2024年12月19日、読売新聞グループ本社代表取締役主筆の渡邉恒雄氏が98歳で死去した。理想の“死のかたち”を14名に語ってもらった『 私の大往生 』(文春新書)から、渡邉恒雄さんのインタビューを公開する(肩書き・年齢などは、いずれも当時のもの)文春オンライン12月19日(木)
(初出:週刊文春2012年5月31日号)◆ ◆ ◆
――93歳(2019年)にして読売新聞グループの代表取締役、そして主筆を務める渡邉恒雄氏。
政治記者として名を馳せ、巨人軍オーナーとなった1990年代以降は世間でも「ナベツネ」としてその存在を知られ、しばしば「独裁者」と称された。しかし今回(2012年)、自らの「死」を語る表情、口調は、そんなイメージからは程遠い、実に穏やかなものだった。
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2024年、98歳で亡くなった渡邉恒雄氏 |
渡邉 理想の死に方、これは達者でポックリ、意識しないうちに死ぬというのが良いに決まってる。この部屋(主筆室)で死んでいて、秘書が発見する。これなんか、いいんじゃないか。
だけど現実的には、なかなかそうはいかない。病死だろうね。――もう1つ望みがあるんだ、と渡邉氏は席を立ち、ある箱を持ってきてくれた。その中には「渡邉恒雄葬送曲目集」と書かれた5つのテープが入っていた。
渡邉 音楽を聞きながら死にたいんだ。まさに死ぬ時に聞きたい曲が2通りある。
1つはチャイコフスキーの交響曲「悲愴」。――渡邉氏は東大入学後の1945年に徴兵された。この時、初めて死を意識したという。
渡邉 僕は8歳の時に親父を亡くした。ある日、家に帰ったら親父が入院していて、1週間後に生まれて初めてタクシーに乗って、病院に行った。「おお、恒雄来たか」とだけ、言ってくれたが、それで意識を失って死んでしまった。でも、当時はまだ死というものがよくわからなくてね。何かまだ、どこかに親父がいるような気がしていた。
だから初めて死を感じたのは戦争。あれは全く、死を感じたね。誰だってそうだ、負けるに決まってるんだから。中学時代から、友達の父親に高級官僚とか、政治家とか、財界人がいて、旧制高校でも仲間の父親に大臣クラスもいた。だから本当の情報が入ってくる。もうミッドウェー以降、どんどん負けている。そういう敗北が決まっている段階で徴兵されたわけだ。
99%、死ぬと思った。残る1%は脱走だ。生き残るには脱走しかないと思った。あの頃、逃亡兵は捕虜収容所に入れられると勝手に空想していて、戦犯ではないから、2、3年で釈放されると踏んでいた。
そのために僕は軍隊にいる時、3冊の本を隠し持っていた。まず、カントの『実践理性批判』とブレイクの詩集。2、3年繰り返し読んでも飽きない本だ。それとポケット英和辞典。逃亡に成功して降伏した時に、英会話が必要になると思ったんだな。見つかっていたら、確実に重営倉(懲罰)だね。
僕は将校になるのが嫌だったから、幹部候補生試験に願書を出さず、陸軍二等兵だった。当時は少尉が真っ先に前線に立たされ、先に死んじゃう。だから「俺は絶対二等兵がいい」と思った。
それで軍隊で特務曹長に「お前は東京大学の学生である、幹部候補生の受験資格がある。受けろ」とこう言われた。僕は「いや、軍隊の根幹は兵であります。私は将校にはなりたくありません」と言ったんだ。これは感心された。特務曹長というのは、要するに下級兵士からの生え抜きだから、元々将校じゃない。兵が良い、大事って言われたら悪い気はしないんだ。でも「しかしな、お前は資格があるんだから、受けろ」となった。僕も「いや、軍の根幹は……」と、このやり取りを2、3回繰り返したら、「バカヤロー!」と怒鳴られたね(笑)。
僕は十サンチ榴弾砲部隊だったんだが、8月15日の段階で鉄のタマが全然なくて、木のタマで練習した。実弾すらなかったんだから(笑)、本土決戦なんて言っていた奴は許せない。本当にバカげた戦争だった。
政治部長だった頃、食道がんと診断された――1997年、前立腺がんと診断され、全摘出手術を行った渡邉氏。しかし、この時は死を意識しなかったという。
渡邉 僕はこの時、すでにがんについて散々勉強して、がんは治るものだという確信を持っていた。
実は、政治部長だった頃、読売診療所で食道がんと診断されたことがあるんだ。5、6軒の病院を回って、11人の医者に診てもらったが、口をそろえてがんだという。これはもうお終いだと思ったね。40年近く前だから、がんが治るなんて時代じゃない。がんイコール死だった。
それで遺書を書いて、女房に言い渡して、子供はこうやって育てろよ、と。親友に電話して「ウチの倅のこと、将来よろしく頼むぞ」と伝えて、身辺を全部整理した。それで全て終わって夜11時頃、寝室で女房と一緒に寝て、手を握ったわけだ。そしたら女房が、「あなた妙な緊張状態にあって、私の言う事全然聞いてくれなかった。もう一度言うわ。秋山洋先生という虎の門病院の消化器外科部長(後に院長)は食道がんの大家よ」とこう言うんだ。僕はこの人を知らなかった。
すると「知らないわけないじゃないの、同じマンションにいたのよ、ウチの息子と秋山先生の娘は砂場で泥んこになって遊んでた。私は奥さんをよく知ってる」って言うんで、女房が夜遅くに電話をかけてくれた。
それで秋山先生が出てくれて、僕が事情を説明したら、明日からドイツ出張だが、成田発午後4時だから、午前9時に虎の門病院の玄関に来てください、お迎えに出ます、と言ってくれた。あまりの親切にビックリしたね。それで翌日、造影剤飲んだり、3時間かけてありとあらゆる検査をしてくれた。すると先生は「あなたの身体のどこにもがんはありません。これは誤診です」と言ったんだ。もう天にも昇る気持ちだったな。それから僕はもう、がんを恐れなくなった。
20何年か後に僕に前立腺がんの全摘手術を施してくれたのは、垣添忠生先生という日本で前立腺がんの全摘手術をした最初の1人だった。
彼が何故その技術を持っていたかというと、中曾根康弘さんが首相の時に「対がん十か年総合戦略」というものを謳ったんです。その予算で、前立腺がんの名手が集まるミネソタ州のメイヨー・クリニックという所に留学したのが垣添先生だった。
だから中曾根さんには、「あなたの対がん十か年総合戦略のおかげで僕の命は助かった」と言っているんだ。
哲学青年にとっての死の恐怖とは――渡邉氏は東大哲学科卒。哲学青年だった彼はカントとニーチェの思想で戦争の死の恐怖に耐えたという。
渡邉 死にゆく人は天国とか極楽とかがあって、信仰のある者は天国に行けるとか、宗教心で死に耐える。ところが僕は、無宗教、無神論。僕に宗教があるとすれば、カントの道徳哲学。
もう1つはニーチェだったんだが、最近ニーチェがやたらと売れている。改めて読んでみると、矛盾だらけで読めば読むほどつまらないんだな。もう1年くらい前から、否定している。あれは哲学ではない。
となると、僕にはカントしかない。これは要するに、「この世で最上の価値は何かと言うと、うちなる道徳律である」ということ。僕にとって宗教的なものはこれしかない。自分の人格、誰にも誇れるだけの完璧な道徳律というものを自分で持っている、そのことだけが価値がある、だからそのまま死ねばいいと。
それはもう、他人には一切わかりません。ただ死ぬ時に、自分だけが「俺は自分の道徳律を破った悪事は働いていない、綺麗に死ねたな」と思えれば、それで満足だね。
――「こんなものが来たんだ」と渡邉氏は記者に1通の手紙を差し出した。差出人は「小林克己」となっている。「諸先輩 友人 知己の皆様」から始まるその手紙には「私 小林克己 はこのほど死亡いたしました」とある。
渡邉 小林克己君というのは、中曾根さんの秘書で、僕の旧制高校の2年後輩だった。東大でも一緒。僕が最も信頼して1番親しい弟のような後輩だった。
参議院の参事をやっていたのを僕が中曾根さんの秘書にした。彼が選挙事務長をやると、中曾根さんはトップ当選だし、(中曾根)弘文君も彼が事務長やって、当選した。手紙には「葬式その他これに類する行事は一切行なわないよう、周りの者に言い残してあります」とある。だが中曾根さんから電話が掛かってきて、いくらなんでも何もやらないのはおかしいから、と言って、ホテルで100人から200人くらい集まってお別れの会をやったんだ。中曾根派の与謝野(馨)君とか島村(宜伸)君とか、皆来てね。
これが死に方としては最も印象的だな。超理性的な死に方だ。実は、俺もこれやろうかな、と思っているんだ(笑)。「私 渡邉恒雄 はこのほど死にました」とね。
――自分の死亡記事を自ら書く、というテーマの『私の死亡記事』(文春文庫)。2000年に自らが書いた渡邉氏の「死亡記事」では、2021年に尊敬する務台光雄と同じ94歳で、カラス駆除中、転落死とある。巨人軍は2000年から2019年まで20連覇だ。
渡邉 野球は、白石(興二郎)社長をオーナーにしたし、僕はもう手を引いているんだよ。この記事を書いた頃は若かったからね。今は野球で時間潰していたら、政治経済を勉強している時間がなくなっちゃう。
――渡邉氏は「ナベツネ」と呼ばれるのを嫌う。しかし、死んだ翌日のスポーツ新聞の見出しにはおそらく「ナベツネ、死す」と掲載されるだろう。
この齢まで生きたのは、忙しかったから渡邉 僕は、煙草もやるし、酒もやる。医者の言う事の真逆のことをやってきた。
煙草は、紙巻は舌が荒れちゃうから、葉巻かパイプ。1日中吸うから、紙巻だったら百本超える。中学の時からだから、70年吸い続けたが、肺がんにならなかった。僕は医者によると、ニコチンでがんにならない遺伝子を持っているらしいんだな。
酒は日本酒だったら3合、ウイスキーはダブルの水割り3杯まで。これ以上飲むと気持ち悪くなっちゃう。終戦直後は、焼酎1升一気飲みなんてこともやったね。新宿の道路で寝込んじゃって、起きたら身ぐるみ剥がされて裸だった(笑)。
要するに、この齢まで生きたのは、忙しかったからだろうな。年がら年中頭使って、身体使ってた。渡邉氏は、知る人ぞ知る愛妻家で、家族を大事にしている。最期もまた、家族と共にありたいという。
妻は先に死んだ。1人息子は非常に親孝行でね、毎晩僕の家に来て、肩や身体を揉んでくれる。孫は今(2019年)高校生でしばしば僕の家に来てくれている。