園田直エピソード集

園田直は「豪傑」だった。剣道7段、合気道8段ということもあるが、日本男児として真っ直ぐに一本道を歩んだ人生で政界ばかりでなく今なお敬愛を持たれている人物だ。女好きという一面でも、紹介したように「厳粛なる事実」「白亜の恋」の一件でも分かる通り、これをスキャンダルとして追及した者は国会でもメディアも一人としていない。

少し脇道にそれる。サイトの亭主は2018年末膵がんと診断され、癌研有明病院で肝胆膵外科の医師団に12時間に及ぶ「頭頂部切除手術」を受けた。1か月余入院生活を送り、2,019年1月中旬退院したのだが、時期が年末年始で賀状を出す間もなかったので、先輩・同僚、親戚などに欠礼を侘びがてら「がん病棟から」というレポートをまとめて。現在のがん治療の最前線を報告した。

膵臓なので自動的に「I 型糖尿病」になり、インシュリン注射を毎日自分で打つ羽目になった。そこで本文に書いたように、こうして自分でインシュリン注射が打てるのも園田直のおかげであると書いた。折しも韓国は文在寅大統領による反日運動の真っ最中であった。ありもしない従軍慰安婦、徴用工問題・・・いわれのない難癖をつけて日本に「ゆすり・たかり行為」を繰り返す韓国の「いつか来た道」に触れ、同じよになろくでもない日韓関係にあったとき、園田直ガ、国会で「韓国では嫌いな相手からカネを借りたり、技術を教えてもらう社会習慣でもあるのか」と答弁した快事のシーンも動画を見つけたので紹介した。

このレポートには反応が多く寄せられたのだが、産経新聞の名物コラム「産経抄」を書いている田中規雄記者(論説委員)から「この一文を使わせてほしい」とメールがあり、快諾した。彼の入社試験で面接したのも私なら、新人研修にあたったのも私である。「こんな研修で明日から原稿が書けると思ったら大間違いだ。小中学でどれだけ本を読み、高校で”誰”を読み、大学で何を考えたかで、もう文章能力は決まっている」と吠えたとかで、彼ら同期生の間では今も語り草になっているそうだ。

2019年2月15日の「産経抄」が以下である。「糖尿病で入院中の会社の先輩」というのが私である。

 糖尿病で入院中の会社の先輩からメールが届いた。韓国による昨今の嫌がらせの数々に、怒り心頭に発している様子である。確かに韓国国会の文喜相(ムン・ヒサン)議長の暴言に至っては、一線を越えてしまった感がある。

 ▼慰安婦問題の解決には天皇陛下の謝罪が必要である。米メディアが配信したインタビューの内容は、耳を疑うものだった。天皇陛下について、「戦争犯罪の主犯の息子」とも述べていた。

 ▼先輩によれば、昭和56(1981)年も現在と同じように日韓関係は冷え込んでいた。韓国は日本に対して、5年間60億ドルという巨額の政府借款を要請してきた。韓国が盾となって共産主義から日本を守っていると恩に着せてきたのだ。

 ▼理不尽きわまる要求に対して、当時の園田直(すなお)外相は言い放った。「カネを借りる方が一文もまけないというのは、日本の常識では通用しない」。韓国側は猛反発し、マスコミの多くは園田氏を呼び捨てにした。氏は大型プロジェクトへの援助について、「排日、抗日の原動力になる恐れがある」とも言っている。果たして、その通りになった。

 ▼驚いたことに文議長は、自分の暴言がどれほど日本国民の怒りを買っているのか、理解できていないらしい。韓国のメディアも発言を報じるようになったのは、日本側の反発があってからである。どうやら剣道の達人でもあった園田氏が放ったような、寸鉄人を刺すような言葉でないと、やっかいな隣国には伝わらないようだ。

 ▼先輩は、看護師からインスリンの自己注射の訓練を受けている最中に、何度か取材したことのある園田氏を思い出した。実は「危険」を理由に日本でなかなか認められなかった自己注射の保険適用を実現したのは、厚相も務めた園田氏だった。

2020年、あるメールマガジンを読んでいたら「年を超えた忘年の友 直さん(園田外相)」という一文に出会った。筆者は加瀬英明氏。サイトの亭主より3つほど年上だが、硬派の筆致には日頃から傾聴している。1936年、東京生まれ。慶應義塾大学経済学部、エール大学、コロンビア大学に学ぶ。77年より福田・中曽根内閣で首相特別顧問。その後、日本ペンクラブ理事、松下政経塾相談役などを歴任した。

園田直と親しく、中でもマッカーサー元帥との会談を仲立ちしたとき、菊の御紋の灰皿が出てきて、園田直は畏れ多くてタバコが捨てられず手の中でもみ消したこと、茶目っ気たっぷりな人柄で、彼の背広の裏地は深紅でそこには歌麿の春画が描かれていて、米国務長官のパーティーでそれを披露したものだから、夫人方がいっせいに背を向けた話など、興味は尽きない。

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年を超えた忘年の友 直さん

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                                                  加瀬英明

園田直
剛直、天真爛漫、大和魂、好色・・・今もって好かれる園田直
福田赳夫内閣が昭和51(1976)年に発足した翌年に、私は40歳だったが、首相特別顧問の肩書を貰って、第1回福田・カーター首脳会談の詰めをはじめ、対米交渉の第一線に立った。その後、福田、鈴木善行内閣で、園田直外相の顧問、中曾根内閣で首相特別顧問として、レーガン政権を相手に折衝した。大平正芳外相と、園田外相の2人が、私の記憶にもっとも深く刻まれている。

昭和47(1972)年に、田中角栄内閣のもとで、日中国交正常化が行われた。私は33歳で、月刊『文藝春秋』などに寄稿していたが、日中国交正常化に強く反対した。

私は毛沢東政権が歴代の中華帝国と、変わらないとみていた。当時、中国は中ソ戦争に脅えて、日本を必要としていた。日中貿易は世界で最大だった。私は米国が中国と国交を樹立してから、後追いすべきだと主張した。だが、朝日新聞をはじめとする大手新聞が「日中友好」を煽る狂態を演じて、世論を一色に染めあげていた。

私は大平外相に会って、オフレコで「いま政府が相手にしているのは、空想上の中国であって、現実の中国ではないでしよう」と貭したところ、毒虫を噛み潰したような表情を浮べて、「そうです」と答えた。

中国に一方的に有利な形で、日中国交正常化が行われた。台湾を切り捨てたが、台湾と領事関係を保てたはずだった。いまも歪(いびつ)な日中関係をつくった、戦後外交の大失敗だった。

私が園田氏を知ったのは、中学生の時だった。鎌倉の家の近くに改進党の実力者の大麻唯男氏が住んでいたが、子がなかったことから、よく菓子など御馳走になった。

園田氏は改進党の青年将校で、大麻邸で待つあいだに、私と将棋をするようになった。その時から、「直(ちょく)さん」と呼ぶようになった。

私がニューヨークに留学していた時に、園田外務政務次官がやって来て、「マッカーサーに会いたい」といった。元帥はマンハッタンに住んでいた。親しいニューヨーク・タイムズ紙記者に頼んだところ、簡単に約束がとれた。私が通訳をした。この時のことを、後に『文藝春秋』誌に随筆を書いたが、「これほど面白い随筆はない」と絶賛された。

カーター政権が77年1月に発足して、3月に日米首脳会談が予定された。直さんから「目玉がないが、知恵がないか」と求められたので、「カーター大統領に、日本が国連安保理事会の常任理事国となるのを支持すると、いわせることができる」と、メモを届けた。

当時、日本はすでに経済大国になっていたが、新聞は1人当たり国民所得が「ベネズエラ以下」と書きたてていた。私は日本国民に、自信をもたせたかった。

私はカーター政権の国家安全保障会議(NSC)担当特別補佐官となったブレジンスキ・コロンビア大学教授や、カーター大統領の師のハンフリー元副大統領と親しかった。

前年、カーター氏が大統領当選者となった時に、郷里のジョージア州の村にあった政権準備事務室を訪れて、カーター一家、政権発足後に官房長となったジョーダン氏などの側近と親しくなった。

福田総理からワシントンに使いしてほしいといわれた。「外務省顧問」という肩書を貰うことになった。外務省の山崎北米局長と会ったが、「そんなことはできるはずがない」と、木で鼻をくくったような対応だった。

前もって、ブレジンスキ補佐官、上院議員になっていたハンフリー元副大統領などに電話をして了解をとっていたので、総理一行が出発する前日にワシントンに入った。

園田銅像直
郷里の天草市河浦町にある園田直の銅像
「アマクサ・コレジヨ・オラショー館」の一角にある。
出発する前夜に、直さんから電話があった。「ところで肩書だが、外務省がごねるから、首相特別顧問で頼みましゅ」(天草出身だったから、サ行がそうなった)というので、「出世しました」と礼をいった。

共同声明に、私の“目玉”がうたわれた。

その後、米国から要人が来ると接待したが、官房長官室で機密費を貰った。部屋に小さな金庫があって、直さんが屈んであけると、段ごとに5、10、20万円が白い封筒に入っていて、ポケットから手帳を取り出して、名前と金額を書き入れた。いつも10万円貰った。

ある時、私に20万円の封筒を寄こして、「間違えた」といって手を伸ばした。私が「男は受け取ったものは返しません」と拒むと、「あげましゅ」といって、顔を綻ばせた。

園田外相の訪米に随行したが、ある夜、ホテルの大臣の部屋で、大臣、NHK出身の渡部亮次郎、後に国連大使となった佐藤行雄両秘書官と水割をのんでいた時に、私が直さんに「アメリカでハト派の発言はやめたほうがよい」と注意したところ、人前だったからか、眼を剥いて「戦場で塹壕のなかを転げまわったことがない者に、平和を語る資格がない」と、珍しく私に怒った。咄嗟に「火事を出したことがない者に、消防を語る資格がないんですか」と切り返したら、「いまの発言を取り消しましゅ」と、謝った。

直さんは中国戦線で見習士官として、砲火を潜った。終戦寸前に少佐で、空挺隊長としてサイパン島に突入することになっていた。

直さんは座談が当意即妙で、お洒落だった。

深紅の上着の裏地に歌麿の春画が、あしらわれていた。ヘーグ国務長官の宴席で上着を脱いで披露したので、夫人たちがいっせいに目を背けた。苦労人で、男らしく、実直、天真爛漫だったから、外国人を魅了した。

私と23歳の差があった。直さんに童心があったから、弟のようだった。『和漢朗詠集』に「年を超えた忘年の友」という漢籍があるが、そうだったのだろう。

いまの国会議員は、テレビの体温がないキャスターのように淀みなく話すが、酸いも甘いも分からない味盲だから、座談に味わいがない。政治がつまらなくなった。平沢勝栄議員が、数少ない例外だろう。

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加瀬英明
園田直の長年の友人、加瀬英明さん
上のコラムにもあるが、マッカーサーと会った時のことを加瀬氏が詳しく語った下りが別のコラムにあった。

当時、あのマッカーサー元帥が晩年をウォルドルフ・アストリア・ホテルで暮らしていました。その頃わたしはコロンビア大学に留学していたんですが、たまたま、外務政務次官をしていた園田直代議士がニューヨークにきてマッカーサー元帥に会いたいという。そこで、電話番号を調べて、ダメもとで副官に頼んだところ、あっさり会えることになりました。チョクさんとは、わたしが中学生のころからの将棋友達でした。

 園田さんは終戦時に特攻隊の少佐で、バリバリの大和魂を持っていました。後年、外務大臣も務められた方です。わたしが園田さんを案内して、ホテルの豪華なペントハウスを訪ねたわけです。

 マッカーサーは広大なスイートルームに住んでいました。日本でもらった3、4双の金屏風や、数々の国宝級の骨董品に囲まれていましたね。わたしたちがソファに座ると、元帥の前に洒落たシガレットボックスがありました。

 元帥は震える手でわたしたちにタバコを1本ずつすすめ、マッチを擦って火を点けてくれました。ところが、テーブルに置いてあった灰皿が、金色の菊の御紋が入った銀製の大きな天杯だったのです。

 わたしは仕方なくその杯に灰を落としましたが、園田さんはなんと灰を自分の手のひらに落として、最後は手のなかでもみ消したんです。そのとき、一瞬だけですが、肉が焦げたような臭いが立ち込めました。

 ええ、園田さんは天杯が畏れ多くて、灰を落とすことなど出来なかったんです。そういう男なんです。

加瀬英明 (かせ・ひであき) 1936年、東京生まれ。慶應義塾大学経済学部、エール大学、コロンビア大学に学ぶ。「ブリタニカ国際大百科事典」初代編集長(株式会社TBSブリタニカ、67〜70年)を経て、77年より福田・中曽根内閣で首相特別顧問を務める。その後、日本ペンクラブ理事、松下政経塾相談役などを歴任し、外交評論家に。『イギリス 衰亡しない伝統国家』『人生最強の武器笑い(ジョーク)の力 ユダヤ人の英知に学ぶ』など著書多数。