三毛別羆事件――死者8人、我が国最大のクマ被害はどうして起こったか
表題について、まず多くの人が読めないと思うので説明するが「三毛別」は「さんけべつ」と読む。後述するがアイヌ語から来ている。「羆」は北海道だけにいる「ヒグマ」と読む。「腹破らんでくれ!」「ノド切って殺して!」妊婦が叫びながら食べられた悲惨さで身の毛もよだつ惨劇の舞台になった現地の地名である。
この項は2026年に書いている。前年には日本中でクマ被害が多発した。出没件数4万7000件、人身被害も死者13人を含む230人以上に及んだ。特徴はクマが食べるどんぐりの不作で冬になっても冬眠しないクマが町なかにエサあさりに出てきたことにある。「三毛別」事件の時もそうだった。本題に入る前に当時も北海道などで「前触れ」のようにクマ被害が多発していた状況から説明したい。
日本のクマ被害は数多くある2025年の日本におけるクマ被害は、4月から11月の出没件数が全国で4万7038件に達し、過去最多を記録した。人身被害も13人の死亡を含む230人以上、統計開始以来で過去最悪を更新する甚大な被害が発生している。
東北(秋田、岩手、宮城)、北海道などで特に多いが、関西などでも増加傾向で、人身被害の爆発的増加と言ってよい状況だ。冬眠するはずの12月に入ってもクマによる死者が出るなど、冬眠しないクマの生態異変が起きている。街中への定着や、猟友会の罠にかかったクマに襲われるなど、従来存在した人との境界線が崩壊した。
主な原因は餌不足と生息域の拡大だ。秋のブナの実などが「大凶作」であったことに加え、気候変動や過疎化による耕作放棄地の増加が原因とされる。
政府は「緊急銃猟」制度の活用や、「クマ被害対策パッケージ」を取りまとめ、対策を急いでいるが、クマ被害は今に始まったことではなく、日本にはこれまでもクマと闘ってきた歴史がある。明治以降は開拓が進んだ北海道で、ヒグマが人を襲う事件が相次ぎ、大勢の人が殺され、食べられてしまう例もあった。
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| 日本の主なクマの被害 |
過去最悪の 熊害(ゆうがい)とされる三毛別事件では、体長2・7メートル、体重340キロという巨大なヒグマが人を食うために何度も人家を襲った。最初の犠牲者の通夜の席を襲ったのは、遺体を餌とみて取り戻すためとみられ、その後も集落の中を歩き回り、婦女子が避難していた人家を襲って妊婦と胎児、幼児などを食った。
おなかの子を守ろうと「腹を破らんでくれ!」と叫んだ妊婦の腹を引き裂いたという 阿鼻叫喚の光景は今も鳥肌が立つ惨状が記録されている。
人を食うのはヒグマだけで、本州のツキノワグマは人は食べないというのは、今では俗説とされている。平成28年(2016年)に秋田県鹿角市の 十和利山(とわりやま)で、タケノコ採りに来ていた人々がツキノワグマに襲われた事件では、駆除されたツキノワグマの胃から人体の一部が見つかっている。
ただ、胃の中から見つかった量は遺体の欠損部より少なく、駆除されたクマの特徴は被害者の目撃談話と必ずしも一致していない。最初に人を襲ったクマが仲間に肉を分け与え、人肉の味を知ったクマが襲撃に加わったという見方もある。
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| カムイエクウチカウシ山東側の八ノ沢カールにある学生3人の慰霊碑。 死亡した3人の遺体は損傷がひどく、ここで荼毘(だび)に付された |
このヒグマは食料が入った学生たちのザックをあさり、学生たちに取り返されたため、再び奪い取ろうと襲撃したと見られている。登山者たちが捨てた食料を食べ、人間の食料の味を覚えていた可能性もある。
食料に対して執着心が強いクマが、人里に餌があることを知れば、山に返しても再び人里に現れるようになる。昨年、クマの捕獲は1万頭以上に達したが、行政には全国から「かわいそう」という非難の声が寄せられたが、現状ではクマと人との共存は見込めない。恐怖と背中合わせに暮らす地元住民の安全を優先すれば、熊害を予防するための捕獲はやむを得ない。
2025年のクマ出没件数が前年の4倍以上、過去最多の2905件に達した青森県では、江戸時代にも熊害に悩まされている。東北歴史博物館の研究によると、現在の青森県の西半分を領地としていた津軽藩では、元禄8年(1695年)から享保5年(1720年)にかけて熊害が相次ぎ、22人が死亡、48人が負傷したという記録が『弘前藩庁日記(国日記)』に残っている。
当時は熊の被害を「 熊荒(くまあら) 」と呼んだが、熊荒の時期は5代将軍徳川綱吉(1646〜1709)が生類憐みの令を出していた時期と重なる。元禄4年(1691年)にはクマを殺して肉を食べた津軽の百姓が島流しになった。元禄10年(1697年)5月には山菜や薪を取っていた農民がクマに襲われ、足軽2人と住民40人を動員してクマを追い払ったという記録もある。
だが、追い払うだけでは熊荒は止められない。津軽藩は生類憐みの令でも猟師によるクマの捕獲や射殺は認められていたことを利用して、クマの駆除を進めようとした。猟師の諸役(租税)を免除して猟師を増やし、足軽に鉄砲を持たせて人里に配置した。鉄砲で撃ち殺したクマは藩の役人が立ち会って埋めた上ですべて幕府に報告し、熊荒が止まれば鉄砲打ちはやめることも確約している。
集落ごとに庄屋に鉄砲管理を行わせ、熊の胆や皮を納入するのと引き換えに、弾薬代は藩が負担した。諸役免除の好条件にひかれて多くの農民が農業兼務のまま猟師となったが、狩りが下手な猟師は解役して、より腕がいい農民に入れ替えた。クマ狩りの猟犬提供者には米俵を褒美に与えている。
元禄年間に熊荒が起きたのは、津軽藩がその直前に農地の開墾を進め、人とクマの生活圏の境界があいまいになったことも一因とみられている。農民猟師の腕はなかなか上がらなかったようだが。専門の猟師(マタギ)以外に定住する農民が増えたことで新たな緩衝地帯が形成され、熊荒は収まった。20年以上にわたってクマ対策を地道に続けた結果、「棲み分け」を確立し、人とクマの関係を敵対から共存に変えることに成功したとみることもできる。
警察官による駆除、ハンターの育成強化、緊急銃猟の容認、さらに平地と里山の間の緩衝地帯の整備といった今のクマ対策は、約300年前の津軽藩のクマ対策に相通じる点も多い。参考になるのではないだろうか。
三毛別羆事件![]() |
| 三毛別は苫前から更に奥地の辺鄙な場所 |
北海道苫前村(現・苫前町)は道北の日本海沿岸部に位置し、大正時代中頃まで、ニシン漁で栄えたところである。前項で写真とともに書いたが、筆者が大学の同級生の実家があるこの町を訪れたのは昭和35年であるが、平原の中を国鉄羽幌線が走っていて(その後廃線)原っぱの真ん中に「苫前駅」がポツンと建っていて、そこから徒歩で少し日本海側に歩き、急な崖道を歩き下って苫前町の町並みに至るというところだった。町なかは人家があるがそ他はほぼ原野というところだった。
事件が発生した三毛別の六線沢(現・苫前町三渓)は、苫前村の中でも市街地からさらに遠く外れた山深い場所、海岸線から直線距離で10キロほど離れた山中の一角である。中央部にルペシュペナイ川が貫流し、日本海へと注ぎ込むまでいくつもの支流を集めていく。そんな原野だった当時の三毛別は、野生動物、ことにヒグマにとっては絶好の棲息圏であった。そこに入植した人たちが被害に遭った。
事件が起きた1915(大正4)年という年は、前年に発足して第一次世界大戦参戦に踏み切った第二次大隈重信内閣の時だった。年号が大正になって3年目、11月には大正天皇の即位の礼が京都で行われ、祝賀ムードが続いていた。北海道でも札幌で提灯行列が行われる中、熊の出没と人間の被害が頻発していた。「少年を咬殺した熊を退治す 青年會員と舊土人の手柄」
地元紙・小樽新聞(北海道新聞の前身の1つ)の同年11月24日付にはこんな記事が出ている。「旧土人」とはアイヌのことだが、浜益郡浜益村(現石狩市)で13歳の少年が兄と馬で薪を運搬中、突然現れた巨熊が少年に飛びかかってかみ殺したうえ、遺体を担いで山中に入った。警察官と村民、青年会員、アイヌら約60人が捜索。竹藪で「食べ残し」の少年の遺体を発見した。
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| 上の事件をイラスト付きで報じる当時「小樽新聞」 |
さらに雪の中で寝ている熊を見つけ、6人のアイヌが狙撃。2発が腹に命中し、立ち上がった熊に1人が日本刀を突き刺しものの熊は逃げ、さらに約4キロ追跡してようやく捕獲したが、体長1丈(約3メートル)余で稀有の巨熊だった。
別の地元紙・北海タイムスの同年12月7日付にも「又も大熊 見事に射止らる」という記事が見える。芦別村で同年春以来、巨熊の出没が甚だしく、5?6月以降射殺が3頭に及んでいる。12月1日などは、民家で鶏を食い、家人が留守の別の民家に板戸を押し破って侵入し、豚肉などの食料を食い荒らしたうえ、納屋で寝込んだ。
翌朝帰宅した家人が見つけたがクマは山へ逃げた。10数人でが足跡を頼りに追跡し4キロ先の山頂近くで発見ようやく射殺したが「身の丈八尺(約2.4メートル)で体重80貫(約300キロ)余の巨熊だった」とある。
本来はクマは冬眠に入っているはずのこの季節に北海道各地から被害報告が寄せられているところをみると、この年はどんぐりが不作だったと思われる。秋に木の実などの食料が不作で十分な脂肪を蓄えられなかったり、あるいは子グマが母グマを失ったなどで、冬眠穴に潜らずに11月下旬?4月の冬眠期に活動するクマを本州のマタギや猟師は「穴持たず」と呼ぶ。北海道のヒグマは「シャトゥーン」と呼ばれる。
※「シャトゥーン」 アイヌ語のようでもあるが、アイヌは人間を襲う凶暴な穴持たずのクマを「ウェンカムイ」(「悪い神」の意)と呼んでいて「シャトゥーン」の語源ははっきりしない。そんななか、「三毛別羆事件」が発生した。
初見は12月13日付北海タイムス社会面でごく短い記事。
〈 大熊人を喰ふ 〉
苫前村(現苫前町)サンケベツ(三毛別)に大熊現れ、さる10日、2名食い殺され、また11日夜も5名殺され、5名負傷し、大恐慌中(苫前電報)
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| 発生から4日後に、やっと三毛別の惨事を報じた「小樽新聞」 |
同じ13日付の小樽新聞も「猛熊七名を咬殺し五名に重傷を負はす(12日苫前発電)」として同内容を報道。末尾に「全村目下大騒ぎなり」と記した。実際の発生は12月9日だったことなど、この事件の報道には誤りが多い。さらに現場が僻地のため、情報が決定的に遅いが、当時の事情ではやむを得ない。
北海道庁に事件第一報の電報が入ったのは12月12日。14日付で北海タイムスは「熊害公報 苫前の大惨事」の見出しでやや詳しく報じた。
〈 9日午後7時ごろ、天塩国苫前郡苫前御料地サンケベツの農家に巨熊が乱入し、太田幹雄(9)をかみ殺したうえ、その母マヨが行方不明に。たぶん猛獣がくわえ去ったのだろうという電報が道庁に達した。 引き続き12日、またも巨熊が民家を襲い、5人を殺して5人を負傷させたという公式の連絡があった。同庁保安課からは直ちに羽幌警察分署に向け、地方青年会の主だった者と旧土人に捕獲駆除させて民心を安定させるよう打電。同分署は署員と村民を督励して熊退治に大活動をしている〉
事件発生から5日後にようやく被害者の姓名が出てくるあたり当時の通信事情がわかる。
16日付北海タイムスには「大熊と死傷十二名 熊は未だに捕獲されず人心頗(すこぶ)る恟々(きょうきょう=恐れおののく)の有様。いまだに詳しい情報はないことから巨熊の捕獲はできていないようだ」と記した。小樽新聞も「青年大擧して熊狩」の見出しで、2度にわたる被害で全村の青年たちが大挙して熊退治をしようと隊を組み、手に手に猟銃や長刀を持って出発したことを伝えている。
そして12月19日付で小樽新聞は社会面トップで「山に吼(ほ)え野に嘯(うそぶ)き 老幼数名を咬殺した猛熊狩」で9日の惨事を熊の絵入りで伝えたが、発生した日をはじめ誤りや不正確な点が多い。地元紙でもそうだから、中央紙は推して知るべし。福澤諭吉創刊の時事新報が12月19日付で「小樽18日特電」で「五人大熊に噛(かみ)殺さる 天鹽國(天塩国)の惨事」を短く報じた程度だった。
惨事の結末は発生から5日後の12月14日に訪れた。6日遅れて20日付北海タイムスは「巨熊遂に殪(たお)る 猛悪無比の苫前大熊五百余名で銃殺」、小樽新聞は「猛熊漸(ようや)く退治せらる 三毛別界隈の住民始めて安堵す」の見出しで、いずれも14日に熊を射殺・駆除したことを報じた。
2紙とも「熊は金毛で背丈は十尺(約3メートル)以上」と記述。中央紙も東京朝日が同じ日付で「巨熊數(数)人を殺す 五百名で退治す」と一連のいきさつを「札幌特電」で伝えた。時事新報は21日付で「人喰熊退治さる 六人噛殺の大熊 包囲銃殺せらる」と「小樽20日午後特電」で報道。徳富蘇峰の國民新聞も同じ日付で「金毛の巨熊五人を噛殺す 首尾好く射止む」を「札幌電報」で載せた。
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| 戸川幸夫 | 吉村昭 |
2人が創作の基にした資料は、事件から100年後に現場周辺を管轄する古丹別営林署の林務官だった木村盛武が独自に調査し、事件の生存者らにインタビューを重ねてまとめた記録だった。1965年刊行の冊子「獣害史最大の惨劇 苫前羆事件」をはじめ、同じ題名などで雑誌や単行本で取り上げており、現在は『 慟哭の谷 北海道三毛別・史上最悪のヒグマ襲撃事件 』(文春文庫)で読めるので、こちらに準拠して事件を再現してみる。(木村盛武の執筆のいきさつなどは文末に別稿でまとめた)
苫前は北海道の中心地・札幌から北北東に約180キロ、とかなり僻地である。事件の現場となった場所はその苫前中心部からも約30キロ離れており、古丹別川の支流・三毛別川に注ぐルペシぺナイ川(通称六線沢、御料川とも)に沿って上流に入った御料地(皇室の所有地)の開拓地だった。当時の北海タイムス報道では「苫前市街から4里(約16キロ)。地名は「北海道天塩国苫前郡苫前村大字力昼村三毛別御料地農地六号新区画開拓部落六線沢」(現苫前町三渓、通称六線沢)と長い。
明治維新後、皇室の財産を増やす目的で官有林、官有地を御料林、御料地に編入する動きが強まり、北海道でも1890年から8カ所の国有林200万町歩(200万ヘクタール)、当時の北海道の山林の約半分が御料林とされた。4年後にはその3分の2が北海道庁に下げ渡されたが、苫前は御料林として残り、そのなかで農業適地について農民の入植・開拓を認める方針が進められ、開拓地が広がった。そこに入植したばかりの開拓民が犠牲になった。
『苫前町史』(1982年)は「この地域には明治43(1910)年ごろから相前後して隣村の鬼鹿、大椴(おおとど)=いずれも現在の留萌郡小平町=の両開拓地より新懇地を求めて15戸の入植者があったが、被害にあったのはこれらの人々である」と記す。
吉村昭『羆嵐』はフィクションだが、六線沢の開拓農民は東北地方の同じ村にいたものの、困窮し、指定された築別(現羽幌町)の御料地に入植。そこがすさまじい蝗害(こうがい=イナゴの被害)に遭ったことから、御料林を管理する帝室林野管理局の指定で六線沢に移転したとしている。『慟哭の谷』は「東北の河辺から」と記述しており、秋田県河辺町(現秋田市)から入植した秋田の農民だったのかもしれない。いずれも再度の災難にあった不運な人たちだった。
【木村盛武の記録から事件を再現する】上述のごとく現在かなり詳しく事件の概要が再現できるのは、当時の古丹別営林署の林務官だった木村盛武が独自に調査した記録が残るからだ。
その木村盛武は「三毛別御料地に巨熊が出没し、6人をかみ殺して6人を傷つけたうえ、十戸余りの農家へ侵入。同地方の住民を震駭(しんがい=恐れ驚き震える)させたことは本邦開闢(かいびゃく)以来未曾有の椿事だが、いま詳報が入ったので記す」と書き出す。
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| 現地には事件を再現した施設「三毛別羆事件復元地」があり、 身の丈2・7b、体重340キロという巨大なヒグマの大きさがわかる。 |
最初の襲撃(12月9日)に遇ったのは「太田家」だった。
太田三郎(42)方は御料奥地六号にあり、三毛別山の西およそ2.5キロ」の地点、ルペシュペナイ川右岸に暮らす家人は4人。主人の三郎は地区の道路の架橋工事の手伝いで外出中で、雇人の長松要吉(59)は樹木伐採のため山に登っていて家には太田三郎の内縁の妻・阿部マユ(34)、太田家に養子に入る予定だった蓮見幹雄(6)の2人だけが留守番をしていた。蓮見幹雄は、太田家に子どもがいなかったので、6歳のときから実子代わりに預けられていた。
当日の天候は晴れていたが、70センチほどの雪が積もっていたという。午後4時ごろになって要吉が1日の作業が終わって下山。帰宅すると、屋内の土間に大豆、小豆などが散乱しており、ただ事でないのを怪しみながらよく見ると、血痕があちこちに点在し、炉端には幹雄が顔面血まみれになって倒れていた。びっくりして三郎の出先に知らせ、居合わせた1人とともに3人で現場に戻って調べたが、マユは家におらず、行方不明であるばかりか、鮮血がしたたり、寝具は真っ赤に染まって乱れ、血痕が所々に付着して足の踏み場もない凄惨な光景を呈していた。
事件発生直後、奇しくも羽幌町の農家である松永米太郎が太田家の前を馬に乗って通過していた。その際、小屋から山の方へ向かって点々と続く血痕を目にしている。当時はマタギがウサギなどの獲物を引きずって歩くことも珍しいことではなく、「村人が山で獲ったウサギでも引きずって帰って来たのだろう、その血の跡だろう」、松永はそう思ったという。ところが、現実は違った。その血痕は、ヒグマがマユの遺体をくわえて引きずって行ったあとだった。
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| 当時の開拓民の家は掘っ建て小屋の粗末なものだった。 |
※当時を再現した施設が苫前町に2つある 左は当時の惨劇を再現した「苫前町郷土資料館」(苫前町内)の展示から。右上は現地の苫前町三渓(かつての三毛別)にある「三毛別羆事件復元跡地」から
木村盛武の記録によれば、3丁が不発だった。当時の銃の精度は悪かった、またこのころ入植した人たちの開拓小屋は粗末で、ほとんどは草で囲っただけで、板囲いだったのは太田家だけだったという。小樽新聞で連載された「不安の六晝(昼)夜 苫前三毛別猛熊退治後聞」は、太田三郎一家は前年11月、(隣村の)鬼鹿村(現小平町)から移住してきたと書いている。
捜索に出た30人余りの人々は逃げ帰った。熊はそれ以上追ってこなかったが、そのままにしてもおけず、勇を鼓して再び熊がいた所まで戻った。雪を盛って小さな穴が開いているのを見つけて、掘ってみたところ、大量にかき集めた笹や樺の葉の中から、食い尽くされて残った両足など、マユの遺体の一部が現れた。頭髪をはがされた頭蓋骨と膝下の足だけという、あまりにも無惨な姿だった。それ以外はすべて食い尽くされていた。
頭部と四肢下部を食い残すのはヒグマの習性とされている。ウシやウマ、シカを食べる場合も同様の食い方をするという。また、残された遺体にはササなどが被されていた。このような行為も、ヒグマの習性といわれている。
一同は身を震わせて、その旨を古丹別巡査駐在所と帝室林野管理局(札幌支局)羽幌出張所古丹別分担区員に届け出ることにした。 その使者に立ったのが開拓農民の斉藤石五郎だった。はじめはクジでほかの人間が行くことに決まっていたが、気が進まないとして石五郎に代わりを依頼。妻子を安全な場所に避難させることを条件に引き受けた。これが後述する通りさらに悲惨な結果を招くことになった。
「熊害大惨事の詳報」はこの後、約300人が11日から山狩りを実施したが、成果がなく、12日になって、11日に第2の被害があったとの知らせがあったと書いている。しかし、木村盛武の調査によれば、第2の被害があったのは太田家で通夜があったのと同じ10日夜だ。
第2の被害で最大の死者を出すに至ったのは「明景(みょうけ)家」だった。
第1の被害があった太田三郎方で、マユの遺体を納棺し、付近の者9人で通夜が行われていた。わずか9人と少ないのには理由があった。惨劇を知った村民一同は、ヒグマに怯えていたがみんなの頭には、「クマは獲物があるうちは付近から離れない」という言い伝えがしみついていた。 開拓民は小さい頃からそう聞かされていたから、できれば太田家には近づきたくない、そう思い恐れる者がほとんどだった。そこで女衆や子どもたちは、比較的家が広く、地理的にも安全と思われた近隣の明景家宅に避難させていた。これがさらに被害を大きくすることになるとは知る由もなかった。
「クマは獲物があるうちは付近から離れない」という教訓は間違っていなかった。通夜のさ中、驚愕の事態が参列者に襲いかかる。10日午後8時ごろ、棺が置かれていた側の板戸を破り、突然1頭の巨熊が乱入してきた。ヒグマは火を恐れたものかランプをたたき落として真っ暗にし、暴れ回った。
居合わせた人々は仰天したものの一斉にときの声をあげ、暴れまくるヒグマに、男衆が近くにあった石油缶をガンガン打ち鳴らし、銃を携えた1人は機転を利かせて空包を放つなど反撃に出た。獰猛無比の巨熊も鉄砲の音に驚いたのだろう、やがて逃げて姿を隠した。
幸い、この場で被害者は1人も出なかったものの、ヒグマは太田家から北500bほどの地点に居を構える明景安太郎方に侵入して、そこで生き地獄を現出させていたここは、女衆と子どもたちが避難していた家屋で新たな惨劇の場となった。
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| 当日の明景家のそれぞれの居場所 |
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| 被災直前の大正4年11月に撮影された明景一家 (左から)長女ヒサノ、長男力蔵、4男梅吉、母ヤヨ、 父安太郎、次男勇次郎(三男金蔵は写っていない) |
明景家は当主の安太郎が所用で隣村に出掛けており、家には安太郎の妻・ヤヨ(34) 同長男・力蔵(10) 同次男・勇次郎(8) 同長女・ヒサノ(6) 同四男・梅吉(1) 、そして山の上から避難してきていた斉藤石五郎(駐在所などへの連絡に出掛けていた)の妻タケと五男の巌、六男春義がいた。女1人、子ども6人のか細い一同が炉端に集まり、不安に包まれていたところに血迷った巨熊は恐ろしい勢いで突入した。
通夜会場である太田家からヒグマが逃げ出した直後、午後8時50分頃のことである。不幸にも多くの人が集まっていた避難所にヒグマが侵入した。明景宅では、妻のヤヨが大鍋を炉にかけ、夜食の準備をしていた。その時だった。激しい音とともに窓を打ち破ってヒグマが家の中へと飛び込んで来た。突如侵入して来たヒグマは、灯火が消えた暗闇の中およそ50分もの間、この家に避難していた人々を襲い続けた。
一同は逃げ惑い、子どもらは「助けてくれ!」と泣き叫んで阿鼻叫喚の惨状を呈した。獰猛極まりない熊は、1歳の梅吉を背負い、前は8歳の勇次郎にすがりつかれほとんど動きが取れず気絶しそうなヤヨを捕らえて、梅吉の足にかみついた。熊は母子もろとも抱き締めて軽く2、3度、その頭部をかんだ。勇次郎は頭が熊のあごの下に挟まれていたため、かまれずにすんだ。
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| 助かった明景ヤヨ。眉間に熊の爪痕が残っていた (「ヒグマ10号別冊」より) |
熊はなおも暴れ回り、臨月で体の自由が利かないタケを捕らえ、タケの左右に取りすがる巌、春義と明景の三男・金蔵に一撃を加えて即死させた。タケの足を食い始めたため、タケは痛手を負いながら、慌てている力蔵に「私は到底助からないものと諦めるが、おまえ早く逃げよ」と子を思う親心、「早く早く」とせき立てたが、力蔵は子どもながらも母の危難を見捨てて逃げる勇気もなく、ためらっていた。熊の立ち上がる様子に、家の草囲いと雑穀俵の間に潜り込み、俵を被って息を殺し、難を逃れた。熊は妊娠中のタケの腹部を食い、胎児と内臓を引っ張り出した。金蔵と巌の遺体の一部を食い尽くし、残りを春義の遺体などとともに掻き集めて、それを夜具とむしろで覆い、山中深く逃げ入った。
十人余の村民が明景安太郎方に駆け付け、恐る恐る家に入って、明かりをつけてみると、物は散乱し、各所に生々しい血痕が付着して凄惨な光景。一同いまさらのように仰天して家の中をくまなく調べたところ、明景ヒサノは幸いにも大惨劇を知らず、夜具を被ってスヤスヤ眠っていたため、熊に発見されず危険を免れ、力蔵とともに九死に一生を得た。斉藤巌は尻などを食われながら生きており、「おじさん、熊を獲(と)ってくれ」と細々とした声で叫び、のどの渇きを訴えた。治療を受けさせるため運ぶ途中、哀れにも息絶えた。
このあたり、実際の状況はだいぶ違ったようだ。木村盛武の記録によれば、事態を知った50人余りが明景宅を包囲。わが子を案じて戻ったヤヨが半狂乱になってわめき続けたが、誰1人踏み込めないままだった。屋内からは断末魔のうめき声と救いを求める女性と子どもの叫びに重なって、羆が人骨をかみ砕く「ゴリゴリ」「バリバリ」という不気味な音がしていたとも。とうとう1人が銃を2発発射すると、熊は飛び出して山に逃げた、とある。
生き残った力蔵の直接証言を得た木村盛武の記録により、タケが自分の体を食われながら胎児を思って「腹破らんでくれ!」「のど食って殺して!」と絶叫し続けた。まさに「生き地獄」そのものだった。
明景梅吉はこの時の傷がもとで2年8カ月後に死亡。斉藤タケには臨月の胎児がいたので、それを含めると死者は8人となる。負傷者としてあげられた勇次郎とヒサノは怪我がなかった。![]() |
| 事件の発生地点と日時(『慟哭の谷』1994年より) |
とはいえ、住民だけの力では防御までが精いっぱいだった。ヒグマを捕獲することなど、到底できるものではなかった。その頃、通報がようやく北海道庁まで届き、官憲が動き始めた。12月12日のことである。
「地方青年会アイヌなどの協力を得て獲殺すべし」
北海道庁保安課が管轄の羽幌警察分署長である菅貢に、そう打電、指示した。これにより、三毛別地区長宅にヒグマ討伐本部が設置された。猟師や農村民を始め、青年団や消防組など、大勢の人々が次第に集まってきた。
12日正午前より、現場検証が始まった。午後には犠牲者全員の検死も行われた。あまりのむごさに、検察官も言葉を失ったという。官民共同によるヒグマ捕獲活動も同時に開始された。 だが、ヒグマをすぐに発見することはできず、討伐活動は思うように進まなかった。
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| 現在表示されている現場の見取り図。(クリックで原寸表示に) 左上の見取り図は原本からで仮名になっているが、こちらは実名表示。 |
「ここは心を鬼にして、遺体をおとりにするほかない」
仏をおとりにすることは耐え難い選択だったが、遺族を含め、反対する者はいなかった。そこまで事態は深刻化していたのである。遺体が区長宅の居間に並べられた。討伐隊は屋内各所に身を潜め、それぞれが銃を構えた。 考えうる万全の体制をとった。皆が息詰まり、時間だけが過ぎていく。
この後もヒグマはあちこちに出没した。村民は、我先にと(クマが嫌う)樺の皮を焚きつつ避難する者が多く、途中、取り替えるため投棄した火は十余丁(1キロ以上)にわたり、まるで古戦場をしのばせる光景を呈した、という。翌11日、鬼鹿村から応援隊として山本兵吉以下9人の鉄砲熟練者が続々来たり、村民と警察分署員の一隊を補助。昼間は熊の足跡をたどって山中深く追撃しようとしたが、恐怖で躊躇、逡巡する者が多かった。加えて、雪中で険しい場所のため歩くのも自由でなく、成果が挙がらないまま、明景家に張り込む一方、最も銃に熟練している者を7人ずつ、約14間(約25メートル)離れた小川を挟む要所を選んで拠点とし、銃7丁を備えて徹夜で見張り、熊の出現を待ち構えた。
下流の大川家が熊狩り本部とされ、羽幌警察分署長が本部の隊長となったが、木村盛武の記録は、帝室林野局分担区員の喜渡安信技手が統率力、指導力に優れ、開拓地の人々から信頼されており、その後の山狩りは「土地鑑があり農民に顔の広い分担区員(喜渡技手)が実際の采配を振るうこととなった」(「ヒグマ10号別冊」)と述べている。
ついにその瞬間がやってきた。 獰猛極まりなく人間の肉の味をしめたかの巨熊は14日午前9時ごろ、ノソリノソリと人家を指してゆっくり歩いてくるのを発見。一同用意を整え、7人は銃を携えて川岸に進み、銃を持たない村民300人余りは鎌やまさかりなどを携えて八方に団を組み、家の屋根に上ったり、木陰に身を隠したりして熊が対岸に来るのを待った。熊は家人が立ち退いた川岸の家を襲って鶏数羽を食い、しばらくして出てくると、24〜25間(約44〜46メートル)前方まで近づいた。分署巡査部長が1発目を撃ったのに続き、7人が2発ずつ計14発を放ち、さながら活動写真を見るように壮観だった。
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| ヒグマを射止めて英雄になった山本兵吉 |
射止めたのは、小平(現・留萌管内小平町)鬼鹿の猟師、山本兵吉(58歳)。鉄砲撃ちにかけては天塩国にこの人あり、と評判の猟師であった。山本は討伐隊と行動を別にし、単独ヒグマを追った。猟師の勘と洞察によるものだった。
ヒグマの居所を見定めていた山の頂上付近まで登ると、ミズナラの大木に寄りかかっていたヒグマを発見した。山本は風下から気配を消し、少しずつヒグマへと接近して行った。ヒグマに気づかれることはなかった。そして、ヒグマに近づくことおよそ20メートルまで間合いを詰めた。ここでいったん山本はニレの木の陰に身を隠し、銃口をヒグマの急所である心臓に定めた。発砲した。轟音とともに発射された弾がヒグマの背後から心臓付近に命中した。
一度倒れ込んだヒグマだったが、再び立ち上がり、山本をにらみつけた。即座に山本は第二弾を放った。今度はヒグマの頭部を狙った。発砲。被弾したヒグマがついに倒れた。弾は頭部を貫通していた。射殺場所は、第一現場の太田宅から北北西約2キロ地点であった。
3日間にわたる官民一体による討伐活動は、ここにようやく終結した。編成された討伐隊の人員は延べ600人、同行したアイヌ犬10数頭、装備として用意された鉄砲60丁というものだった。
射殺された羆はメス熊で現場から苦労して約6キロ離れた三毛別青年会館に運ばれ、解体された。胃の中からマユが着けていたブドウ色の脚絆(きゃはん)の一部と大量の毛髪が出てきた。さらに、集まった人たちが口々に、前にも人を食ったことのある羆だと証言。その言葉を証明する衣類などが次々出てきて驚かせた。皮は板枠に張り付けられ、青年会館前で天日乾燥されたが、その間も棒でたたくなど、村民らの“復讐”が絶えなかった。
木村盛武の記録には、問題の羆の部位の行方について記述がある。皮は遺族救済のために創作された芝居の上演の際に使われた。肉は解体現場で大鍋や石油缶で煮て食べた。ためらう人もいたが、「被害者の供養」「魔獣への報復」だとして口にした。固くてまずかったという。薬として珍重された「熊の胆(い)」(胆嚢)は羆を仕留めた山本兵吉のものになったとも、幹部やマタギが分け合ったともいわれるが、はっきりしない。
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| 現場の三毛別地区にある「熊害慰霊碑」 |
事件のあった翌年春には一軒を除き、開拓農家は全員離村した。その後、昭和21年になって大阪から難波開拓団の6軒が入植したが、営農は厳しく昭和45年には全て離農している。以来この三毛別六線沢地区は居住者無人地域になっている。
元林務官が執念の取材で追究した、ヒグマによる史上最悪の惨殺事件の真実上述のようなヒグマによる惨劇のあらましがかなり正確に「再現」できるのは、事件から数十年後に現場である苫前・三毛別の林務官だった人物が生存者へのインタビューをするなどして丹念に証言を集めた著作があるからだ。
その本、『慟哭の谷 北海道三毛別・史上最悪のヒグマ襲撃事件』 (木村盛武 著)の出版元「本の話」編集部が著者にインタビューしたものがあるのでそれを紹介する。
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| 木村の著書『慟哭の谷』 |
◇ ◇ ◇
大正4年(1915)の暮れ、北海道苫前村三毛別の開拓地に突如現れ、8名もの人を食い殺した三毛別羆(ひぐま)事件の真相を初めて明らかにした『慟哭の谷 北海道三毛別・史上最悪のヒグマ襲撃事件』 は傑作ノンフィクションとして関係者の間では、非常に高い評価を受けてきた。著者の木村盛武氏は林務官という仕事の傍ら、ときに怒鳴られ、門前払いを食らいながらも、事件の生存者からの聞き取りを続け、執念で事実を掘り当てた。奇しくも事件から100年を迎える今年(2015)、特別編集版として文春文庫のラインアップに新たに加わる事を受けて、改めて木村氏にお話をうかがった。
――三毛別羆事件は、日本のみならず世界史的にみても類を見ない、まさに史上最悪の熊による食害事件として異彩を放っていますが、木村さんがこの事件に興味をもたれたきっかけは、どういうものだったのでしょうか?
初めてこの事件のことを林務官だった父から聞かされたのは、まだ4、5歳のころだったと思います。余りの恐怖にその夜は小用に立てなかったほどです。その後もやはり林務官だった母方の伯父からも、この事件におけるヒグマの異様なまでの獰猛さを聞かされていました。
さらに決定的だったのは、私自身が、水産学校の学生時代、昭和13年の8月に北千島で人食いヒグマに接近遭遇した経験でした。今回の文庫版にも詳しく収録しましたが、私たちよりわずか20分ほど前に出た人が、ヒグマに惨殺された現場を目撃したのみならず、すぐそばにそのヒグマがいる気配を感じて、全身が総毛立つ恐怖を味わいました。これが私にとっては、ひとつの原点だったかもしれません。
それから、私も林務官となって、昭和36年ごろ、まさに三毛別事件の現場を管轄にもつ古丹別営林署に勤務することとなり、さらに事件の生存者がまだご存命だということも知り、いよいよ、この事件の真相を突き止めようと考えました。
――あれだけの死者を出した事件でありながら、木村さんが取材されるまでは正確な被害者数さえわからなかったそうですね。
そうですね。例えば、事件の起きた日時や場所、被害者の人数、年齢性別、現場の状況など、基本的な事実さえ、私が父や伯父から聞いた話、当時の新聞報道、あるいは事件について触れた刊行物は、それぞれ食い違っていました。単なる伝聞情報だけで書かれたものや、過剰な脚色が入ったものもあり、客観的な事実が掴めなかったんです。そういうこともあって、だったら自分が真実を追究しようと考えた次第です。
――取材された中で、もっとも印象的だったことは何ですか?
事件の生存者に斉藤ハマさんという方がおられて、この方はお母さんと、お腹の中にいた子どもを含めた3人の兄弟をヒグマに殺されていました。当然、事件のことなど思い出したくもないことは想像できましたし、これまで取材にも応じて来られなかったことは知っていましたが、この方に話を聞かないと、この本は書けないとも思っていました。
いざハマさんの家を訪ねてみると、「人の気持ちになってみれ!」と怒鳴らんばかりに追い払われました。当然といえば当然の反応で、二回目に訪れたときも、ぴしゃりと戸を閉められてしまいました。どうしたものか、と思っていたところ、ある日、列車で乗り合わせた方が、たまたまハマさんのお知り合いで、「ハマさんなら普段はよく畑にいるから、そこを訪ねてみたら」とアドバイスをもらったんです。
そこで次の休みの日に、また訪ねて行って、畑にいたハマさんに会うことができたんです。今度はこちらの趣旨、つまり「二度とこういう悲惨な事件を起こさないために、何があったのかを正確に記録しておきたい」ということをちゃんと聞いてもらえました。黙って聞いていたハマさんが、クハマさんは「そういうことでしたら、知っていることはお話しします」と仰ってくださいました。「ただ、写真だけは勘弁してください」とも仰って、事件の残した傷跡の深さに改めて立ち尽くす思いでした。
いずれにしろ、ハマさんの証言がなければ、『慟哭の谷』という作品が陽の目を見なかったであろうことは間違いありません。
また、蓮見チセさんという方は、わが子を預けていた先でヒグマに襲われ、殺されてしまったのですが、その息子の通夜に夫と参列したときのことを語ってくれました。息子が殺された家で通夜を営んでいると、なんと遺体を取り返しにヒグマが乱入してきたんです。一同はパニック状態になり、チセさんの夫はチセさんを踏み台にして自分だけ、天井の梁に駈け上ってしまったそうです。結局チセさんは、他の人に助けられて梁に上り、一命をとりとめましたが、「人間なんてひどいもんだ」と嘆息されていたのが印象的でした。
結局、約30名もの事件の生存者や関係者から話を聞くことができたのですが、興味深かったのは、肝心の熊の大きさや色でさえ、十人十色で、「赤かった」という人もいれば「真っ黒だった」という人もいるという具合で、それだけ異常な状況だったことをまざまざと知らされると同時に、正確な事実を確定させるのには、慎重を要しました。いずれにしろ、そうした多くの方の協力があって、本を完成させることができました。
――その取材された成果を、事件発生50年後にあたる昭和40年、旭川営林局誌『寒帯林』において「獣害史最大の惨劇苫前羆事件」として発表されました。これが『慟哭の谷』の原型であり、作家の吉村昭さんがこの事件を題材にした名作『羆嵐』を書かれるきっかけとなったそうですね。
昭和49年ごろ、当時私は旭川営林局に勤めていたのですが、営林局に吉村昭先生から電話があって、「獣害史最大の惨劇苫前羆事件」を小説化したいので、直接お会いして了承を頂ければ、という内容でした。率直なところ、素人作家の自分が書いたものが、有名作家である吉村さんの目に止まったというのは、大変うれしかったです。なんでも、吉村先生が講演のため留萌を訪れた際、地元の記者に聞かされて、初めて苫前三毛別事件のことを知ったとのことでした。
それから吉村先生が編集者の方と旭川にお見えになって、私のもっていた資料やデータなどを示しながら、打ち合わせをしました。吉村先生は、熊に関する小説を当時既に九篇ほど発表されていましたが、「熊に関する実際のデータがなくて困っていた」と、特に数字やデータに興味を示されていましたね。
東京に戻られてからも、何かわからないことがあると、しょっちゅう電話がかかってきました。非常に熱心でしたね。あるとき、電話で吉村先生が「申し訳ない」と謝られるんですね。何事かと思ったら、「1年で小説に仕上げる約束でしたが、まだ出来に納得いってないところがある。あと1年、猶予をいただけないでしょうか」と。こちらとしては、否も応もないのですが、いかにも吉村先生らしいお気遣いでした。――三毛別事件が、数あるヒグマの食害事件のなかでも、とりわけ異彩を放っているのは、何と言っても、当該のヒグマの残忍性・執拗さが際立っているからだと思います。木村さんは本書のなかで「魔獣」という言葉で表現されていますが、この「魔獣」はなぜ生まれたのでしょうか。
事件の起きた時期は真冬で、本来であればヒグマは冬眠しているはずです。ですが、このヒグマの場合、どうやら苫前に現れる以前に、別の地域で猟師に追われ、冬眠に入る機を逸して、いわゆる「穴持たず」となってしまった。それで究極の空腹状態となり、旭川や天塩地域でも女性を襲ったとの証言がありました。事実、退治された後に解剖したところ、証言に一致する被害者の脚絆などが出てきました。手負い・穴持たず・空腹という要素が重なって、異常な執念と凶暴性を持つに至ったのではないか、と思います。
――木村さんの調査で改めて明らかになったヒグマの習性もありますね。
例えば、一般に動物は火を怖がる、とされていますが、ヒグマの場合はその限りではありません。実際にこの事件では、明々とかがり火を焚いていたにも関わらず、ヒグマは何度となく集落を襲っています。それから、ヒグマにとって「獲物」は所有物ですから、遺留物があるうちは、そこから立ち去りません。この事件でも、「遺体」を自分の所有物とみなして、通夜の席にまで乱入しています。それから、通夜の席に乱入したことでも分かりますが、人間側の人数の多寡は関係ない、つまり10人いようと20人いようと襲うときは襲う、ということです。
――木村さんご自身も学生時代と林務官時代にヒグマと接近遭遇されています。ヒグマが近くにいるときというのは、どんな気配や匂いがするものなのでしょうか。
遭遇したケースによりまちまちなのですが、言葉では形容しがたい、一種異様な臭気がしたような記憶があります。気配については、ヒグマがいそうな場所では、やはりかなり緊張していますので、そのせいで過敏に気配を感じ取っていることもあると思います。何かの気配を感じても、実際には、ヒグマはいないということもある。
――今年で三毛別羆事件の発生から100年が経ちましたが、今年1月にも北海道標茶町で森林の伐採作業をしていた男性がヒグマの被害にあっています。こうした悲劇を避けるためにどうすればいいのでしょうか。
まず、これは世間的に大きな誤解があるところなのですが、「ヒグマは冬は冬眠しているから警戒しなくてよい」というのは間違いです。むしろ、冬のほうが危険といえるかもしれません。ヒグマが冬眠する巣穴は、山奥ではなく、むしろ林道など人里に近いところに多い。しかも冬眠といっても、熟睡しているわけではなくて、言ってみれば半覚醒状態で、近くで大きな物音がすれば、当然起きますし、なかには、巣穴から半分身体を出して冬眠しているのもいます。最近では、スノーシューなどを使って、冬山を歩き回るレジャーもありますが、例えば木の下部に穴が開いているのを見かけたら、絶対近寄るべきではありません。
夏の場合であれば、熊鈴を持って歩くのは当然として、もうひとつお勧めしたいのは、蚊取り線香を腰から吊るすことです。ヒグマに限らず熊というのは、目はあまりよくなくて、耳と鼻で状況を確認します。けれど熊鈴だけですと、例えば渓流や滝など水音によってかき消されてしまうケースがある。そんなときでも、蚊取り線香の匂いがすれば、熊は人間の存在を察知して、避けてくれます。
人間の存在に気づけば、熊は自分から先に避けます。人間だと分かっていて、向かってくるのは、まずいません。
ということは、熊と人間の不幸な事故は、99%人間の側に責任があるといってもいいかもしれません。日本は国土の約70%が森林におおわれた森林国です。そうである以上、熊についてての正しい知識と対策を学ぶことは、非常に大事なことです。