被爆者の原子力技術者

20120218

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「脱原発への盛り上がりを一過性にしたくない」と話す池田隆さん=横浜市の自宅

《池田隆さん 1938年生(1)》

 「日本国内の原発において四度目の大事故が起こらぬように、まやかしの安全神話によるのでなく、その発生確率を正真正銘のゼロ(すなわち全原発の即時一時停止)にしておいてください」。横浜市に住む池田隆さん(73)は昨年3月31日、当時の菅直人首相に1300文字余りのメールを送った。

 長崎市に生まれた被爆者で、原子力タービン設計の技術者だった。「被爆の怖さも原発の危険性も経験した。両方を見た者の役目がある」。原子力は死ぬまで抱えていく問題と思ってきた。メールにはこうも書いた。「自分の無力さが悔やまれて仕方ありません」

 6月27日に再度メールを送った。「脱原発路線を突き進まれますよう、政治生命をかけて粘り強く頑張って下さることを切に期待しております」。大震災から1年。首相は交代し、民主党政権は原発再稼働を目指している。「体に何か起こるのでは」と67年抱いてきた不安を、どれだけの人に与えれば済むのだろう。(花房吾早子・28歳)

 

 

2階縁側に戻った瞬間

20120219

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「軍国幼児」だった頃の池田隆さん

《池田隆さん 1938年生(2)》

 池田隆さんの父・半治さんは三菱長崎造船所の事務職だった。父母と兄姉の5人で会社近くの長崎市岩瀬道町の社宅に住んだ。急な斜面にひな壇のように家々が並んでいた。2歳で炉粕町、6歳で新大工町に引っ越した。

 甘やかされた次男坊だった。母方の祖父と叔父が海軍の軍人で、水兵の服をよく着せられた。戦争ごっこが好きで、鉄砲のおもちゃを持って万歳をするような「軍国幼児」だった。1945年4月、兄姉と同じ長崎師範学校付属小学校に入学した。いまの市立桜馬場中学校の敷地に校舎があった。

 8月9日、爆心地から約3.6キロにある新大工町の社宅にいた。隣の家の2階縁側で、同い年の男の子と将棋を指していた。「警戒警報が出た。敵の飛行機が島原半島西進中って言ってるからこっちに来るよ」。友人の姉が階下から叫んだ。敵機の機種を当てるのが好きな池田さんは縁側から1階の屋根に出て空を見上げた。雲に覆われ、何も見えない。縁側に戻った瞬間、突然ぴかっと光った。


 

げたや釜も吹き上がる

20120220

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左から母の百合子さん、兄の昭さん、隆さん、父の半治さん、姉の芙美子さん=1942年ごろ

《池田隆さん 1938年生(3)》

 池田隆さんは長崎市新大工町の自宅の隣家2階で、原子爆弾の強い光に視界をふさがれた。続いてドーンと爆音が響いた。少し遅れて爆風が一帯を襲い、障子やガラスが吹き飛んだ。幸い南側の縁側にいたため、ガラスの破片が体に突き刺さることはなかった。

 家に帰るため階段を下りようとすると、煙突の中のように煙が吹き上げてきた。1階からげたや釜も一緒に飛んできた。1、2分続いたろうか、風が収まり、路地を挟んだ自宅に戻った。庭の池に室内の置物が浮かび、壁やふすまに窓ガラスの破片が刺さっていた。廊下に敷いた畳表は吹き上げられ、天井にくっついたまま。母の百合子さんと姉の芙美子さん(77)は家で裁縫をしていたが、けが一つなかった。母のおなかには弟の宏さん(66)がいて臨月だった。家の前の通りでは、被爆した人が行列をなして歩いていた。

 兄の昭さん(80)は諫早市に食料の買い出しに行ったきり。父は戻らない兄を心配し、三菱長崎造船所から長崎駅に向かった。


 

直前すれ違った父と兄

20120221

《池田隆さん 1938年生(4)》

 原爆投下の数日前、池田隆さんの兄の昭さんは諫早市小野町へ食料の買い出しに向かった。旧制長崎中学校の2年生だった。父は神戸、母は東京の出身で、長崎市に地縁はない。三菱造船に入社した父の初任地が長崎だった。野菜を譲ってくれる農家の知り合いや親戚は、近所にいなかった。

 1945年8月9日、兄は手に入れたサツマイモを背負い、長崎駅行きの汽車に乗っていた。あまりに重く、歩いて帰れそうにない。持てる分だけを取り、残りは駅の一時預かりに託した。あとで数回に分けて取りに来ようと考えた。馬町の諏訪神社の石段前を通りかかった瞬間、光と爆音と爆風に襲われた。自宅まで300メートル。家のそばで爆弾が落ちたに違いないと思いながら、帰り着いた。

 兄が長崎駅の改札を出たころ、父は同じ駅から諫早へ向かう汽車に乗った。兄を迎えに行くはずがすれ違った。父の汽車が道ノ尾駅を通り過ぎたとき原爆が落ちた。車内から避難したが、すぐ動き出し諫早に着けた。


 

身重の母らと歩き疎開

20120222

《池田隆さん 1938年生(5)》

 池田隆さんの父は、農家へ買い出しに行った兄を迎えに行くため、諫早駅に降り立った。農家を訪ねると「今朝帰った」と言う。駅に引き返した。歩いて長崎へ帰ろうとすると、喜々津付近で汽車とすれ違った。被爆した人たちが大勢乗っていて、長崎の惨状が伝わってきた。列車の中から「池田さん」と呼ぶ声がした。三菱長崎造船所の同僚だった。「家族に無事を伝えてくれ」と頼まれた。

 矢上あたりまで歩くと「長崎は全滅だ」と諫早方面に避難する人たちから聞こえてきた。日見峠を越え、夜遅く自宅に着いた。「みんないるか、大丈夫か」。父は大声を出して家に入った。「危ないから疎開しろ」。暗闇のあちこちで爆音とともに火柱が上がり、米軍の偵察機が空を回っていた。

 父は社員の安否確認のため会社に泊まるという。身重の母と兄姉と橘湾側の東望の浜海水浴場を目指した。本河内の水源地を過ぎ豊前坊のふもとまで歩くと、民家が消えた。トウモロコシ畑で野宿し、翌日海に着いた。


 

社宅に戻り弟生まれる

20120223

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右から2番目が池田隆さん、左端が弟の宏さん=1951年、社宅で

《池田隆さん 1938年生(6)》

 池田隆さんは母と兄姉と4人で、東望の浜海水浴場に疎開した。知己を頼り、海の家の一間を借りた。兄姉が7歳の池田さんをたらいに乗せ、海に流して遊んだ。頭上を米軍機が脅かすように低空飛行していた。「こんちくしょう」。言葉が池田さんの口を突いた。

 1945年8月15日、疎開していた大勢の人たちと昭和天皇の玉音放送を聞いた。臨月の母は「ここでは産めない」と言う。10日ほどたって父が迎えに来た。家族5人で元の新大工町の社宅に帰ることにした。

 「これからは良くなるよ。しかし、死ぬなら今のように家族一緒の時にしたいものだ」。歩きながら父が夜空を見上げた。原爆投下から2週間余り、会社に寝泊まりし、社員やその家族の死の知らせに接した。その数のあまりの多さに、無念がこみ上げていた。


 

上京し理論物理学志す

20120224

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中学3年の池田隆さん

《池田隆さん 1938年生(7)》

 池田隆さんは、大学野球のファンだった母の影響で野球少年だった。1951年、長崎市立桜馬場中に進んだ。中学でも野球部に入ったが、正選手にならず球拾いのうちに東京都大田区に引っ越した。父が三菱長崎造船所から三菱重工の東京本社へ転勤したためだ。

 区立雪谷中に転校した。兄は第五高等学校(現・熊本大)から東京大工学部に進み、航空機工学を学んでいた。池田さんも数学や理科が得意で、特に物理が好き。49年に日本初のノーベル賞を受けた理論物理学者の湯川秀樹に憧れた。「東京の子に負けたくない」と野球部には入らず勉強した。

 都立日比谷高校に合格した。「日本はお金がない。実験物理はお金がある米国がやるもの。理論物理なら紙と鉛筆で勉強できる」。教師に言われ、将来は理論物理学者になろうと思った。54年、太平洋のビキニ環礁で米国が水爆実験をした。マグロ漁船「第五福竜丸」の乗組員23人が被曝し、半年後に1人が死亡した。自分が被爆者だと思い出した。


 

平和利用で見返したい

20120225

《池田隆さん 1938年生(8)》

 ビキニ水爆実験が1954年、大々的に報じられた。池田隆さんはそれまで、長崎での被爆体験を意識していなかった。51年に東京の中学へ転校し、後楽園でプロ野球、国技館で大相撲を観戦することにも夢中だった。

 母は原爆について口にするのを嫌がった。米国原爆傷害調査委員会(ABCC)から健康調査を頼まれると、「こんなの」と提出する用紙を破り捨てた。家族の誰も被爆者健康手帳を取ろうと言い出さなかった。

 池田さんはビキニ水爆の被曝者が亡くなったという報道に、自分も被爆者だと初めて気づき、将来を心配した。「オッペンハイマーの野郎、原爆なんかつくりやがって」。米国の原爆開発を主導した科学者に、怒りがこみ上げた。その頃、日本中が核の平和利用に燃え、原発の開発に期待した。「原爆の威力を平和に使えたらどれだけいいか」。科学が核を制御できると信じていた。原子物理学の研究者になって米国を見返すため、大学受験には出ない量子力学の啓発書を読みふけった


 

東大工学部から東芝へ

20120226

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大学入学時の池田隆さん

《池田隆さん 1938年生(9)》

 ビキニの水爆実験後、原水爆禁止運動が広がった。池田隆さんは積極的な行動には出なかった。家族は皆無事で東京に移り、父は大企業に勤め経済的に困らない。何より、高校2年のクラス文集に被爆者の行列の様子を書き、匿名の悪口を言われ傷ついていた。

 1959年、二浪して東京大理科1類に合格した。安保闘争が真っ盛りだった。国会議事堂周辺でデモをし、革命歌インターナショナルを歌い、シュプレヒコールを続けた。教室で議論を戦わせ、ニーチェやハイデガーの哲学書も読んだ。「資本主義がいいか共産主義がいいか分かんねえけど、戦争では死にたくねえ」。徴兵制復活に固く反対していた。

 「浪人するようでは一流の物理学者にはなれない」。理学部ではなく工学部に進み、夢は研究者から技術者に変わった。大学4年、卒論「軽水炉型原子炉の水力学的安定性に関する研究」を書いた。原子炉よりも早く日本の技術を生かせそうな原子力発電用タービン(羽根車)に注目し、東芝に入社を決めた。


 

英学会で世界初の栄誉

20120227

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池田隆さんが設計した火力発電用タービンの回転円盤=1988年

《池田隆さん 1938年生(10)》

 茨城県東海村の日本原子力研究所で1957年、日本初の研究用原子炉に火がともった。池田隆さんが東芝に入社した63年には実験用動力炉が運転開始。そのタービンは東芝が米ゼネラル・エレクトリック社(GE)の図面で製作した。社内向け記念誌には「我が国における原子力平和利用時代の幕が開かれた」と記された。東芝はGEと技術提携し、さらに大型のタービン生産に備えた。

 土光敏夫社長(後に経団連会長)は「GE、GEとセミのように鳴くな」と自主開発も求めた。池田さんは入社10年後の73年、原子力タービンの性能に影響を及ぼす蒸気の流れについて、世界初の可視化実験に成功した。英国機械学会での発表では、100人以上の聴衆席に、研究で使った文献の著者たちが座っていた。「もう外国から教えてもらうばかりじゃない」と自信を持てた。東芝はこの年、当時国内最大の大容量原子力タービン国産1号を福島第一原発3号機に出荷した。79年には福島第二原発1号機へも出荷した。


 

技術で防げるとの自負

20120228

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福島第一原発の建設現場に立つ池田隆さん

《池田隆さん 1938年生(11)》

 中部電力は1963年から三重県の芦浜に大出力の原発建設を計画していた。東芝は受注を予定し、発電用タービン設計のプロジェクトマネジャーに池田隆さんを任命した。だが、漁師を中心に反対運動が広がった。

 「絶対安全なのに。ちゃんといいもの造って見せるよ」。放射能漏れの危険性について知識はあったが、技術で防げると自負があった。「反対のための反対ではないのか」。政治闘争に利用されているようにも見えた。2000年、中部電は計画を白紙撤回した。

 東京電力柏崎刈羽、福島第二の両原発向けのタービンを、米ゼネラル・エレクトリック社(GE)製の福島第一原発6号機に倣い東芝が製作することになった。76年、池田さんはGEに社内代表として派遣され、技術を学んだ。東芝独自の技術も積み上がり、自力で重要な設計を改善できるまでになった。82年に出荷した東北電力女川原発1号機のタービンはすべて独自に設計した。同じ頃、福島第一原発のタービンに亀裂が見つかった。


 

選べなかった原発停止

20120229

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タービンの設計図を広げる池田隆さん=1980年

《池田隆さん 1938年生(12)》

 1982年ごろ、池田隆さんが関わった東京電力福島第一原発3号機の定期検査中、発電用タービンの回転円盤に数十ミリの亀裂が見つかった。円盤は1秒に25回の高速で回る。遠心力で傷が周りに広がると、最後は砕けてタービン建屋を突き破り、放射能を帯びた蒸気が漏れる恐れもある。この時は大事故にならなかったが、亀裂がどのように発生しどれくらいの速さで大きくなるのか分からない。

 東電は「外部には知らせずやってくれ」と早急な対策を求め、「事故」ではなく「事象」と表現した。池田さんは技術提携先の米ゼネラル・エレクトリック社に飛び、亀裂の写真を見せ相談したが、米国でも同じ問題が発生し悩んでいた。研究者に尋ねても明確な答えは出ない。直観に頼るしかなかった。

 亀裂部分を取り換える応急処置か、確実な改造が終わるまで問題のある全原発を停止するか。停止を申し出ても、国と電力会社につぶされるに違いない。確固とした根拠もないまま、応急処置を選ばざるをえなかった。


 

社外の会議で事故報告

20120301

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京浜事業所時代の池田隆さん

《池田隆さん 1938年生(13)》

 福島第一原発3号機でタービンの回転円盤に亀裂が見つかった後、東芝の最終的な技術責任者だった池田隆さんは亀裂部分を取り換える応急処置を成功させた。タービン全体を十数年かけ更新する計画も並行させた。

 そのさなかの1985年、メキシコの地熱発電所に出荷したタービンが爆発した。現地に行くと、回転軸がアメ状に引きちぎられて建屋の天井まで飛散し、爆弾が落ちたようだった。非常用電源の小さなトラブルが連鎖し大事故になっていた。「これが原発なら・・・」。社内にとどめず、技術者や研究者が集まる会議で報告した。腹の中で「おまえたちも気をつけろ」と呼びかけた。86年のチェルノブイリ原発事故もひとごとではなかった。

 93年ごろ、設計だけでなく製造や生産管理も統括する部長職として、横浜市の京浜事業所に在籍した。毎朝午前7時半、明治神宮の祭神を分祀する工場内の末広神社で安全祈願をした。原発に芽生えた不信感から科学技術の限界を知り、神仏を拝むようになった


 

「科学万能」脱皮の寄稿

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《池田隆さん 1938年生(14)》

 池田隆さんは1996年、日本機械学会誌に随筆「21世紀に向かって技術者の夢」を寄稿した。原子力タービンを直接設計する立場を離れ、「科学は万能」と信奉してきた自分を振り返った。阪神淡路大震災、バブル経済の崩壊・・・。寄稿文で「いかなる社会問題でも、すべて工業・工学の力でかたがつけられると、いささかごう慢になってきた」と反省した。「使い方によっては、人類や全生物をも破滅させることもできる。強力な武器を持つ者として、技術者自身が倫理をまず社会的に確立しておくことが、何よりも急務である」。原子力という言葉は一度も使わなかったが、読む人に気づいてほしいと思った。

 最先端社会を描いた「鉄腕アトム」の著者手塚治虫に原子力を重ね、こうも書いた。「手塚治虫的なスタンスの技術開発に替わり、省資源、省エネ、環境、リサイクルなどの技術開発に、夢を持って傾注する必要がある」。だが、原子力に関わる同僚や後輩を思うと社内で主張できず、定年退職を迎えた。


 

君ならば改ざんするか

20120303

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池田隆さん(前列中央)と研究室の学生=2001年、横浜国立大

《池田隆さん 1938年生(15)》

 池田隆さんは定年退職後、関連会社への再就職を断り、横浜国立大工学部の常勤講師になった。担当の教養科目「機械工学と社会の関わり」で、毎年学生に与えた課題がある。機械メーカー課長で35歳の「君」は、会社の存亡を左右する製品に欠陥を見つけた。上司はデータ改ざんを求め、ちゅうちょすると役職交代をほのめかす。妻は「今の生活が大事」――。「その時、君はどうしますか」

 出荷を停止するか、改ざんの指示に従うか。受講者100人の答えは半々だった。ただ、改ざんを選ぶ学生の数は、就職内定率の低い年は増え、企業の不祥事が騒がれた年は減る傾向があった。学生が社会に出る前に心の準備ができればと、6年間続けた。

 若い学生たちとの付き合いは会社の動向に縛られず、給料も名誉も気にせず自由だった。大教室でセンター試験の試験官を務め、研究室では年7、8人の学生に卒業論文を指導した。原子力に関することは直接教えなかったが、陰に陽に危ないと伝えてきた。


 

代替エネを探る山小屋

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研究していた小型タービンと池田隆さん=2001年

《池田隆さん 1938年生(16)》

 池田隆さんは横浜国立大の常勤講師をしながら、自然エネルギーのモデルハウスにしようと、長野県の蓼科高原に山小屋を建てた。太陽熱を活用した暖房装置を手作りした。地域のコンビニで電気を売り各家庭に送るシステムを学生たちと研究し、発電用の小型タービンも開発した。原子力はダメだと言うだけでなく、代わるエネルギーを世の中に示したかった。講師在任の6年間でシステムを確立できなかったが、今も諦めていない。

 夜間部の授業もあった。東電の下請け会社で原発のメンテナンスを担当する男性が学生として通っていた。事故を起こさないために何が必要かを学んでほしくて、過去のトラブル事例を調べ上げさせた。「それが起こらないようにするんだよ」と声をかけた。

 講師引退後、1年の半分は山小屋にこもり、残りの半分は各地の神社や寺に巡礼の旅に出た。原子力に関する資料の大半を片付け完全にリタイアしたつもりだったが、5年後、「原子力の世界」に呼び戻された。


 

被爆者地球一周の船旅

20120305

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ピースボートでチリのイースター島に降り立った池田隆さん=2008年

《池田隆さん 1938年生(17)》

 地球一周の船旅を主催する国際交流NGOピースボートが2008年、乗船客として初めて被爆者100人を募集した。池田隆さんは兄の昭さんに誘われた。兄は三菱重工業の航空機設計部門を定年退職後、ピースボートの旅に4回参加していた。

 池田さんはそれまで被爆体験を語ったことはなかった。全く秘密ではないが、あえて口外する必要もない。「妻はよく私と結婚してくれたと感謝している。3人の子どもだっていい気持ちはしないでしょう」。死ぬまで何が起こるかわからないという健康上の不安を、皆で抱え込まなくてもいいと思った。被爆者健康手帳を取得したのも1994年。長崎市で伊良林小学校のクラス会に出たとき、同級生に「証明できる人がいるうちに取っておいた方がいい」と勧められた。

 被爆者も原発の技術者も、数は少ない。若者とも話せるならと乗船を決めた。9月、横浜を出港した。約1350人で世界23カ所を回る128日の旅が始まった。


 

起草文書に込めた思い

20120306

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豪州の外務省職員にラッド首相宛ての手紙を渡す池田隆さん=2008年、シドニー

《池田隆さん 1938年生(18)》

 池田隆さんは第1回「ヒバクシャ地球一周 証言の航海」に参加し、2008年9月から09年1月まで地球を西回りした。自分より不運で悲惨な経験をした被爆者がたくさんいる。証言活動の正面に立つより、裏方に回って手助けしようと思った。

 08年12月、豪州のシドニーに寄港した。当時のラッド首相は同じ年の北海道洞爺湖サミットで、日豪が共同議長で核不拡散・核軍縮に関する国際委員会(ICNND)を立ち上げることを日本政府に提案していた。その姿勢をたたえる手紙を被爆者から渡すことになり、池田さんの文案が採用された。

 「ウラン採掘やプルトニウム再処理工場の危険性、劣化ウランの軍事利用による被害などを考えたとき、私たちは、原子力に依存した社会から脱皮し、循環型社会の実現に向けて歩みを始める必要があります」。自然エネルギーへの転換も主導してほしいという思いを盛り込んだ。だが、乗船した被爆者やスタッフに原発反対への積極性を感じなかった。


 

行動と迷いの中で3.11

20120307

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帰郷し三菱重工長崎造船所を背景に立つ池田隆さん=2009年10月

《池田隆さん 1938年生(19)》

 池田隆さんは2009年1月、船旅を終え、横浜港に帰った。寄港地で政府宛てに手紙を渡したり、要人と懇談したりと核廃絶に向けて行動した。「やっぱり何かやらなければいけないな」。10月、旅の記録と原子力に対する意見をまとめ「ピースボート地球一周の航海記」を出版した。

 11月、内閣府の原子力安全委員会で理事を務めた大学時代の友人宛てに本と手紙を送った。「原子力に携わった私たち技術者・研究者が一般の人たちや後世の人たちにその経験や直感を伝えることも人としての責務であると考えます」。反論でもいい、同志として共に考えたかったが、返事はない。福島第一原発事故調査・検証委員会の現委員長で、当時から失敗学の提唱者として知られた畑村洋太郎氏にも手紙を書いたが、出さなかった。

 原発停止を求める市民団体に入ろうかと迷った。だが、元原発技術者としてまつり上げられるのも、原発推進の仲間と公に対立するのも嫌だった。そこへ11年3月11日が来た。


 

驚嘆しつつメール攻勢

20120308

《池田隆さん 1938年生(20)》

 池田隆さんは2011年1月、内閣府の原子力委員会が募集したパブリックコメントに投稿した。「被爆体験をきっかけに人生をかけて原子力技術に取組んできた技術者の経験的直感として、人間が核エネルギーを間違いもなく完全に制御し、防御できるとは如何しても考えられない」。2カ月後の3月11日、大震災が起き、福島第一原発事故が続いた。

 「福島1号機の爆発に驚嘆、緊急炉心冷却装置が起動しなかったのか。深夜までテレビに釘付け」。12日の日記に書いた。16日には友人で東芝の元原子炉技術者にメールを送った。「制御棒も溶けるのか」「完全にメルトダウンの場合の想定は」。次々質問した。ネットの動画で、ドイツの放射能拡散予測図やNPO法人原子力資料情報室(東京)の講演を見た。マスコミは信じられなかった。

 明治神宮の宮司に原発鎮護の祈願を頼み、30日に昔の会社仲間と参列した。帰りにビールを飲みながら議論した。「神様の次は首相だ」。当時の菅直人首相にメールを送った。


 

せめて脱原発の流れに

20120309

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イタリアのレオナルド・ダビンチ博物館で1629年製のタービン模型を見た池田隆さん=1989年

《池田隆さん 1938年生(21)》

 池田隆さんは福島第一原発事故後、東芝時代の仲間と情報交換を重ね、本や雑誌、ネットで原発関連の文章を読みあさった。「自分だけの責任ではないとの思いも慰みにはならず、痛恨の念と自省の日々が続いている」。2011年5月、同好会「企業OBペンクラブ」に入会し、初のエッセーを投稿した。

 この1年、東京電力の幹部の対応を報道で見てきた。仕事で付き合いのあった人もいる。本心から謝罪せず既得権益を守ろうとしているように見える。見苦しく情けない。原発事故の被害者は、東電から賠償金を払われても心の傷が残るだろう。原爆の被爆者もあの日を忘れられないのだから。

 「人類の知恵は失敗を経験して、手を出してはいけないものを決めてきた。もう原子力を乗り越えられると思わず、タブーにしなくてはいけない」。生きている間に全原発廃炉は難しいかもしれない。せめて、脱原発にベクトルが向いている時点で生を終えたい。=この項おわり(花房吾早子)

 

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