあり、「山内一豊」の字が白く染め抜いてある。前年のNHKの大河ドラマ「功名が辻」の中で、掛川城主の一豊が上杉征伐に向かう家康をここでもてなしたと紹介された。

 小夜中山はきつい坂の難所として、特に京から下る旅人の感慨を誘ってきた。西行が二度目の東下りに際して詠んだ 

 年たけて また越ゆべしと おもひきや いのちなりけり さやの中山

 はもっともよく知られたものだ。歌碑が久延寺の前にあるが、高さ3メートルほどの大きな円筒形の石碑だ。

 日坂宿に向けて下る。両側茶畑のなだらかで明るく爽快な道だ。だが、ここらあたりに茶畑ができたのは明治以降のこと。西行も芭蕉もここを通ったときは淋しい山道であったろう。左側には次々に歌碑が現れる。紀友則、壬生忠岑などは百人一首でなじみの歌人だ。 芭蕉の句碑とゆかりの松もある。

 命なりわずかのかさの下涼み

 句は延宝四年(1676年)、小夜中山を通ったときの作。芭蕉初期の作品だ。石碑の傍には芭蕉が涼んだという松が植えてある。夏の盛りの街道歩きは辛い。今では街道の史的景観に過ぎない松並木も、当時の旅人にとってははかり知れない安らぎであったろう。「命なり」は西行の歌を踏まえたものだが、私も真夏の街道を歩いていて電柱の影さえ貴重に思えたから、この句は実感である。

 少し行くともう一つの芭蕉句碑

 馬に寝て残夢月遠し茶のけぶり

 芭蕉は馬も利用したのだ。この句は貞享元年(1684年)、郷里の伊賀へ向かう旅での小夜中山の句。「野ざらし紀行」は「廿日餘の月かすかに見えて、山の根際いとくらきに、馬上に鞭をたれて、数里いまだ鶏鳴ならず。杜牧が早行の残夢、小夜の中山に至りて忽驚く」という文に続けてこの句を載せている。芭蕉の紀行文には旅の詳細は書かれないが「野ざらし紀行」には大井川を渡った日は終日雨だったとあるから、おそらく金谷に泊まり、早朝馬で出立したのだろう。金谷から小夜中山まで私の脚で一時間半。芭蕉は五時ごろ金谷を出立したのだろう。小夜中山は六時ごろ。旧暦の八月廿日過ぎとあるから、そろそろ夜が明ける頃で、月はまだ西の空にかなり高い。日坂宿の方からは朝餉の仕度の煙が立ち上ってきた。気になるのは「馬上に鞭をたれて」というところ。杜牧の詩には「垂鞭信馬行」とあり、芭蕉も鞭を垂れて馬の行くのに任せたのだろうか。実際は自ら馬を駆ったのではなく、馬子に引かせたのではないか。「鞭をたれ」は杜牧の詩にあやかった表現だろう。

「野ざらし紀行」にはこの句の前にもう一句ある。

 道のべの木槿は馬にくはれけり

 この句には「馬上吟」という前書きがある。句碑が久延寺にあったのだが、見逃してしまった。

 つづら折りの急坂を下ると日坂宿。あとは平坦な道が、掛川へと続く。芭蕉も小夜中山峠越えだけに馬を使い、日坂からは歩いたのではなかろうか。私は途中掛川城に立ち寄り、次の宿場、東海道五三次のちょうど真ん中、27番目の宿場、袋井まで歩いて、横浜の自宅へ帰った。

 四日市の南、杖衝坂を通ったのは小夜中山から実に五年半後の10月下旬。東海道歩きを袋井で一旦中断し、中山道他旧街道を歩き終えた後のことだった。

 前日は桑名から四日市を経て内部まで。近鉄内部駅の先で内部川を渡りしばらく行くと杖衝坂。東征からの帰途、病に疲れた日本武尊が腰の剣を杖についてこの坂を登ったと古事記にあることから命名された。思ったより急な坂道でコンクリート舗装がしてある。右手にカーブする角に芭蕉の句碑と杖衝坂の由来の説明坂がある。

 歩行ならば杖つき坂を落馬かな

  この句は「笈の小文」に載る。芭蕉自身は次のように記す。

「・・・日永の里より、馬かりて杖つき坂上るほど、荷鞍うちかへりて馬より落ぬ。

   歩行ならば杖つき坂を落馬哉

 と物うさのあまり云出侍れ共、終に季ことばいらず。」

 貞享四年(1687年)師走10日過ぎ、名古屋から伊賀上野に向かう際の吟である。四日市の南、日永の追分で伊勢道が左に分岐する。日永は宿場ではないが、馬の用意がなされていたのだろう

 「歩けばよかったのに、馬に乗ったばかりに落馬してしまった」と思わずつぶやいた句。 夢見心地の小夜中山では落馬は免れたものの、ここではついに落馬してしまった。落馬と、どうしても季語が入らなかった句。俳聖としてではなく、人間としてたまらなく親しみを感じる芭蕉だ。

 こうしてみてくると、芭蕉の旅にはかなり馬が使われていたようだ。特に坂道では馬を利用したのではないか。

 芭蕉の言葉に「東海道の一筋しらぬ人、風雅におぼつかなし」というのがある。

 俳聖のありがたいこの言葉を糧として、晩学の作句に励みたい。

2022-04-23 up

   

エッセイ目次へ