日本と深く関わったシーボルトと家族の物語
日本と深くかかわった  シーボルトとその家族の物語

「紫陽花」の学名に愛する日本人女性の名を付ける

「シーボルト」の名前を知らない人はいないだろう。歴史の授業で日本の医学の扉を開いた人物として、あるいは「シーボルト事件」を起こした人物として誰でも知っているが、詳しい日本との関わりとなるとあやふやになるのではないか。アジサイの花に自分の愛妻の名前をつけた話から紹介しよう。

シーボルト像
日本滞在中のシーボルト像。
川原慶賀作。長崎県立長崎図書館所蔵
Siebold-otakusa
シーボルトが
「ハイドランジア オタクサ」と
名付けたアジサイの押し花標本。
江戸時代に来日したドイツ人医師シーボルト(本名;フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト。Philipp Franz Balthasar von Siebold, 1796-1866)は、日本の植物である紫陽花(アジサイ)をこよなく愛し、自身の著書『日本植物誌』で(ハイドランジア オタクサ)という学名を付けて西洋に紹介した。

ただ、アジサイの学名はシーボルトが命名する以前に「Hydrangea macrophylla (ハイドランジア マクロフィラ)」という名前で発表されていたのでオタクサの名前は認められなかった。

ちなみに、ハイドランジアとはセイヨウアジサイのことで学名の由来は「水の器・水瓶(果実の形が水瓶に似ていることから)」マクロフィラは「大きな葉っぱ」という意味だ。

シーボルトは、1796年2月17日にドイツのヴュルツブルクという町で、医学者の家に生まれた。ヴュルツブルク大学医学部に入学し、医学をはじめ動物学・植物学・民族学などを学び、大学を卒業したあと、近くの町で医者として働いていたが、見知らぬ国・東洋の研究を志し、志願してそのころ世界中で貿易をしていたオランダの陸軍軍医となった。

やがてシーボルトは、オランダの命令で日本へ行くことになる。それもただの医者としてだけではなく日本との貿易のために日本のことについて調べるようにも命じられていた。裏の顔は日蘭貿易に関わる情報を収集するための「市場調査員」でもあった。

シーボルトは、1823年8月11日(文政6年7月6日)に、長崎へ到着した。そのころ日本は鎖国中で来日した外国人は、出島から一歩も出ることを禁じられていたが、彼はすぐれた医者だったので長崎の町に出て病人を診察することを特別に許されていた。

長崎に来た翌年、長崎の鳴滝(なるたき)にあった家を手に入れ、ここで「鳴滝塾」を開き、日本各地から集まってきた医者たちに医学などを教えるようになった。高野長英や伊東玄朴などの著名な蘭学者や蘭方医がここで学び、やがて医者や学者として全国で活躍する。

シーボルトは、この家に何人かの生徒たちを住まわせて、自分の日本研究の手伝いをしてもらっていた。手伝ってくれた人には、医学を勉強した証明書をあげたり、医学の本や器具などを与えた。また、シーボルトも日本人から日本のことをいろいろと教えてもらっていた。

医師であり、博物学者でもあったシーボルトは日本の動植物に関心を抱き、日本人医師の養成の傍ら、研究に打ち込み長崎の絵師、川原慶賀には著書の挿絵用に採集した動植物を描かせ、西洋に日本を発信したりしている。川原慶賀はオランダ商館お抱え絵師としてに雇われ、シーボルトが必要とした多くの動植物の精密画やスケッチを描いた。上で紹介したシーボルト像も川原慶賀の筆である。のち問題になるシーボルト事件の伊能忠敬の日本全図を模写したのも川原慶賀で、幕府から叱責処分を受けている。

冒頭で紹介したアジサイの話だが、来日後すぐにシーボルトは出島の遊女 17歳の其扇(そのぎ)と出会い恋に落ちた。彼女こそが紫陽花の学名「オタクサ」の由来となった楠本滝、通称「お滝さん」であった。結婚した時シーボルトは28歳、滝は16歳であった。二人の間に産まれた娘イネも後に医師となり、主に産科医として活躍している。

ちなみに、植物学の泰斗、牧野富太郎はアジサイに遊女の名を付けたと烈火のごとく怒っていて、
「シーボルトガ種名トシテ用ヰタあじさゐ、即チひどらんげあ・あぢさゐハ、がくさう、一名がくあぢさゐノ事デ、普通二云フあぢさゐデハナイ。 シーボルトハあぢさゐノ和名ヲ私ニ変更シテ、我ガ閨(ねや)デ目ジリヲ下ゲタ女郎ノお滝ノ名ヲ之レ二用ヰテ、大ニ花ノ神聖ヲ穢(けが)シタ。」と書き散らしている。
個人的な恋情を神聖な植物の名に冠したことが許せなかったのだろう。

シーボルトは、1826年(文政9)、オランダ商館長の江戸参府に同行している。当時の日本では、外国人が日本の国内を自由に旅行することを禁止されていたので、シーボルトにとっては日本のことを調べる絶好の機会であった。旅の途中で植物や動物の採取をしたり、気温や山の高さを測ったりしていて、富士山の標高を「3793b」と記述している。誤差17メートルで、これはその23年前に伊能忠敬が計測した「3928b」の誤差142メートルを凌駕する正確さだった。また、道中多くの日本人が病気やけがの治療法や西洋の知識を教わりにやってきた。

江戸では、将軍や幕府の役人に挨拶したり、多くの医者や学者にも会ってお互いの知識や情報を交換し、日本研究に役立てるための品物をもらったりしている。この旅行の時に集めた本や絵、いろいろな物品は、船でオランダまで送られ保存された。シーボルトも、日本から帰った後に、調べたことを本で紹介したり、集めたものを博物館で見せたりしている。

彼が蒐集した日本の文物は文学的・民族学的コレクション5000点以上のほか、哺乳動物標本200、鳥類900、無脊椎動物標本5000、植物2000種、植物標本12000点など…6年の滞在中に収集した植物の標本や地図、美術工芸品などは数万点にも及ぶ。当時のヨーロッパにおける日本研究の第一人者として、今でも高く評価されている。


【シーボルト事件】

日本全図
伊能忠敬の日本全図。これが事件の発端だった
ところが、来日から5年目にあたる1828年、シーボルトは当時国から禁じられていた、伊能忠敬の日本地図縮図や日本に関する翻訳資料を国外に持ち出していたことが発覚する。これがかの有名な「シーボルト事件」である。

シーボルトは江戸参府の際、幕府天文方高橋景保のもとに保管されていた『伊能図』を見せられた。はじめて日本全図を見たシーボルトは感心して高橋景保に、ある取引を持ち掛けた。それは、ロシア提督クルーゼンシュテルン『世界周航記』などの外国書物を提供する代わりに、その伊能忠敬の日本地図『大日本沿海興地全図』(縮図)をもらえないかということ。当時日本地図を持ち出すことは禁止されていたが高橋景保は世界の最新事情を知ることは国防のために重要と考えてシーボルトとの取引に応じ、写しを同意した。

*高橋景保 幕府天文方、高橋至時の長男、景保(かげやす)は1804(文化1)年に父の跡を継いで幕府の天文方になった。父、至時の弟子だった伊能忠敬の実測をもとに忠敬の歿後3年の1821(文政4)年に、「大日本沿海輿地全図」を完成させた。伊能忠敬の世紀の大業も高橋景保の支援があって初めて世に出た。

シーボルト事件はこの禁制の地図の写しを大急ぎで自作し長崎に持ち帰った。シーボルトが帰国するにあたり持ち物が検査され、その中にこの伊能忠敬の日本地図や将軍家の家紋である葵の紋付きの着物など、そのころ日本から持ち出すことが禁じられていたものが見つかって大問題となった。

長い取り調べのあと、高橋景保は、文政11年(1828年)投獄され、翌年2月16日(1829年3月20日)に獄死した。死因は公式記録では斬罪とされているが、実際には獄中での病死と考えられる。シーボルトも出島に1年間軟禁・尋問されたが、純粋な博物学研究のためだったと主張を曲げず、協力者の名も明かさず、日本に帰化することまで提案するなど最後まで多くの日本人を守り通したものの、結局、国外追放処分を申し渡され帰国する。

間宮林蔵
間宮林蔵が密告したのか
シーボルト事件を密告したのは蝦夷地探検と間宮海峡発見で知られる間宮林蔵であるという説がある。間宮林蔵は伊能忠敬に測量技術を学び、享和3年(1803)に西蝦夷地を測量した人物だが、当時、長崎奉行を経て勘定奉行となった遠山左衛門尉景晋の部下となり、幕府の隠密として全国各地を調査していた。

歴史小説『間宮林蔵』(吉村昭著、講談社文庫)で吉村昭は「林蔵はシーボルト事件の密告者ではなかった」と反論している。それによると、
@密告者説の根拠になっているのは、シーボルトから作左衛門(高橋景保)を通して送られてきた小包を開くことなく勘定奉行にとどけたことだが、これは当時の国法にしたがった当然の行為で、密告ではない。
A事件が発覚したのは大暴風雨で坐洲したオランダ船コルネリウス・ハウトマン号の積荷の中から、シーボルトが国外持出しをはかった禁制品が発見されたためであった。林蔵の密告よるものではない。

”被害者”のシーボルトは、林蔵のことをどう見ていたのか――。
1832(天保3)年、シーボルトは『ニッポン』第一巻を出版した。その中には、間宮林蔵が樺太、東韃靼へ旅をしたことも紹介されていた。シーボルトは、林蔵が事件の密告者であるという噂を信じ、『日本政府側からわれわれに対する審問の契機を作った人物』として憎しみをいだいていたが、地理学の上で偉大な功績をあげたことを認め賞讃していた。

林蔵について『専門の測量技師で、スケッチにもすぐれ、地点測定のために必要な天文学的知識も持っていた』として、樺太が東韃靼の半島と信じられているが、林蔵はその調査の旅で樺太が島であり、東韃靼との間に海峡があることを発見した世界最初の人物であるとも記した。

さらにシーボルトは、林蔵の海峡発見を証明するために海峡とアムール河の河口をえがいた林蔵の地図も挿入し、その海峡をマミヤの瀬戸1808(間宮海峡)と名づけていた。・・・シーボルトの『ニッポン』には、日本から持出された林蔵の『東韃地方紀行』なども収録され、林蔵の名は、シーボルトによって世界的に知られるようになった。また、各国語に翻訳されたゴロブニンの『日本幽囚記』にも林蔵についての記述があり、かれのことはヨーロッパ人の間にひろがった」。

西洋で広く日本地図が知られるようになったのもシーボルトが模写して持ち帰った伊能忠敬の日本全図からである。

【日本に残ったお滝さんと娘イネのその後】

お滝さん
シーボルトの妻、通称「お滝さん」の楠本滝
シーボルトの国外追放の日は1829年12月30日。シーボルトを乗せたオランダ船は厳重な監視のなか出島を出港した。出港日は秘密だったが、早朝オランダ船が長崎港外の小瀬戸の沖に差し掛かった時、漁師に変装した門徒の良斉、二宮敬作たちが小舟に妻タキと娘イネを乗せて近づいてきた。シーボルトは小舟に乗り移って小瀬戸の海岸に上陸ししばし妻子と団らんの機会を持ったという。

やがて船に戻ったシーボルトは愛する家族を日本に残してヨーロッパへ旅立っていった。この時、妻タキ22歳、娘イネ2歳だった。
シーボルトは、関係者にたきとイネの「後事」を託している。オランダに着くと早速タキに「カタカナ」で、「いまでもお前とイネを私以上に愛する者は現れない」と手紙に書いている。ところがタキは、シーボルトが帰国してから1年あまりの後の1831年1月に再婚する。「和三郎という人と再婚し、イネと三人で幸せに暮らしているから安心してほしい」とシーボルトに手紙を送った。この便りを受け取ったシーボルトは「落胆し、以来、手紙を送らなくなった」という。ところが和三郎は1839(天保10)年に亡くなり、その後、タキは再婚することはなかった。このことも、タキはシーボルトに手紙で知らせている。後年(1845年11月)ではあるが、イネは「あなた様からいただいた資金を運用して商いの利息で暮らしています。あなた様のご厚意によって少しも不便を感じることはありません」と、シーボルトに知らせている。

イネ
シーボルトの娘、イネ
ドイツ人であるシーボルトと日本人のお滝さんの間に生まれたイネは、当時はまだ珍しかった混血の女性であるため、幼いころから差別を受けながらも、しっかり育っていく。

シーボルトが長崎を去る際に小舟を出して家族の別れの場をつくった塾の門下生・二宮敬作はシーボルトからイネの養育を託されていた。その彼が、出身地である宇和島へイネを呼び寄せ、ここで医学の基礎を教育する。賢い女性でシーボルトから送られてきた医学書や蘭学書を学び、石井宗謙のもとで産科を、村田蔵六からオランダ語を、ほかにも複数の師から医学を学び、イネは日本初の女性産科医としてのキャリアを歩みはじめる。

当時の日本では、産婦人科の医学は浸透しておらず、お産は汚らわしいものとして扱われ、不衛生な小屋で隔離されて行われることが常識だった。イネは西洋医学を学んだ医師として、日本の女性たちに科学的な見地に基づく出産を説き、日本における産婦人科の発展に多大な影響を与えた女性、楠本イネとして羽ばたいていく。

楠本高子
シーボルトの孫、楠本高子
イネは混血であり差別も受けてきた身のため、結婚し子どもを産む人生を諦め、医師として強かに生きていくことを決意していた。しかし、イネの師であった石井宗謙による強姦で子を授かり、出産を選択する。1852年に生まれたこの子こそが、シーボルトの孫であり、イネの娘である、楠本高子だ。

医師として働くシングルマザーのイネは、高子の教育をお滝さんに預ける。13歳になるまでお滝さんのもとで育った高子は、お琴や三味線などの芸事に打ち込み、医学の道を志して欲しかったイネを落胆させた。

しかし高子は1866年に、シーボルト門下の医者で、二宮敬作の甥にあたる三瀬諸淵(みせ もろぶち)と結婚。夫に先立たれた後、産科医を目指しはじめた。しかし、その修行の途中、高子は母であるイネと同じように、医師に強姦され、子を身ごもってしまう。

楠本イネと娘・高子
晩年の楠本イネと娘・高子。
このことが大きなショックとなり、医師の道を断念した高子。のちに再婚を果たすがまたも夫に先立たれ、以後はイネとともに暮らす。そのときに高子の生計を支えたのは、医学ではなく幼少時に熱心だった芸事だった。

後年、楠本高子の肖像写真を見た漫画家の松本零士は「この女性こそ、自分がずっと思い描いていた女性(メーテル)だ!」とその美しさに衝撃を受け『銀河鉄道999』のメーテルのイメージのモデルになったとされる。写真が残っているが確かにそれにふさわし凛とした顔立ちである。

結局、混血とその美貌ゆえに、イネ(1827-1903)も高子(1852-1938)も、波乱に満ちた人生を歩んだ。「祖母の一生も母の一生も、そして私にもほんとうにいろいろなことがございました」と晩年の高子は語っている。

高子が医師の道を断念した一方、差別や強姦など悲痛な経験を乗り越えながら、母親の楠本イネは医師としてのキャリアを順調に進めた。明治に入る頃には宮内庁へも推薦され、明治天皇の女官の出産の際にも世話役を任命されている。

【30年後再び日本を訪れる】
シーボルト
晩年のシーボルト
帰国したシーボルトは48歳のときにオランダでヘレーネ・フォン・ガーゲルンと結婚している。日本に残した妻子が忘れられなかったのか、お滝やイネと別れて17年後の遅い結婚だった。

シーボルトが日本を去って30年後、幕府による国外追放処分も解かれて、1859年(安政6)、ふたたび日本に来ることができた。シーボルトは、長男アレキサンデル(14歳)を伴い、長崎の地に立ち、なつかしい鳴滝に住み、昔の門人たちや娘・イネたちと交流しながら日本研究を続けた。このときシーボルト63歳、たき53歳、たきの娘イネ32歳、たきの初孫の高子は7歳であった。再来日したシーボルトは、「片言の日本語で話しかけ、イネはオランダ語で話しかけたという。シーボルトは持参して来たイネとたきの毛髪を見せ、『いかなる日もいかなる日も、決してお前たちのことを忘れたことはない』」と言ったという。

日本滞在中、幕府に招かれて、江戸でヨーロッパの学問を教えた。日本滞在3年後の1866年10月18日、帰国しドイツのミュンヘンで70歳で亡くなった。


【二人の息子が紡いだ日本との深い関係】
シーボルト
シーボルトの息子、
アレクサンダー(左)とハインリッヒ

 シーボルトとドイツで結婚したヘレーネ夫妻のあいだには、3人の息子と、2人の娘がいた。このうち来日したとき伴った長男アレクサンダーとその後来日した次男ハインリヒは帰国後も日本と深い関係をもち、日本のために大いに功をはたしている。

 【長男、アレクサンダー】

アレクサンダーは日本に来ると二宮敬作やその弟子の三瀬諸淵、さらには近所の僧侶からも、習字も含め日本語を学んだ。父が対外交渉のための幕府顧問となったため、親子は江戸に出て、芝赤羽接遇所に居住しすることとなった。シーボルトの口添えもあり、英国公使館通訳に雇われ日本でロシア海軍に勤務した。このときまだ15歳の少年であった。父は帰国し1866年に死したため去、息子アレクサンダーとの再会はなかった。

1867年(慶応3年)、徳川昭武(当時14歳)がパリ万国博覧会に将軍・徳川慶喜の名代としてヨーロッパ派遣を命じられると、アレクサンダーはその通訳として同行ししている。1870年(明治3年)英国公使館を辞職、文明開化の最中の新政府に雇用され、上野景範の秘書に任ぜられロンドンに派遣された。その後も外務大臣・井上馨の秘書を務めたり日英通商航海条約の調印に日本政府のために働き、1911年1月、ジェノヴァ近郊のペリにて死去した。

【次男、ハインリッヒ】

次男、ハインリッヒは兄よりさらに強く日本と関りを持った。
父シーボルトの30年ぶりの来日には同行しなかったが、ドイツに戻ったあと3度目の来日を準備する父の研究資料整理を手伝ったことで、ハインリッヒは日本に強い興味と憧れを覚えた。

兄のアレクサンダーが父の帰国後も日本での職務についており、徳川昭武使節団に同行し一時帰国したため、その兄の再来日に同行して1869年(明治2年)初来日を果たす。日本では兄と共に諸外国と日本政府との条約締結などの職務に着手、その合間に父の手伝い中に学んだことを活かし様々な研究活動を始めた。

ハインリッヒ
牧野伸顕(左)、松方正義(中央)に同行して記念写真に
おさまる、ハインリッヒ・フォン・シーボルト(右)。
1902年、ウィーンにて撮影
日本での勤務先となったオーストリア=ハンガリー帝国公使館では通訳・書記官を経て代理公使を務め、後にその功績を称えられて同国の国籍を得、同国の男爵位までを与えられている。日本が初の正式参加となった「ウィーン万国博覧会」(1873年)では、政府の依頼により兄とともに出品の選定に関わり、同万博には通訳としても帯同、シーボルト兄弟が関わった日本館は連日の大盛況で、成功を収めた。

かたわら、父同様いろんな方面で日本研究をすすめた。考古学もその一つで、「お雇い外国人」のエドワード・S・モース博士との大森貝塚発掘を発掘したり、多くの遺跡を発掘して『考古説略』を出版して日本に初めて考古学という言葉を根付かせた。兄・アレクサンダーと共に、父の大著『日本』の完成作業を行い、当時欧州で人気であった欧州王家の日本観光に随行し、彼らの資料蒐集に関わったことも後の「ジャポニスム」(日本趣味、日本ブーム)の起点にもなった。現在欧州に散らばる「シーボルト・コレクション」はその数が数万点にも及び、その約半数は「小シーボルト」ことハインリヒの蒐集したものであると言われている。

岩本はな
ハインリッヒの妻、岩本はな
彼は日本橋の商家の娘、岩本はなと結婚し、2男1女を儲けた。長男はハインリッヒがウィーン万国博覧会に帯同中に夭折したが、その後、生まれた次男・於菟(オットー)は日本画家を目指し、岡倉覚三(天心)らの開いた上野の東京美術学校に見事一期生として合格したが、創作活動中に体調を崩して25歳の若さで没している。

ハインリッヒの妻、岩本はなは芸事の達人としても知られ、長唄、琴、三味線、踊りも免許皆伝の腕前であったと言われています。当時学習院の院長であった乃木希典はその宿舎主一館の躾け担当として、若くして子供を亡くしたはなを指名した。また後には福沢諭吉の娘の踊りの師匠も務め、ハインリッヒの娘の蓮もその指導を受け、長唄の杵屋流、琴の生田流の免許皆伝を受けるほどだった。

晩年になり重病を患ったハインリッヒは、公使館の職を辞して帰国。1907年にウィーンで手術を受けて一時回復し、南チロル地方のフロイデンシュタイン城で呉秀三の『シーボルト』の翻訳に着手したが、親友で主治医でもあるエルヴィン・フォン・ベルツ博士の懸命の治療の甲斐もなく、フロイデンシュタイン城にてその生涯を終えた。享年56。