拉致された4人の女性を全員取り返したレバノンに学ぶ

北朝鮮の拉致事件
北朝鮮は1978年、世界各地で拉致事件を起している

金正日
金正日総書記。奇想天外の拉致事件はこの男の指示で始まった
上の図にあるように、北朝鮮は日本だけでなく世界各国で拉致事件を起こしている。多くは日本同様にいまだに北朝鮮に留め置かれているのだが、例外がある。レバノンである。4人の女性が拉致されたのだが全員を取り返している。なぜ彼女たちは生還できて、日本人被害者は帰れないのか。2026年5月14日のJBpress「北朝鮮拉致問題『封印された真実』を追う」から撰述する。

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ジャーナリスト・高世仁氏は、1997年から北朝鮮による日本人拉致問題を追い、数々のスクープを放ちながら、その実態を日本社会に知らしめてきた。その高世氏が、氏をサポートする匿名のジャーナリスト集団NK917とともに、独自取材で得た情報と新たに入手した未公開情報をまとめ、この3月、『拉致―封印された真実―』(上下巻、旬報社)として上梓した。拉致問題報道の第一人者である高世氏が、多くの日本人がまだ知らない拉致問題の真実を伝える衝撃レポート。

高世仁
高世仁氏
*高世 仁(たかせ ひとし)
ジャーナリスト。1997年2月、横田めぐみさんと見られる女性を北朝鮮で目撃したとの元工作員の証言をスクープし、拉致疑惑が社会問題化する決定的な端緒を開く。拉致をはじめ、核・ミサイル開発、偽ドル偽造など北朝鮮の内実に迫るテレビ番組を数多く制作。また、有田芳生氏らとともに米紙「ニューヨークタイムズ」はじめ海外の新聞に意見広告を掲載するなど拉致に関する国際世論の喚起にも取り組んできた。「日本電波ニュース社」報道部長を経て、番組制作会社「ジン・ネット」を設立、代表を務め、現在はフリーランス。1953年、山形県生まれ。

 北朝鮮が拉致したのは日本人だけではなかった。いま判明しているだけでも、拉致被害者の国籍は優に10を超える。数ある拉致事件のなかでも、被害者全員の帰還が実現した稀なケースがある。1978年のレバノン女性拉致事件である。なぜ彼女たちは帰還できたのだろうか。そこには、日本が学ぶべき教訓が示されている。

 1978年7月、レバノンの首都ベイルートにある「YWCA秘書学院」に、日本人を名乗る2人の男が現れた。「日立の秘書を募集している」という。容姿端麗で独身、フランス語ができるとの条件が提示され、応募者20人の中から4人が採用となった。

 8月、4人は日本での「研修」のためベイルートを発ったが、その後、彼女らからの音信は途絶えた。4人の着いた先は東京ではなく平壌だったのである。

 家族たちは娘たちの行方を追って奔走した。ある女性の家族は、日本人を名乗る男たちに同行していたレバノン人が北朝鮮の通商代表部にいることを突き止め、連日押しかけて真相を明らかにするよう迫った。

 また別の女性の家族にはキリスト教の聖職者がおり、宗教家や政治家に捜索を依頼した。

 北朝鮮は家族の動揺を抑えようと、拉致から8カ月後の79年4月、4人のうち2人を旧ユーゴスラビアに送り、首都ベオグラードから家族に電話をかけさせた。当時、北朝鮮から国際電話をかければ、発信地が露見しかねなかった。それを防ぐためのカムフラージュである。北朝鮮にとって旧ユーゴは当時、欧州工作の重要拠点でもあった。

 2人のレバノン女性は、電話で家族をなだめるよう指示された。銃口を突きつけられ「元気に暮らしているから心配しないで」と震える声で親に語った。だが、そんな電話1本で家族たちの不信が解けるはずはなかった。

 2カ月後、レバノンの現地紙が「日本の有名企業の秘書に採用された4人の女性が消息を絶った」と報じ、騒ぎは一気に大きくなった。そこで79年8月、前回と同じ2人の女性がベオグラードに送られた。だが、この“電話作戦”こそが北朝鮮の致命的なミスとなる。

 家族への電話を終えた後、2人は決死の脱出を試みる。同行の監視役のすきを突いてホテルを抜け出し、通りかかったタクシーに無一文のまま飛び乗った。極度の恐怖と緊張のあまり、1人はタクシーの中で失禁したという。彼女たちはレバノン大使館に保護され、4人の失踪事件は北朝鮮による拉致と判明したのである。

 レバノン政府は北朝鮮に強く抗議した。特筆すべきは、政府だけでなく、北朝鮮と友好関係にあったPFLP(パレスチナ解放人民戦線)やレバノン共産党などの極左組織も身柄奪還に乗り出したことだ。

タイシール・クバア
タイシール・クバア
 なかでも熱心だったのがPFLPだった。創設メンバーで政治局員のタイシール・クバア(Tayseer Quba’a)が北朝鮮に乗り込み、指導部との直談判で強硬に迫った。

「女性を返さなければ、我々との友党関係は破壊されるだろう」

 その結果、脱出劇からわずか3カ月後の79年11月、北朝鮮は残る2人の身柄をレバノンに引き渡したのである。

 なぜ彼女たちは帰還できたのか。まず、家族が声を上げ、政界・宗教界を巻き込んだ大きな運動を作ったことが北朝鮮を動かす端緒となった。その圧力があったからこそ北朝鮮は“電話作戦”に出て、それが皮肉にも脱出の機会を生んだ。

 さらに政府だけでなく、北朝鮮に太いパイプをもつPFLPのような組織までが奪還に動いたことが決定打となった。

 翻って日本では、北朝鮮と友好関係にあった社会党(現・社民党)が「拉致はなかった」と否定する側に回った。それどころか、ヨーロッパで拉致されていた石岡亨さんが、家族あてに自身と有本恵子さん、松木薫さんが北朝鮮にいる旨を記した手紙を託し、ポーランド経由で日本に届いた時のことだが、有本さんの母・嘉代子さんらは、当時北朝鮮とのパイプがあると考えられていた旧社会党、とりわけ嘉代子さんが住む神戸選出の土井たか子委員長に相談した。そうしたら、旧社会党の北海道支部から有本さん宅に、石岡さんの手紙について「口外しないでくれ」と口止めの電話があった。

また、直後に北朝鮮側は、石岡さん、有本さん、子どもが石炭ガス中毒で死亡したと報告してきた。手紙到着からわずか約2か月後であり、しかも北朝鮮の「死亡確認書」には生年月日の取り違えなどの不正確なもので、後に書類自体が捏造だったことを北朝鮮側も認めている。このことから、直接の証拠はないが、土井たか子か事務所が手紙が来たことを北朝鮮側に通報したのではないかと疑われている。このとき、日本がレバノンのように断固とした態度に出ていたら違う展開になったのではないかと悔やまれる。

 それにしてもなぜ彼女たちはレバノンから拉致されたのか。その謎を解く鍵は、帰還した4人のうちの1人が下した、意外な選択に隠されていた。祖国で家族と再会したあとに、北朝鮮に戻った女性がいたのである。

シハーム・シュライテフ
シハーム・シュライテフ
 拉致被害者の1人、シハーム・シュライテフさんは、北朝鮮から帰還したとき、すでに妊娠4カ月だった。「子どもを授かった以上、その子の父親と結婚すべきだ」と彼女は言い、母親のハイダールさんが泣いて引き止めたにもかかわらず、平壌に戻っていった。

高世仁
シハームさんとパリッシュさん、3人の息子たち。
シハームさんの母親ハイダールさん(後列中央)が
平壌を訪問した際のスナップ(1990年)

 シハームさんによれば、お腹の子の父親は「元米兵」だという。取材の結果、彼は1963年12月に韓国の米軍基地から軍事境界線を越えて北朝鮮へと逃亡した米陸軍伍長、ジェリー・パリッシュ氏と判明した。

 母ハイダールさんは1990年、北朝鮮を訪れて娘のシハームさん一家と会った。そのとき、シハーム夫妻にはナヒー、リッキー、エリックという3人の息子がいたという。

 韓国から北朝鮮へと脱走した米兵は4人いる。拉致されたレバノン女性も4人。彼女たちは脱走米兵の“花嫁候補”として拉致された可能性が高い。

シハーム・シュライテフ
ハイダールさんは神戸で有本恵子さんの母、
嘉代子さんと面会し情報交換している。
来日したハイダールさんは神戸で有本恵子さんの母、嘉代子さんと面会している(2005年12月)。そこで、シハームさんと有本恵子さんは同時期に平壌産院で出産して知り合っていたことが判明している。

 曽我ひとみさんの夫で4人の1人であるチャールズ・ジェンキンス元米陸軍一等兵は、私たちの取材に対し、北朝鮮当局が元米兵4人全員にレバノン女性を妻としてあてがおうとしたと証言し、この推測を裏付けた。ジェンキンスさん自身は、「妻を押し付けられるのは嫌だった」ので彼女たちと会うことも拒否したという。

 レバノン女性の祖国帰還のあと、実際に元米兵と結婚したのは、シハームさん(レバノン人)、曽我ひとみさん(日本人)、そしてドイナ・ブンベアさん(ルーマニア人)、アノーチャ・パンジョイさん(タイ人)で、いずれも北朝鮮に拉致されてきた女性たちだった。

ルーマニア人拉致被害者ドイナ・ブンベアさんは1978年10月にローマで拉致され、北朝鮮で元米兵のジェームズ・ドレスノクと結婚。1997年1月に肺がんで死亡している。

タイ人拉致被害者、アノーチャ・パンジョイさんは1978年7月、マカオから拉致され、北朝鮮で元米兵のラリー・アブシャーと結婚した。

 北朝鮮には極端な「純血主義」があり、外国人との“混血”は忌避される。元米兵との結婚相手として外国人女性が必要だったのだろう。

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【 北朝鮮に入った4人の米兵と充てがわれた拉致被害者の女性たち 】

ジェリー・パリッシュ
ジェリー・パリッシュ

ジェリー・パリッシュ(Jerry Wayne Parrish)

1960年代以降、4人の米兵が北朝鮮に亡命している。いずれも脱走兵で、最初に非武装地帯(DMZ)を越えて北朝鮮に入ったのはラリー・アブシャー上等兵(1962年5月)。つづいてジェームズ・ドレスノク二等兵、パリッシュ、チャールズ・ジェンキンス軍曹の順。

パリッシュはケンタッキー州生まれ、アメリカ陸軍伍長として韓国(在韓米軍)に派遣された。パリッシュが脱走したのは1963年12月のことで、まだ19歳であった。ジェンキンスの自伝よれば、彼の亡命の理由は「個人的なものであり、もし彼が家に帰ったら義父が彼を殺してしまうだろうという以外は、その件についてあまり詳しく述べなかった」という。

1978年、彼はレバノン人女性のシハーム・シュライテフと結婚した。前述のようにレバノンから拉致された4人は全員帰還したがシハームだけはイスラム教徒で、彼女はすでに妊娠していたので、イスラームの教義にしたがい北朝鮮に戻った。2人は3人の息子を設けた。 結婚した米兵4人は立石里にある米国人用のアパートに入居した。ドレスノクとドイナ・ブンベアの夫婦、ジェンキンスと曽我ひとみの夫婦も同じころ子どもができていたので、アパートはさながら幼稚園の様相を呈していた。アブシャーの未亡人となったタイ人のアノーチャ・パンジョイの棟の1室が幼児教育の場となり、アノーチャが子どもたちのおばさんのような役回りとなったという。

彼らは主体思想を学ばせられ、北朝鮮のプロパガンダ映画の俳優になることを余儀なくされている。妻シハーム・シュライテフは映画『青い目の平壌市民(原題:"Crossing the Line")』に出演し、誘拐されて北朝鮮にいる事情を自らの選択でそこにいるのだと語った。映画によれば、パリッシュは腎臓障害のため1998年8月25日に死亡した。シハームとその子供たちは今も北朝鮮で生活している。

ラリー・アブシャー(Larry Allen Abshier)

ラリー・アブシャー
ラリー・アブシャー

1943年アメリカ合衆国中西部のイリノイ州アーバナ生まれ。アメリカ合衆国陸軍の第1騎兵師団、第9騎兵連隊第1偵察中隊に所属する二等兵のとき、1962年5月28日、在韓米軍基地をひそかに脱出、DMZ(南北軍事境界線)に忍び寄ってこれを越え、北朝鮮に逃亡した。当時19歳であった。

チャールズ・ジェンキンスによれば、脱走兵4人は数年にわたって共同生活を送り、金日成の書いた文章を読まされ、暗記させられた。「彼は単純で、優しく、善良な魂の持ち主だが、少し頭が鈍くて簡単に付け込まれる人物」で後述の同じ脱走兵、ドレスノクからいじめを受けていたが反抗することもなかったという。あるときドレスノクがいつものようにアブシャーを小突き回したとき、アブシャーがついに拒絶したため、ドレスノクがアブシャーに襲いかかろうとしたのでジェンキンスが一発くらわして守ってやったら、その後ドレスノクは、敵意の対象をジェンキンスに移した。

アノーチャ・パンジョイ
アノーチャ・パンジョイ
4人の米国脱走兵にはは、料理人であり「世話係」であり、ときに性的パートナーともなりうる北朝鮮の女性が与えられていた。多くは結婚した後、何年にもわたって子供がいなかったので不妊症と判定され離婚させられた女性たちであった。しかし、アブシャーの料理人は思いがけず妊娠し、そのことが判明してすぐに彼の元から消え去ったという。

その後、アブシャーは別の女性と結婚した。ドレスノクは女性は朝鮮人であるとしているが、ジェンキンスはアノーチャ・パンジョイというタイ人女性であると述べている。ジェンキンスによれば、彼女はマカオでマッサージ師として働いていたところを北朝鮮工作員に拉致されて北朝鮮に連行され、まもなく1978年にアブシャーに「与えられた」女性である。アブシャー夫妻には子供がいなかった。

1983年7月11日の真夜中過ぎ、平壌直轄市で心臓発作によって40歳で突然亡くなった。アブシャー死後、アノーチャは1989年、東ドイツの実業家と再婚させるためアパートから連れ去られた。

ジェームズ・ドレスノク(James Joseph Dresnok)

ジェームズ・ドレスノク
ジェームズ・ドレスノク
1941年、バージニア州リッチモンド生まれ。10歳の時に両親が離婚し、父親とともにペンシルバニア州へ移る。弟は母親に引き取られ、離婚後2人とは会っていない。父親は新しい女性を見つけたが、その女性がドレスノクを育てることを拒んだため、児童養護施設に送られた。17歳の時、高校を中退して陸軍に入隊した。その後結婚したが、西ドイツの米軍基地に配属されている間、アメリカに残っていた妻が浮気し、帰国後に離婚を告げられる。次いで韓国に配属され、二等兵として軍事境界線での警備に就いた。

1962年8月15日、仲間の兵士が食事をとっている隙に、境界線を越えて北朝鮮領内に逃亡した。書類のサインを偽造した容疑で軍法会議にかけられ、処罰から逃れるための脱走だったが、のちに脱走の理由について「自分の子供時代、結婚、軍隊生活すべてに嫌気がさしていた。俺はならず者だった。自分が行く場所は一つしかなかった」と話した。

身長196センチ、体重120キログラムという巨漢の彼は生まれついてのガキ大将タイプで、少し鈍いラリー・アブシャーをいじめてばかりいた。見かねたジェンキンスが一発くらわして以降2人は犬猿の仲になる。4人はアブシャー、パリッシュ組とドレスノク、ジェンキンス組の2組に分けられて徹底的に監視され、互いに連絡を取りあうことさえ禁止された。ジェンキンスの証言によれば、ドレスノクは体制側に付いて、よく自分を殴ったという。彼は巨体を遺憾なく発揮し、仲間を殴ることを楽しんでいたという。

ドイナ・ブンベア
ドイナ・ブンベア
1978年、イタリアから拉致されてきたルーマニア人ドイナ・ブンベアと結婚。ドイナが1997年にガンで他界した後、1999年、北朝鮮人とトーゴ人のハーフである女性ダダと再婚した。ドイナとの間に2人の息子、ダダとの間に1人の息子がいる。息子の、テッド・ドレスノク(朝鮮名ホン・スンチョル)は軍事教育機関勤務、ジェームズ・ジュニア・ドレスノク(朝鮮名ホン・チョル)は朝鮮人民軍上尉になっている。その姿は、米国の親北朝鮮系ニュースサイト民族通信とのインタビューで初めて明らかにされた。

アブシャーとパリッシュが死亡し(北朝鮮政府は、国内で自然死したとしている)、ジェンキンスが2004年2人の娘とともにジャカルタへ出国、妻で日本人拉致被害者の曽我ひとみと日本へと渡ったあと、彼は北朝鮮国内に残っている最後の逃亡アメリカ兵であったがが、2016年11月に脳卒中で死去した 。74歳。


チャールズ・ジェンキンス(Charles Robert Jenkins)

チャールズ・ジェンキンス
チャールズ・ジェンキンス
1940年2月18日ノースカロライナ州生まれ。下士官(軍曹)として朝鮮半島軍事境界線に駐留中に北朝鮮側に投降、2004年まで同国に滞在していた。北朝鮮による拉致被害者の1人である曽我ひとみと結婚、妻が日本への帰還を果たした後の2004年、娘達を連れて自身も日本へ亡命した。在日米軍に出頭し、軍法会議で不名誉除隊処分、二等兵に降格されている。

実家は綿花農場を営んでいた。15歳でノースカロライナ州軍に入隊、1958年、州軍から連邦陸軍へと転属を許可され、第1機甲歩兵師団に配属され、1959年、上等兵に昇進。韓国へいくとすぐに出世できると聞いて、親しくなった配置転換の担当者に希望を言うと、数日後には韓国行きが決まった。1年で軍曹まで昇進した。

若くして軍曹に昇進して下士官の地位にあったジェンキンスは、12人の兵の指揮者として分隊を任されていたが、1964年のクリスマス直前にら第1騎兵師団はいずれ、ベトナム戦争に派遣される予定だという情報を聞いた。

ベトナム戦争に反対だったジェンキンスは、アルコール依存症に陥る。命令を拒否すれば軍法会議にかけられ通常より厳しい裁きが下されると考え、残された道は「無許可離隊」(脱走)しかないと思い詰めるようになった。1965年1月5日早朝、偵察に向かう」と告げて偵察に向かい、そのまま戻らなかった。

北朝鮮に入ったジェンキンスは10日以上尋問を受けたあと、先にいた脱走兵たち(ドレスノク、パリッシュ、アブシャー)たちと合流した。ドレスノクとパリッシュからは質問攻めにあった。どうして軍曹であるジェンキンスが脱走したのか聞かれたので「ベトナムに行きたくなかった」と答えると、ドレスノクは「あなたは片足を煮え湯の鍋に突っ込んでいたのかもしれないが、ここへ来たら火の中に飛び込んだも同然だ」と話した。

1980年6月30日、ジェンキンスの家に日本人拉致被害者の1人曽我ひとみが連れて来られた。彼女はそれまで横田めぐみと1年半同居して、彼女から朝鮮語の初歩を習っていた。ジェンキンスはひとみに英語を教えるよう命じられていたが、当局が2人を結婚させたがっていることは明白であった。ジェンキンスは何度か彼女にプロポーズをしたが、そのたびに断られた。ようやく彼女から同意を得て、2人は出会ってから40日後の8月8日に結婚式を挙げた。し結婚式から数か月してひとみが妊娠した。そのころには、2人はお互いを愛し合うようになり、信じあい、頼りにしあうようになっていた。

曽我ファミリー
曽我ひとみさんとジェンキンスさん、長女の美花さん。
左後方に写るのは拉致被害者のアノーチャ・パンジョイさん。
砂遊びしているのはシハームさんの息子
(1984年、元山の海水浴場)

2人は1983年に長女のロベルタ・ミカ・ジェンキンス、1985年に次女のブリンダ・キャロル・ジェンキンスの二女をもうけた。1984年、脱走アメリカ兵たちはジェンキンスの住んでいた立石里の家の横に建てた新しいアパートにそろって住むこととなった。未亡人となったアノーチャとジェンキンス一家が2階、パリッシュとドレスノクの一家が3階に住んだ。

2002年9月17日、小泉純一郎首相が訪朝し、1日だけの日朝首脳会談を開いたが、それまで「事実無根」としてきた日本人拉致被害者の存在を北朝鮮政府が公式に認めると、曽我ひとみの夫であるジェンキンスの消息も同時に明らかとなった。その後、めまぐるしく事は推移して10月15日、妻が日本に帰国を果たした。平壌国際空港への見送りには、ジェンキンス、美花、ブリンダのほか、横田めぐみの娘キム・ヘギョンの姿もあった。そのときは、ジェンキンスもひとみ自身もすぐ北朝鮮に戻るような気持ちでいたという。

2003年春、5人の拉致被害者たちは北朝鮮には戻らないことを決め、4月14日、記者会見を開いてその意思を表明した。いずれも子供達を北朝鮮に残しての決断であった。彼らは、北朝鮮に戻ることは誰の利益にもならないと考えており、北朝鮮に抑留されている家族は無事に日本側に引き渡されるよう、日本政府が交渉をまとめてくれると信じていると語った。しかし、指導員がジェンキンスに伝えたのは、記者会見で5人は北朝鮮への帰国を認めない日本政府を非難したという嘘の内容であり、ジェンキンスはそれを信じて日本政府をたいへん恨んだし、死さえ望んだという。金日成と金正日の肖像画を指差し、「あのクソ野郎さえいなければ、今頃俺は家族そろって暮らしているはずなのだ」と叫んで同席した娘が卒倒しそうになったこともあった。

ジェンキンスと2人の娘はその後、小泉首相と会談し、小泉が「そもそもひとみさんを拉致したような国に、お返しするわけには行きません」「彼女は北朝鮮に戻りたくはないのです。あなた方に日本に来てもらいたがっているのです」と説得した。逃亡兵となっている立場もあり、北朝鮮側の監視もあってジェンキンスは日本行きを決めかねていた。小泉は、金正日総書記は行ってもよいと言っていると語ったが、日本の外交官が、まずは第三国で家族会議を開いてはどうかと提案し、それはよい考えだとジェンキンスも賛意を示した。候補地としては、中国は曽我ひとみが嫌がり、シンガポールは親米的すぎるのでジェンキンスが難色を示してインドネシアではどうかという話にまとまった。

曽我さん帰国
曽我ひとみさんとチャールズ・ジェンキンスさん、その長女・次女の
4人は2004年7月18日ジャカルタから日本へ帰還した。
2004年、日本政府がアメリカ政府との交渉によって穏当な判決を軍法会議で行う確約を取りつけたことから、同年7月9日、治療という名目で娘2人とインドネシアへ出国し、そこで家族会議を開いた。ひとみは、自分ばかりではなくジェンキンスとジェンキンスの母親や家族のためでもあると彼を説得した。ジェンキンスは葛藤をかかえつつも日本行きに同意し、娘たちも最終的には同意して、7月18日、妻のいる日本に入国した。

2004年9月11日、ジェンキンスは在日米軍のキャンプ座間(神奈川県座間市・相模原市)へと向かい、陸軍憲兵隊長として出迎えた陸軍中佐に敬礼の上で出頭を報告し、軍人としての礼式に則った行動を示した。アメリカ軍はジェンキンスが軍の指揮下に戻ったことを確認、11月3日、軍法会議でジェンキンスは逃亡に関する罪、及び利敵行為に関する罪を認め、合衆国軍は軍曹から二等兵に降格処分の上、不名誉除隊と禁錮30日の判決を下した。2004年11月27日、模範囚として予定よりも5日間早く釈放され、正式にアメリカ軍人としての経歴を終えた。

2005年に、93歳となっていた母を見舞うためにアメリカへと家族を連れて帰国し、初対面となる孫と母を引き合わせた。帰国後の6月14日に妻の実家がある佐渡島に居を構え、佐渡市の観光施設の職員として余生を送ることになった。2005年に自らの経験を綴った回想録『告白』を執筆、アメリカでは『望まぬ中での共産主義―逃亡と北朝鮮における40年間の懲役』として2008年3月1日に出版された。

2017年12月11日、体調が急変し自宅玄関前で倒れ病院に搬送され、同日20時52分に死去。77歳。MRI検査によっても本当の死因は分からなかったが、死亡診断書には「致死性不整脈」と記された。

(敬称略)

◇ ◇ ◇

 しかし、レバノン女性たちが平壌で強いられたのは、結婚だけではなかった。さらに取材を進めると、彼女たちは花嫁候補であると同時に、別の目的のために選ばれた可能性が浮上してきた。

 レバノンに帰還した拉致被害者の1人は、北朝鮮到着後についてこう語った。平壌近郊の「外界から隔離された地域」で2人一組にされ別々の家屋に幽閉された。家には身の回りの世話をする家事担当の中年女性がいた。朝鮮語の学習を強いられたうえ、アラブ語の堪能な朝鮮人から金日成や北朝鮮の体制を賛美する講義を受け、プロパガンダ映画を見させられた。

 洗脳教育を受けただけでなく、射撃・爆破訓練・武術・鍵の開け方などの工作員用の訓練も課せられていた。

 レバノン現地紙『アル・ナハール』によれば、拉致被害者からの情報として「5人のフランス人女性とオランダ人、西ドイツ人」も訓練を受けていたと報じている。レバノンでの募集の際の条件──美貌、独身、フランス語能力──からも、北朝鮮は世界各地から女性たちを拉致して工作員を養成しようとしたとみられる。

 ジェンキンスさんは北朝鮮当局が、自分たちの娘たちをもスパイにしようとの意図をもっていたと信じている。

「金正日同志の偉大なお心遣いによって、あなたがたの子どもたちが平壌の外国語大学へ入学できることになった」

 1995年、幹部から告げられたこの「朗報」を、ジェンキンスさんは事実上の「工作員召集令状」と理解した。ジェンキンスさんの危惧には根拠があった。平壌外国語大学は大韓航空機爆破事件の実行犯・金賢姫(キム・ヒョンヒ)の出身校であり、ここから工作員に選抜される学生は少なくない。

 4人の元米兵の子どもたちは欧米系の顔立ちをしていた。ジェンキンスさんは、彼らが資本主義圏向けの工作員候補として目をつけられていると疑った。その疑念を確信に変えたのが、ある幹部が放った次の言葉だった。

「我々が経験から学んだことは、少女たちこそ最も優れた革命家になれるということだ。そう、女性革命家を我々は必要としているのだ」

 北朝鮮では「革命家」という言葉は、しばしば「工作員」を意味する。直接的な表現こそ避けたものの、当局の意図は明白だった。

 北朝鮮が外国人女性を拉致した目的が工作員養成にあったのなら、その子どもたちもまた国家の工作システムに取り込まれていく可能性がある。ジェンキンスさんが危惧したように、拉致被害者や元米兵など北朝鮮にいる外国人の子どもたち、「第二世代」が工作員として育てられているとしたら??それを確かめる手段が、今の私たちにはない。北朝鮮による拉致が生んだ問題は、第一世代で終わらないのである。