自由民主党の結成大会で万歳三唱する首脳陣や参加者たち =昭和30年11月15日 |
翌日の朝刊は大会の様子をこう伝えている。「三木老は、声量、論旨、態度とも他を圧して堂々たる漢語調の名演説。(中略)これに反して鳩山首相は、内容、音声ともにお 粗末で通り一ぺんの挨拶に終つた」(産経時事=当時の東京本社発行の産経新聞の名称)とある。他紙も「熱のない鳩山、緒方演説 三木氏ひとり熱弁ふるう」(朝日新聞)といった あんばいである。
鳩山とは大会前日まで日本民主党総裁だった首相の鳩山一郎、緒方は同じく自由党総裁だった緒方竹虎。記事が唯一たたえた三木は、民主党の最大の実力者だった三木武吉だ。 この自身の栄誉栄達は求めず、党人に徹した人物こそが保守合同の仕掛け人であり、一番の立役者だった。
保守合同までの流れ |
結局、緒方の構想は頓挫したが、保守勢力の結集が急務との思いは三木も同じだった。左右社会党は総選挙のたびに躍進しており、革新勢力が国政の実権を握りかねない情勢だっ たのだ。
そこで三木は保守合同の障害となっていた吉田の排除に乗り出す。「岸君、新党の幹事長は君がやりたまえ」。三木は後に首相となる岸信介ら反吉田派を自由党から離脱させると、改進党も巻き込んで、同年11月、鳩山を総裁に日本民主党 (衆院120人、参院18人)を結成する。12月には左右の社会党と協力し、内閣不信任案を提出し、吉田を総辞職に追い込む。
ここに三木の念願だった鳩山一郎首相が誕生し、翌春の総選挙では鳩山ブームで民主党は躍進、第2次鳩山内閣が組閣された。ところが三木はその直後に驚くべき爆弾発言をする。
「保守結集のためにもし鳩山の存在が障害になるなら、鳩山内閣は総辞職していい」
30年4月12日、三木は郷里・高松へ向かう汽車の中で、同行記者団に自由党と民主党の合併による保守合同構想を発表した。目的達成のため、盟友・鳩山を切り捨てたのであ る。
三木はその前夜、東京・牛込の自宅に親しい政治部記者数人を招き、保守合同構想をまとめたメモを見せていた。そのうちの一人、中日新聞政治部記者だった本田晃二(85)は 述懐する。
「いよいよやるんだなと思った。メモは永田町に火のついた爆弾を投げ込むような中身だった」
構想に興奮する記者らに三木は「明日の朝までデスクにも言ったらダメだ」と釘を刺すのも忘れなかった。
ただ、この時点での自由党と民主党の合併はまだ非現実的だった。自由党にすれば、三木は政権の座を奪った張本人なのだ。一方、民主党側からも不満が噴出した。
ここで三木は秘策に打って出る。自由党の実力者、大野伴睦の説得だ。三木と大野は誰もが知る犬猿の仲で、三十数年間、一緒にお茶一杯飲むことすらなかったにもかかわらずだ。
だが、会談しようにもチャンネルがない。そこで三木は、大野とも親しかった毎日新聞政治部の西山柳造、西谷市次に橋渡しを依頼する。
5月15日朝、都内の大野邸を訪れた両記者は「三木さんが、あなたに秘密で会いたがっている」と告げ、三木から電話をさせると伝えた。午前10時、大野に電話した三木は 「君と二人きりで会い、救国の大業を成就したい」と会談を求めた。三木−大野会談はその日の夜に実現した。大野の回顧録などによると三木は頭を下げ「日本はこのまま放って おいたら赤化の危機にさらされる」と保守陣営の大同団結を訴えた。
「僕も男だ。君にその決意がある以上、保守合同の道はおのずと開ける」
鬼気迫る三木の熱意に打たれた大野も、こう応じた。ここに自由民主党の結党への大きな流れが決まった。
「半世紀にわたる政界人の行きがかり、利害、感情の一切がかなぐり捨てられて、ここに保守結集を見た」
自由民主党結党大会で三木はこう演説したが、実はすでにかゆしか食べられないほど衰弱していた。それから1年もたたない昭和31年7月4日、三木は自宅で息を引き取った。