11)brava(bravo) : ブラバー(ブラボー)
 
 95年の夏、ニューヨーク周辺を旅行した。ニューヨーク州の州都オールバニーに住む大学時代のクラスメート、田中さんが旅行のプランを立ててくれた。田中さんの趣味にそってブロードウエイのミュージカル「オペラ座の怪人」「キャッツ」、タングルウッドの野外音楽堂でのボストンフィルによるベートーベンなど、音楽を楽しむツアーだった。その最後が、オールバニーからさらに車で1時間以上行った森の中、ギルマーグラスでの「ドンジョバンニ」の公演であった。周辺には人家の全くない真っ暗な森の中のオペラハウスであったが、満席であった。出演はニューヨークメトロポリタン歌劇団の超一流歌手とのことであった。
 
 歌劇の中頃、メトロポリタン歌劇団のプリマドンナがアリアを歌うところがあった。堂々たる体躯の彼女が舞台のそで近くで渾身の力で歌い始めた。どうやらこの歌劇の最大の聴き所らしい。私も他の聴衆と同様、神経を集中して聴く。
 
 彼女が歌い終わった時、私のすぐ後ろから「ブラバー」のかけ声がかかった。静まりかえる会場に響き渡ったその声の主は田中さんだった。遅からず早からず、歌い手の呼吸のリズムまで測ったような絶妙のタイミングの「ブラバー」であった。メトロポリタン歌劇の定期会員で、よく聴きに行っているという田中さんではあるが、多くの聴衆の前で、大スターに対してよくもかけ声を入れられるものだと感心した。ただ、私の耳は確かに「ブラバー」と聞こえたが本当は「ブラボー」ではないかと疑問に思った。
 
 その旅行中、田中さんのかけ声が特に話題になることはなかったが、私には忘れられない出来事だった。数年後、田中さんに会ったとき、この話を持ち出した。本人はもう覚えていなかった。彼にしてみれば、覚えておくほどの出来事でもないようで、それもすごいことだと思った。相手が女性の場合は「ブラボー(bravo)」ではなく「ブラバー(brava)」というのが正しいので、言ったとすれば多分「ブラバー」と言ったはずだという。
 
 かけ声のタイミングは難しいと彼も言う。このソプラノ歌手の引退公演の際、まだ歌が終わっていないのにかけ声がかかったという。かけ声は収録中のCDにも入ってしまったが、その部分を消して発売されたという。
 
 私はコンサートで曲の終わりの拍手をするときでも、誰かが拍手するのを窺ってから拍手する。まだ終わっていなかったらまずいと思うからだ。
 
 リーダーズ英和辞典にはbravaは見出し語としては載っていない。bravo のところに以下のような説明として載っている:
 イタリア語ではbravo は男子に、brava は女性に、bravi はグループに用いる。
 
 してみると、田中さんのかけ声は、イタリア流であったのだ。私たちが観た「ドンジョバンニ」はイタリア語で、英語字幕が舞台の上に表示されていた。


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