「三船遭難事件」生存者の記憶
混乱の時代にソ連の暴虐によって葬られた数多の命。後世に伝えなければならない事件だが時間が経過して生存者も少なくなった。このまま歴史の中に薄れていくのかと思っていた2025年、「この世の終わり」だった樺太からの帰還…魚雷が直撃した引き揚げ船、「三船遭難事件」生存者の記憶――と言う記事が読売新聞に掲載された。貴重な記録なので以下に転載する。([戦後80年 昭和百年] 2025年11月17日読売新聞オンラインから)
80年前の8月15日に太平洋戦争が終結した後も、苦難の道は続いた。敗戦による未曽有の混乱のなか、数々の悲劇が起きる。国の統治機能が失われたとき、人々はどのような境遇に身を置くことになるのか。体験者たちの記憶が如実に物語る。
船が傾き、吸い込まれるように人が海へと落ちてゆく。悲鳴、家族の名を呼ぶ声、貨物が崩れる音。<ドドン>と、ひときわ大きな音が響き、甲板から伸びるマストが折れた。その下にいた男性は見るも無残な姿になった。
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| 吉田勇さん |
潜水艦が浮上し、銃撃を加えてきた。第二新興丸も砲で応戦する。「この世の終わりか」と思った。
政府が入植を推し進めた満州(現中国東北部)や樺太など、戦争終結時に海外にいた日本人は、当時の全人口の約1割にあたる660万人に上る。吉田さんは35年、日本領の南樺太で生まれた。国境の北緯50度線を挟んでソ連に隣接する敷香(しすか)町で、秋田県出身の両親、6人のきょうだいと暮らしていた。
ソ連は8月8日に中立条約を破棄し、侵攻を始める。その数日前に父は召集され、義勇隊に編入された。街は騒然となり、兵士を乗せた列車が昼夜問わず、国境方面とを行き交った。
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| 吉田さんの引き揚げルート |
母らと家畜運搬用の無蓋車でたどり着いた大泊では、人波が駅から桟橋までの道を埋めていた。港の倉庫に寝泊まりし、第二新興丸に乗り込んだ。
戦闘はまもなくやみ、潜水艦は去った。機関が無事だった第二新興丸は低速ながらも留萌港まで航行を続けた。「生きのびたんだ」。港に降り立つと、安堵(あんど)の思いがわき上がった。
留萌沖で3隻が攻撃され、1700人余りの犠牲者が出た惨事は「三船遭難事件」の名で記録される。
前後に出港し、撃沈された「小笠原丸」「泰東(たいとう)丸」ではそれぞれ600人超が犠牲となった。3隻で唯一、沈没を免れた第二新興丸でも400人の死者・行方不明者が出た。
留萌市教育委員会の調査資料によると、ソ連は日本の敗勢につけ込んで北海道占領を図り、留萌上陸をもくろんでいた。潜水艦は留萌沖の監視と、日本船の撃滅を命じられていたとされる。結局、ソ連は上陸を断念し、23日に日本船への攻撃が禁じられる。この動きが1日早ければ事件は起きなかった。
3年後、母の実家がある秋田に身を寄せる一家の元に父が帰った。シベリアに抑留された後、樺太に戻され、内地に帰還する機会を待っていた。
遺骨を大事そうに携えていた。長兄の博さんだった。樺太に取り残され、父と暮らしていたものの、病で亡くなったという。再会の約束は果たせなかった。
吉田さんは言う。「引き揚げは死と隣り合わせだった。人がバタバタと倒れていった」
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| 庄司道子さん |
撃沈を免れた第二新興丸に乗っていたと知らずに育った。当時は生後11か月。父は敷香町で木材業を営み、母が自分と姉2人を連れて故郷の北海道を目指した。すし詰めの船内で母は長姉を見失ってしまう。甲板に捜しに出た直後、魚雷が命中し、夢中で船にしがみついた。約30年前、母から打ち明けられた情景だ。
増毛町では毎年8月22日、慰霊祭が行われている。母の話を聞いた後も「犠牲者に申し訳ない」との思いから出席できずにいた。しかし戦後80年の今夏、意を決して会場に向かった。
「奇跡が重なり、私は命をいただいた」との感情が込み上げてきた。自分を守ってくれた母への感謝、帰還できなかった人々の無念を語り継ぎたい。今はそう思う。