八田與一の生涯

「台湾」で今なお、大人からも子どもからも尊敬されている日本人

八田與一
烏山頭ダムの一角にある八田與一の座像
中国の反日はとどまるところを知らない。2025年11月には中国外務省の劉勁松アジア局長が日本の金井正彰アジア太平洋局長にわざとポケットに手を入れたまま対応したり、薛剣駐大阪総領事領事が高市早苗首相に「その汚い首は一瞬の躊躇もなく斬ってやるしかない」と投稿したり、やりたい放題だ。

しかし、その中国の対岸「台湾」は多分世界一の親日国である。いざ「台湾有事」では日米共同して侵攻に立ち向かうという安全保障面での信頼感から来るところもあるが、それよりずっと前から台湾の人は日本に心を寄せてきた。

台湾台南市にある烏山頭ダムの一角に一人の日本人の銅像がある。正装して正面向いた威風堂々の姿ではなく、普段着らしい作業着で片膝に置いた腕に頭をのせ、なにか考え事をしているかのように、遠くを見つめている。

八田與一(はったよいち)といっても、日本では誰もピンとこないだろうが、台湾では荒地だった嘉義台南平野十五万町歩 (一町歩はおよそ一ヘクタール)の農地を潤す烏山頭(うさんとう)ダムをつくりあげ、六十万人の農民から神のごとく祭られ、毎年の命日は農民によりお祭りが行われていて、教科書をつうじて子どもから大人まで全台湾人が知っている日本人なのである。

高速鉄道
台湾最大の穀倉地帯である嘉南平野を貫くように台湾高速鐵路(台湾高鐵)が突っ走っている。
2004年日本から新幹線の車両技術を現地導入して完成した。この地を沃野に変えたのが八田與一だ。

嘉南平野
嘉南平野
台湾南部に嘉南平野(嘉南平原)がある。広大な平野だが冬は雨が少なく塩害に悩まされていた不毛の大地だった。日本統治時代に台湾総督府はこの地を沃野に変えようと大規模な灌漑施設の建設を計画した。その設計と建設を任されたのが日本人技術者、八田與一である。

この計画というのは、嘉南平野を流れる台湾で4番目に長い曽文渓(そぶんけい)*1の流れを中途でせき止める烏山頭(うざんとう)ダムを建設し、この水で華南平野一帯を潤すというもので、その計画全体の名称が「嘉南大圳」(かなんたいしゅう)*2である。

*1 台湾で「渓」は日本でいう「川」、大きな川を「河」といい、中小河川を「渓」とよぶ。
*2「圳」は中国南方(特に広東・福建・台湾)で使われる字で、「人工の水路」「灌漑用の溝」 を意味する。 「大圳」はそのまま 大きな水路・大規模な灌漑施設 のこと。

嘉南平野
今に残る八田與一の生家(金沢市)
八田與一は明治19年(1886)2月21日、石川県河北郡花園村(現・金沢市今町)に生まれた。幼少期より学業に秀で、第四高等学校を経て東京帝国大学工科大学土木工学科に進学する。父は医師で、生活は安定していたが、與一少年の心をとらえたのは、町を流れる用水と川だったという。

八田與一
八田與一
雪解け水が勢いよく流れる春、逆に水量が減り田が干上がる夏。水一つで人の暮らしが天国にも地獄にも変わることを、幼い與一は肌で感じていた。後年、彼が「水を制することは、人の生を支えることだ」と語ったと伝えられるが、その思想の芽はこの頃すでに育まれていた。

当時の日本は、近代国家としての基盤整備を急速に進める時代であり、土木技術者は国家発展を担う重要な存在とみなされていた。1910(明治43)年、大学を卒業した八田與一は台湾総督府の土木局技師として台湾へ渡る。南国の陽光に包まれた島は一見豊かに見えたが、嘉南平原の現実は苛烈だった。

金沢で生まれ育ち東京で土木工学を学んだ八田與一がはるか遠い台湾に赴任するに至った事情を少し説明する必要があろう。まず、彼が社会人になった明治末の台湾の状況から

明治政府は日清戦争(1894-1895)の勝利によって、1895(明治28)年に台湾と澎湖(ほうこ)島を版図に入れた。しかし、当時の台湾は、清朝が「化外(けがい)の地」「化外の民」と呼ぶ未開の島であった。中国でいう「化外」とは、中央の王朝の文化圏に属さない野蛮な地域のことだ。

李鴻章
李鴻章
例えば日清戦争の清側の講和全権大使として伊藤博文と下関条約を調印した李鴻章をして「日本はあんな島を手に入れてどうするんだろう」と同情されるような新領土であった。やがて、その同情が現実となって襲いかかって来た。台湾島は、日本の領有に異を唱える土匪(どひ)の反抗、領地への侵入者を許さない原住民族の存在、さらに、漢民族に蔓延する阿片吸引の悪習、マラリア、コレラ、ペスト、アメーバ赤痢等の風土病に侵されたまさに「化外」の島であった。

下関条約
下関条約調印式(絵画)
※下関条約 1895年4月17日に下関の春帆楼で締結された日清講和条約(下関条約)の全権は、日本側が内閣総理大臣・伊藤博文と外務大臣・陸奥宗光、清国側が直隷総督・北洋大臣の李鴻章以下3名。この条約で朝鮮の独立、台湾・遼東半島・澎湖諸島の割譲、賠償金2億両が定められた。

台湾総督府がこれら台湾に蔓延する悪習や土匪の討伐などと戦い、なんとか原住民族への理蕃(りばん)政策が最終的に成功するのには、初代から数えて第5代の佐久間左馬太(さまた)総督の時代まで、15年の歳月と莫大な国家予算それに多くの犠牲者を出していた。次第に治安が良くなるにつれて移民も増え台湾での経済活動も盛んになり、台湾の人口も増えていった。しかし風土病をほぼ駆逐するのには40年、阿片吸引の悪習の終焉には50年近い時間を要している。

※理蕃(りばん)政策とは、日本統治時代の台湾(1895?1945年)において、山岳地帯に居住する先住民(当時は「蕃人」と呼ばれた)を支配・統制するために総督府が実施した一連の政策。武力による鎮圧と開拓地への強制移住、生活様式の強制変更などがある。

台湾の治安がようやく良くなってきた1910(明治43)年に、この地の”総司令部”である台湾総督府土木部にエリート官僚、技手として赴任してきたのが八田與一である。

八田は、第四高等学校では『善の研究』で有名になる西田幾多郎に学び、同級生には正力松太郎(警察官僚から読売新聞社主)や河合良成(政界では吉田内閣の厚生大臣、財界では経営不振だった小松製作所の社長として再建した)がいた。八田は、東京帝大工科大学に入学してから最も影響を及ぼす師と出会うことになる。廣井勇教授である。

廣井勇
廣井勇
廣井勇教授は明治10年(1877)札幌農学校(北海道大学の前身)に2期生として入学し、第2代教頭のウイリアム・ホイラーに学び、卒業後は自費でアメリカに渡りミシシッピー川の開発工事に従事した後にドイツに留学、28歳にして札幌農学校の教授に迎えられ、北海道庁の技師を兼務、100年以上たった現在も現役の小樽北防波堤を構築し、38歳で東京帝大の教授に迎えられた人物である。廣井の研究室からは日本近代土木史に燦然と輝く「廣井山脈」と呼ばれるきら星が輩出している。八田もその一人であった。

廣井勇は札幌農学校2期生で、新渡戸や内村鑑三、宮部金吾らとともに学んだが、自身も土木技術者として多くの事績を残し、国際感覚を持った人材を多数育てている。その死にあたり内村鑑三が「廣井君在りて明治大正の日本は清きエンヂニアーを持ちました。(中略)君の工学は君自身を益せずして国家と社会と民衆とを永久に益したのであります。」(舊友(旧友)廣井勇君を葬るの辭)と葬送したことはよく知られている。

八田を育てた廣井勇は「八田のような大風呂敷を広げられる人間は、内地に居ては狭量な役人に疎んぜられる」と外地への就職を勧めたのも廣井教授であった。当時、日本が領有していた台湾や朝鮮、それに樺太などは、これから開発が期待される土木の新天地であった。そこで八田は、台湾を選んだのである。ここで少しわきに逸れるが、台湾に大きく関わった当時の札幌農学校、後の北海道大学の人脈に触れたい

札幌農学校のフロンティア・スピリット人脈が台湾を支えた

台湾の近代化には、上述の廣井勇のほか多くの札幌農学校卒業生たちが関わっている。「Boys, be ambitious!」(少年よ大志を抱け)の言葉を残したクラーク博士の教えに奮い立ったフロンティア・スピリット(Frontier Spirit)旺盛な卒業生は、当時の台湾が抱えていた未知の領域や困難な課題にもろに立ち向かい「開拓者精神」を発揮したのである。

李鴻章は 台湾を「“化外の地”(文明の及ばない地)、“難治の地”」とよび、彼と対峙した伊藤博文首相は「三年小 反、五年大反(乱)」(反乱が絶えず起こる)と表現した。また、第3代総督乃木希典は、日本による台湾統治を指して「乞食ガ馬ヲモライタル如ク飼フ事モ出来ズ乗ルコトモ出来ズ」と如何に“難治”の地だったかを言及している。

日本による台湾経営は、当初、台湾総督府が軍事行動を前面に出した強硬な統治政策を行ったが、明治31年(1898)ごろ、児玉源太郎第4 代総督、後藤新平民政長官の時代になると近代化政策に転換し、土地改革、環境衛生施設をはじめ電気供給・交通・情報施設など社会基盤の整備、学校教育の普及、製糖業などの産業育成に取りくむようになった。

新渡戸稲造
新渡戸稲造
その先頭に立ったのが札幌農学校の卒業生だった。嚆矢である新渡戸稲造は、国際連盟事務次長に転じる以前、同郷の後藤新平長官に招聘されて台湾総督府民政局殖産課長兼糖務局長としてサトウキビ生産の改良や砂糖の増産など製糖振興に尽力、“台湾砂糖の父”と言われている。わが国初の農学博士である新渡戸は国の隆盛の基礎には農業振興が欠かせないとし、台湾において製糖を振興するための「改良意見書」を提出、自ら指導するなど、糖業の飛躍的発展に貢献した。

柳本と新渡戸
1905年統治状況視察のため台湾を訪れた
新渡戸稲造(前列右)と柳本通義(左)
(北海道大学文書館所蔵)
殖産課長として新渡戸稲造が赴任する前任者は札幌農学校 1 期生の柳本通義だった。彼は主にセルロイドの可塑剤であった樟脳の生産振興(専売事業化)や先住民地域の殖民地撰定調査に尽力した。 柳本は札幌農学校第1期生でクラーク博士から直接講義を受けていて、新渡戸とは東京英語学校、札幌農学校で共に学び、公私に渡って交流を重ね、台湾で新渡戸の不在中は殖産局長代理も任されていたほど。

橋口文蔵
橋口文蔵
当時、台湾総督府は「農業台湾」の基本政策を掲げていて、殖産局では殖産振興の一つとして珈琲栽培の試験が行われていた。その任務にあたる人材として札幌農学校に連なる人脈を重用した。その珈琲栽培を推進した中心人物が殖産局長の橋口文蔵(台湾在勤895-1898)と新渡戸稲造だった。

台湾には当時の帝国大学の演習林がいくつもあったがその一つ、埔里にあった北海道帝國大学農学部附属台湾演習林(現在の中興大学)がその舞台になった。橋口は、札幌農学校初代教頭クラーク博士が学長だったマサチューセッツ農科大学で学び、帰国後に札幌農学校校長を経て、北海道庁第二部長となっている。初代台湾総督の樺山資紀の甥にあたる橋口は、初代殖産局長として台湾に赴任、次々代は新渡戸稲造で、ともに珈琲木の栽培に傾注した。現在、阿里山などの高地で栽培される高品質なスペシャルティコーヒーとして人気が高い「台湾コーヒー」の土台をつくったのはこの二人である。

磯永吉
「蓬莱米の父」磯永吉
札幌農学校は、明治40年(1907)東北帝国大学農科大学に改称、大正7年(1918)北海道帝国大学となるが、その東北帝国大学農科大学時代の明治44年(1911)に卒業した磯永吉は、卒業後台湾での研究・教育に一生を捧げた人物である。彼は日本向けの米を栽培できるよう台湾米の品種改良に取り組み、インディカ米とジャポニカ米の交配による「蓬莱米」(大正15 年の命名)を産み出した。モチモチした食感で日本の米に近いため、日本人にも親しみやすく、台湾での食糧の増産へ絶大な効果をもたらした。今も台湾の主産米で“台湾米(蓬莱米)の父”と呼ばれている。

磯は戦後も請われて台湾に残留した。さらに10余年の台湾農業への貢献を終え、彼が帰国したのは昭和32年。帰国に際し、 台湾政府は毎年1,200キロの蓬莱米を終生彼に贈ることを決め深謝の意を表明した。

八田與一の初仕事は台南上水道工事

台湾総督府に赴任した八田はまず土木部に籍を置き衛生工事を担当することになった。ここで東大の先輩である濱野弥四郎技師の下で台南上水道工事に携わった。濱野は不衛生な台湾の上下水道工事の先駆者として活躍していた。台南上水道は、濱野設計の集大成といえる画期的な施設で、当時の人口が6万人に満たなかった台南市に対し、10万人分の飲料水を送ることができる最新設備を備えた大規模浄水システムで、水源は曽文渓に求めた。

濱野と八田は水源調査で台南市や曽文渓周辺の調査をくまなく行い、水源地を山上の地へ置くことを決めていた。この調査で、八田は台湾第四の河川・曽文渓から台南にまたがる地形に精通し、水路の引き方や暗渠、開渠をはじめとする水利工事の工法など、多くの知識を濱野から実地に学ぶことができた。八田は、後に挑む嘉南大圳(かなんたいしゅう)新設事業の巨大プロジェクトで同じ曽文渓の水を選んだ下地となった。

台南上水道工事に携わって2年目、八田は衛生工事担当から発電灌漑工事担当に異動となった。八田の異動には裏事情があった。その頃、総督府は台湾島内の人口増加に対応するため米の増産が課題となっていた。そこで土木局では水田の適地を探し当て灌漑工事の実施計画を立てていた。その適地とは、台北の南西、桃園庁(現桃園市)の高原3万3,000haの大地である。「桃園埤圳(ひしゅう)」と名付けられた灌漑工事は、桃園台地に2万2,000haの完全な良水田を得る目的で企画されていた。土木局はこの工事の設計を、八田を中心とする若手技師たちに行わせようと考え、八田の配置換えをしたのである

「埤圳」という言葉の「埤(ひ)」とは、農業用の貯水池のことで「圳(しゅう)」とは、その水路を指して言う。「大圳」という言葉は、大正期に造られた造語で、規模の大きな灌漑施設に使われるようになった。

桃園埤圳の工事に携わることになった八田は、若い有能な技師と共に山に入り、高原を走り、短期間で基本設計書を作り上げた。この基本設計は、淡水河の上流、石門の地に取水口を設け、約20kmの導水路を造り、この導水路の途中に多数存在する貯水池を結ぶネットワークを構築して、ここから幹線、支線、分線の給水路を通して、河川の水と雨水を利用して灌漑するというもので、いわゆる溜池灌漑方式をとったのである。

この基本計画は総督府で認められ、1916(大正5)年11月には着工された。7カ所の隧道は総延長14.6km、暗渠、開渠数13カ所で総延長5.3km、貯水池数231カ所、水路の総延長に至っては281kmの規模で、竣工までには9年間を要した。この完成により、およそ2万2,000haの土地が灌漑され、計画通りの良水田が得られた。

桃園埤圳を設計し、工事に携わっていた八田はその業績を認められ、総督府内でも、高く評価されるようになった。八田にとって、桃園埤圳工事は次の工事へと続くスプリングボードであった。



八田與一が台湾最大の不毛の大地への挑戦をまかされたワケ

八田が渡台した明治43年(1910)年の日本の人口は5,000万人弱だったが、5年後には5,300万人近い人口に膨れ上がっていた。その結果、食料不足の深刻な状態が続いていた。

そんな折、大正7年(1918)に富山県で発生した米騒動が全国に波及した。そこで政府は、台湾を日本の食料供給基地にすべく台湾総督府に食料、特に米の増産を促した。その総督府も人口の増加と南部の工業化に伴う電力不足の解消という課題を抱えていた。

この2つの課題を解決するため、灌漑用のダムと水力発電用のダムの適地調査を実施することにして土木局に依頼した。のちの「嘉南大圳」となる原案である。そこで選ばれたのが当時、桃園埤圳に全力で取り組んでいた八田だった。

「桃園は順調に進んでいる。君がいなくてもなんとかなる。別の調査を早急にしてほしい。発電用と灌漑用のダムの適地を見つけてきてほしい」

以来、八田を中心に若き技師が適地探しのために台湾全島を調査した。風土病があり、道なき道を踏破する調査は厳しかったが、その結果、貯水池が造れる場所は曽文渓の支流、官田渓だけであることも分かった。八田はこの台地に水路を引けば、不毛の大地が台湾最大の緑野に変わるはずだと考えた。総督府に帰任した八田は、基本計画を作り、提出した。「官田渓埤圳工事計画」である。

数日後、下村宏民政長官*に呼ばれ「米の増産とサトウキビの増産をするための灌漑施設を考えてくれ」と追加要請を受けた。八田はサトウキビ12万トンの増産のため、灌漑面積を15万haに拡張した。新たな水源には台湾最長の河川・濁水渓からの取水を考えて計画書を作り提出した。日月潭水力発電計画と官田渓埤圳計画の2つである。

下村海南
下村海南(下村宏)
※下村宏(1875- 1957 ) 号の「下村海南」(しもむら・かいなん)の方が知られている。台湾民生長官の後、大阪朝日新聞社に入社し、専務、副社長を歴任、1937年に貴族院議員となって以降も、日本放送協会(NHK)会長、鈴木貫太郎内閣の国務相兼情報局総裁を務めた。戦後は拓殖大学の総長も務めた。佐佐木信綱(ささきのぶつな)門下の歌人としても有名で「海南」は歌人としての号。

総督府の会議室で八田の説明を聞き終わると、多くの技師がその工事規模の大きさに驚嘆した。灌漑面積15万ha、給水路1万km、排水路6,000km、工事期間およそ6年間、必要経費は事務費を入れて4,200万円(現在に換算するとおよそ1兆円)である。

「水源は、どうする」と聞かれると「濁水渓からの直接取水で5万2,000ha、それに官田渓に造るダムから9万8,000haの灌漑を考えています」と答える。「ダムの規模は」と聞くと「有効貯水量約1億5000万トンのダムを半射水式(セミ・ハイドロリック)で造ろうと考えています。これがその設計図です。全部で300枚余りあります」とすらすらよどみなく説明する八田。

そのダムの設計図を見て、技師全員が我が目を疑った。堰堤長1273b、堰堤の高さ56b、底部幅303b、頂部幅9bの巨大な堰堤の断面図が描かれていたのである。東洋はおろか世界にも例がない規模のダムを、33歳の技師が設計していたのである。

それまで「八田の大風呂敷」と呼ばれていた男の具体的な数字の前に局長以下、ほとんどの技師が言葉を失って静寂が会議室を包んだ。

下村長官がおもむろに口を開いた。「この規模の工事は、内地にはあるのか? 内地に無いとすれば、巨大工事を2つも台湾でやるのは愉快じゃないか」。この言葉に、今度は土木局全技師が我が耳を疑った。「日月潭水力発電工事」と「官田渓埤圳新設工事」という巨大工事二つを土木局が1度に背負い込むことになるのである。「金のことは何とかする。工事をするからには、必ず成功させてくれ。八田技師頼んだよ。ところでダムの人造湖はまるで堰堤に生えた珊瑚樹そっくりだな。北の日月潭(台湾で最も大きな湖。湖の北側が太陽の形、南側が月の形をしていることからこう呼ばれる)に南の珊瑚潭(さんごたん)というのはどうだろう」。彼のこの一言で八田が建設した烏山頭ダム(うさんとうダム)は現在もこの美称で呼ばれている。

下村長官は機嫌良く会議室を後にした。これで総督府土木局内での審議は終わった。巨大な灌漑事業が嘉南平原で動き出そうとしていた。八田案は明石元二郎総督の決断を経て第42帝国議会で審議された。米騒動の苦い経験をしていた議会は7月の追加予算で通過成立させたのである。この巨大工事は総督府の直轄工事ではなく、民間工事として国が補助金を出し、総督府が工事全体を監督する方式にした。そのため「公共埤圳嘉南大圳組合」が設立され、八田は総督府から組合に出向し、烏山頭出張所長として工事を指揮することになった。

嘉義から台南に跨がる南北92km、東西32kmの台湾最大の嘉南平原は、雨期には洪水が、乾期には干魃(かんばつ)が襲い、さらに台湾海峡に臨む大地は塩害という三重苦に見舞われる不毛の大地として見捨てられていた。当然ながらそこに住む40万の農民は、「看天田」という雨水だけに頼る農業しかできず、飲み水にも困る生活を強いられていた。この不毛の大地に貯水量1億5,000万トンの巨大なダムを築き、濁水渓からの直接取水を入れて総延長が1万6,000kmの水路を網の目のように走らせ15万haの大地を台湾最大の穀倉地帯に変える巨大プロジェクトが開始されたのである。

自宅
嘉南大圳の隅々まで張り巡らされた配水網。現代の目で見ても気宇壮大な設計だった

烏山頭で起工式が行われた1920(大正9)年は、日本が台湾を領有して25年が経過した節目の年であった。工事は4カ所に分けて行うことにした。1つは曽文渓から取水するための烏山嶺隧道掘削工事、2つ目は濁水渓からの直接取水工事、3つ目は烏山頭ダム構築工事、最後が水路をネットワーク化する給排水路工事である。これらの工事が広大な嘉南平原全域で始まった。

八田與一のユニークな発想4つ

八田は工事を始めるにあたって、驚くべき行動に出た。これまで誰も実践しなかった手法を考え、実施した。第1に大型土木機械の大量導入である。この工事は人力より機械力が成否を決めると考え、現場の職人が見たことも使ったこともない大型土木機械を、渡米して大量に購入した。

購入費用は400万円であった。烏山嶺隧道と堰堤の工事費の総額が1,600万円( 現在の80〜90億円前後)であったから、機械購入費は4分の1にもなった。ドラグラインスチームショベル(蒸気機関を動力源とするドラグライン掘削機)という大型ショベルをブサイラス社より5台、小型ショベルをマリオン社より2台購入。エアーダンプカーは、キルボルン社とウエスタン社から合わせて100両も買った。大内庄から土砂を運び、蒸気により荷台を傾かせて土砂を落とし堰堤を築くための台車である。この他エキスカベーター(土砂や岩石を掘削・積込みする機械の総称)、軌道式スプレッダーカー(鉄道の線路保守などで周辺の土砂の整備、バラスト(砂利)のならし作業を行うための専用の作業車両)、ジャイアントポンプなどを購入し、ドイツからは56トン機関車12両、ドラグラインショベル(クレーンに吊り下げられたバケットを前方に投げ、手前に引き寄せながら広範囲の土砂を掘削・すくう土木機械)2台、20馬力巻揚機1台、コンクリートミキサー4台も手に入れた。烏山嶺隧道工事用には、大型削岩機、坑内ショベル、大型エアーコンプレッサーを注文した。堰堤築造工事だけで47種類の多さである。これだけ大量の大型機械が、1つの工事で使用される例は、日本では初めてのことであった。この大型土木機械の採用は、その後の台湾開発に威力を発揮しただけでなく、土木技術者の思考回路を変えるコペルニクス的影響を与えた。

2番目は「セミ・ハイドロリック(半射水式)工法」の採用である。堰堤の構築にセメントをわずか0.5%しか使わないアースダムを水で構築するという。地震の多い台湾、粘土質の烏山頭の地には、この工法が最適であるとの結論を研究結果から出していた。土木官僚や上司も賛成はしなかったが、八田はひるむことなく論破して世界最大のセミ・ハイドロリック工法で挑んだ。

※セミ・ハイドロリック(半射水式)工法は、土砂に少量のセメントを混ぜ、水を噴射しながら敷きならして締め固める、ダムや堤防建設の技術です。大正時代に八田與一が台湾の烏山頭ダムで採用した、強固かつ経済的に地震の多い地域に対応できる画期的な工法です。( 大林組の土木用語解説から)

その工法といい1億5,000万トンの貯水量といい1935(昭和10)年にアメリカのフーバーダムが完成するまでの5年間は、世界一の規模を誇った。完成後90年を経た今日、幾度となく巨大地震が台湾を襲ったが、烏山頭ダムは破壊されることなく現役で活躍し、今日でも嘉南平原を潤し続けている。八田の技術の勝利であり、模倣する時代から脱却した日本土木界における金字塔であった。後にこのダムは「八田ダム」として、世界的評価を受けることになる。

3番目は安心して働ける「従業員宿舎の建設」である。実に人間的な施策だった。従業員が安心して働ける宿舎を、工事現場の原生林を切り開き68棟もの宿舎を造り、200戸余りを新築したことである。宿舎ばかりでなく、従業員の子弟が通う学校、病院、購買所、風呂、プールに弓道場、テニスコートまで造った。工事を請け負った建設会社の倉庫や事務所、それに烏山頭出張所を加えると、常時1,000人余りの人が暮らす街が出現した。外部から働きに来る人を含めると2,000人近くになるため、台南州は急いで交番を造ったほどであった。

自宅
八田與一が暮らした住宅(再建)。総指揮官のものとしては質素だ。
「安心して働ける環境無くして、良い仕事は出来ない」という八田の哲学によるものである。当然ながら八田夫妻も住み、子供と共に10年間を烏山頭で過ごした。

最後は「3年輪作給水法」の採用である。15万haの大地を潤すには。濁水渓や烏山頭ダムの水をもってしても1度に給水できるのは5万haが限界であった。八田は嘉南平原に住む農民が、ことごとく水の恩恵を受けるためにはどうすれば良いかという難問に直面した。技術者はダムを造り水路を敷けばそれで終わりという考えは、八田にはなかった。そこで自ら考え出したのがこの方法だった。

華南平原の増産を求められたのは、まず米とサトウキビだった。八田は、水を必要とする時期が異なることに着目した。15万haの大地を3ブロックに分割し、さらにその5万haを3分割、そして末端の農地まで3分割を実施した。3分割されたA区画には1年目に米を、B区画には野菜などの雑作物を、C区画にはサトウキビを植えることにした。当然ながら2年目にAは雑作物、Bはサトウキビ、Cは米という具合に3年で一巡する給水法を考案した。この「3年輪作給水法」によって、1度に5万haしか給水できなかった水で15万haへの給水を可能にしたのである。八田は土木技師から1農民になりきっていた。この方式は、1930(昭和5)年に給水を開始してから90年を経過した今日も、姿を一部変えながら守り続けられている。

八田技師を襲った多くの試練

「嘉南大圳新設事業」は必ずしも順調に推移したわけではない。八田をして苦悩する出来事が相次いで襲ってきた。
1922(大正11)年12月6日、八田が工事の中止を考えたほどの事故が工事現場で発生した。八田與一が、アメリカのダム視察を終えて、帰台したばかりの時だったが烏山嶺隧道工事が90b堀り進んだあたりで、突然石油が噴出し、爆発事故が起こった。死者が50余名を数えた。烏山嶺隧道掘削工事中に入口から90m掘り進んだところで、噴出してきた石油ガスに引火し大爆発を起こしたのである。この事故で50人余りの作業員が死傷した。工事を始めて2年目のことであった。八田は打ちひしがれ、遺族の家を1軒ずつ廻り、土下座までして詫びた。その時、意外にも台湾人の遺族から「亡くなった者のためにも、工事を必ずやり遂げてほしい」という言葉をもらった。八田の台湾人を思いやる気持ちと、この大工事が台湾にもたらす恵みを多くの人が理解するようになっていたのである。逆に励まされ、八田は決意新たに工事を再開した。

ところがさらに災難が襲った。大爆発事故から半年余りたった1923(大正12)年9月1日、東京を直下型の巨大地震が襲った。関東大震災である。この大震災により、日本は政治、経済、社会面で大混乱となり、その影響は、台湾にも波及した。台湾総督府から多くの義援金が送られたため、嘉南大圳事業は大幅な補助費の削減となり従業員の半数を解雇せざるを得なくなったのだ。誰しも下級の技術者から馘首すると思ったが八田は違った。

部下は優秀な職員は残してほしいと進言したが、八田は悩んだ末に優秀な職員から解雇した。

「確かに、力のある者を残しておきたい。しかし、能力のある者は、他でもすぐ雇ってくれるだろうが、そうでない者が再就職するのはなかなか難しい。今、これらの者の首を切れば、家族共々路頭に迷うことになる。だから、あえて、惜しいと思われる者に辞めてもらうことにした。その穴埋めは、君達が残った者を教育し補ってくれ。辞めさせる以上、辞めていく者の就職口は、必ず私が見つけてくる」

退職金を渡しながら涙を流したという。言葉通り八田は翌日から退職者の職場探しのため奔走した。そして、烏山頭出張所に勤めていた時より、良い俸給の職場を探し出しては世話をした。與一は、決して、技術者を安売りする人間ではなかった。就職を頼みに行った会社で高い俸給を要求して、それを通してしまうのである。誰もが、心で泣いていた。決して、部下を粗末にしない與一の温かい心が泣かせたのである。 もはや、誰も何も言わなかった。このことが、また、與一の評価を高くした。

烏山頭工事に携わる者は「八田一家」と言われ、八田を「親父」とまで言う職員まで現われた。震災の影響で工事期間と予算が見直され、すべての工事が完了したのは、着工から10年後の1930(昭和5)年であった。その間に烏山頭で亡くなった者は家族を含め134人にもなった。八田は殉工碑を堰堤の下に造り、日本人、台湾人の区別なく死亡順に名を刻んだ。

こうして昭和5年(1930)、嘉南大圳はほぼ完成する。平野部を縦横に走る用水路の全長は、実に1万6000キロにも及んだ。これは万里の長城の総延長の2.5倍以上に相当する距離である。ダムの規模は「東洋一」と称された。これにより嘉南平原は安定した水供給を得ることとなった。5月10日には竣工式が行われ、ダムの放水門から激流になって流れ出た水が、給排水路になだれ込んだ。水路を流れくる水を目にした農民は、信じられない思いで叫んだ。「神の水だ。神が与えてくれた恵みの水だ」。農民たちは用水路に集まり、手を合わせて泣いたという。乾いた土に染み込む水を、まるで命そのもののように見つめていた。

この時から、八田は「嘉南大圳の父」として嘉南40万の農民から慕われ尊敬されるようになる。神の水がすべての水路に行き渡るのに3日間を要した。その3日間、烏山頭では3,600人近い日本人や台湾人の従業員による祝賀会が続いた。こうして世紀の大事業は終わった。ダムの周囲の街路樹には、完成の記念として日本の桜が植えられた。

八田は家族と共に8月には烏山頭を去り、再び総督府の技師として活躍する。翌年の7月には、蔵成信一を発起人代表とする校友会から八田の銅像が届き、ダムを見下ろす丘に設置された。
烏山頭ダム ダム水門
満々と水を貯めた烏山頭ダム 烏山頭ダムの水門
沃野 以前の荒野
今も嘉南平野を潤す運河。この水がこの地を沃野に変えた 2023年の大干ばつで以前の荒野の姿になった嘉南平野

完成から3年後には、15万haの不毛の大地が、蓬莱米、サトウキビ、野菜による3年輪作給水法によって緑野に変わった。総督府の考えた食糧増産計画は成功を収め、米も砂糖も日本内地へ大量に移入されるようになった。その結果、嘉南40万の農民が、経済的に豊かになり生活が一変したのである。その上、二束三文だった土地は高騰し、工事費を上回る価値を生んだ。 これで米作りは二期作が可能となり、収穫は倍増した。台湾南部の農業生産力は飛躍的に向上した。農民の生活は安定し、地域経済は大きく発展したのである。子どもたちは学校に通えるようになり、家々には笑顔が戻った。

完成式典での表彰を辞退し、「この水は農民のものです」と語って内地に戻っていた八田は、沃野に変わった嘉南平野その光景を遠くから静かに見つめ、「これでいい」とだけ呟いたと伝えられる。ずっと後のことだが、この地で育った台湾有数の化学メーカー、奇美グループの創業者である許文龍は「台南では街の人より農民の方が豊かなのが不思議であった」と少年時代を語っている。

外代樹
八田與一の妻・外代樹
八田與一の傍らには、常に妻・外代樹(とよき)がいた。外代樹は八田と同郷の金沢市の出身。開業医・米村吉太郎の長女として誕生、金沢第一高等女学校を 卒業後、16歳の時に31歳の八田與一と見合い結婚。その後、二人は8人の子宝に恵まれた。彼女は異国の地で日本人・台湾人の区別なく人々と接し、病人の世話や子どもたちの教育支援に心を砕いた。

そんな巨大事業を成功させた八田與一であったが、その後の人生は悲劇的な道を辿った。
大工事をやり終えて中央に戻った八田は勅任官に出世した。勅任官とは、天皇の勅命(任命書に御璽が押される形式)によって任用された高等官の等級である。各省次官や局長、府県知事などの主要官職が該当し、役人としては位(くらい)人臣を極めたことになる。

八田が勅任官になり2年がたった1941(昭和16)年12月8日、対米交渉で追い詰められた日本は、真珠湾攻撃の暗号「ニイタカヤマノボレ」の暗号電文を連合艦隊に発し対米英戦争が始まった。新高山(にいたかやま)は、日本統治時代の台湾にある最高峰・玉山(ぎょくざん)の呼称で標高は富士山より高い3952bあった。つまり当時の日本で一番高い山故に選ばれた暗号だったが、戦雲は軍人だけでなく、八田をも巻き込んだ。

「大洋丸」
八田が乗船した「大洋丸」
1942(昭和17)年4月20日、陸軍から八田のもとに米軍が破壊したフィリピンの綿作灌漑施設の調査命令が届いたのである。八田は3人の部下を同行し、「南方資源開発要員」として、広島県の宇品港で陸軍に徴用された大型客船「大洋丸」に乗り込んだ。シンガポールを経由して目的地へと向かう予定であった。「大洋丸」は1,010人の民間技術者、34人の軍人それに300人余の乗組員を乗せて5月5日午後7時30分出港、瀬戸内海を南下した。8日、五島列島沖にさしかかった時、米国潜水艦「グレナディアー」などからの魚雷攻撃を受け、4発の魚雷を被弾した。「大洋丸」は有能な技術者を道連れに東シナ海に没した。

遺体は1ヶ月以上も経った6月13日、はるか離れた山口県萩市沖合の見島で漁師の網に引っ掛かって発見された。7月16日、総督府葬をもって荼毘に付された。享年56歳。

同時に八田が愛した台湾の地も激変していった。昭和20(1945)年8月15日の敗戦によって台湾は日本の統治下から離れた。台北でも空襲がひどくなると台湾で生活していた邦人たちは、みな日本への帰国を余儀なくされていた。そんななか、妻の外代樹は逆の選択肢をとって子供たちと烏山頭の建設工事で使われていた職員宿舎に疎開していた。10年ぶりの懐かしい土地での生活だった。

そんな外代樹の許に夫の訃報がもたらされた。多くの人が内地に戻る道を選ぶ中で外代樹が選択したのは、夫の「遺作」となった烏山頭ダム(珊瑚潭)の放水口に己の身を投じることだった。敗戦後2週間ほどした9月1日未明、外代樹は黒の喪服に白足袋という出で立ちで、烏山頭ダムの放水口に入水した。「玲子も成子も大きくなったのだから、兄弟、姉妹なかよく暮らして下さい」という遺書が机の上に残されていた。この日はちょうどダムの着工記念日だった。享年45歳。

「主人は水とともに生きた。ならば私も水とともに…」。彼女の最期は、台湾の人々にさらに深い哀惜の念を残した。

ダムサイトの一角に、上に掲載した八田の銅像が建っている。木立の合間に佇たたずむ八田像は、右膝を立てて座っている。これは生前の八田が考えごとをする際によくとっていたポーズだ。その少し後ろに夫妻の墓がある。嘉南の農民たちは、1946年12月、わざわざ日本の黒御影石を探し出して、日本式の墓を八田夫妻のために建てたものだ。以後、毎年八田與一の命日5月8日には嘉南農田水利会の主催により、墓前での慰霊追悼式が催されている。

殉工碑
殉工碑には分け隔てなく殉難者名が刻まれている
殉工碑
殉工碑
この場所からすぐのところに八田に関する記念室(八田技師紀念室)がある。これも現地の人が建てたもので、室内には生前の八田が愛用していたという腕時計や、外代樹が使っていた硯箱や手鏡などが展示されている。記念室から少し歩くと、小高い丘の上に殉工碑(慰霊碑)が聳えている。ダムの建設中に落盤事故などによって亡くなった134名の御霊を弔うためのものである。碑には犠牲者全員の姓名が、亡くなった順番で刻まれている。八田の強い要望により、日本人と台湾人の別なく列記されている。碑にはこう刻まれている。(漢文調の読み下し部分は筆者の加筆)





碑文
碑には八田與一が書いた嘉南大圳の意義と犠牲者を悼む一文が刻まれている
嘉南大圳は其の利澤を蒙る廣袤(こうぼう=面積)の宏なると其の水源に於ける工式の雄なるとに於いて世界に冠たり 従って其工細且微にして施工上幾多の困難に逢達せるも辛楚十年(辛く苦しい10年間)茲に工全く成る
諸子は斯る(かかる)間に於て不慮の災厄に遭ひ或は風土の病疫に冒され空しく異境の墳塋(ふんえい=墓地)に眠る轉(うたた)痛惜(つうせき)に堪へざるなり 雖然(しかれども)諸子は等しく犠牲的殉工者にして 一死克(よく)従業員の志気を鼓舞し以て此大工を竣(お)ふるを得たり 又偉なりと謂ふへし
噫々彼の淙々たる曽文渓水は此蜿蜒(えんえん)たる長堤に蘊崇(うんすう=徳をたくわえ、積み重ねること)して長(とこしな)へに汪々たる碧潭(へきたん)を奉し 随時の灌水は滾々(こんこん)環流して盡きざる限り諸子の名も亦不朽なるへし
乃ち茲に地を卜(ぼく=選ぶ)し碑を建て以て諸子を傳ふるの文をなす矣(い)=文末で断定や感嘆の意を表す「かな」の意の置き字。
    昭和五年三月
    烏山頭交友會長  八田與一

殉工碑から南部に伸びる車道の脇には、桜が植えられている。完成時に記念として植樹された街路樹である。桜並木の長さは約1.2キロに及び、春には可憐な花びらが舞う。少し離れた場所には「八田與一紀念公園」という別の施設もあるが、その敷地内には八田の妻・外代樹の銅像も建てられている

外代樹
ダムサイトには現地の人が妻・外代樹を
偲んで建てた立像がある
二人が亡くなった後、八田與一だけでなく、妻の銅像も作られ、彼女の命日である平成25年(2013)9月1日に台湾で除幕式が行われた。今もダムサイトに立つ外代樹の腕には四女・嘉子がしっかりと抱かれている。

夫妻
夫妻で撮った最後の写真。
戦後、日本人技術者の多くが忘れ去られる中、八田與一だけは例外だった。嘉南農田水利会の敷地にある二つの銅像の前では、命日には今も台湾人の手による追悼式が行われている。それは、彼が支配者としてではなく、「共に生きた人」として記憶されている証である。

日本統治時代の人物評価は、戦後台湾社会において一様に否定されたわけではない。しかし、多くの日本人官僚や軍人が急速に忘却される中で、八田與一だけが例外的に尊敬を集め続けてきた事実は、極めて象徴的である。

嘉南農田水利会(現・嘉南農田水利署)の敷地に建つ八田與一像は、単なる歴史記念物ではない。命日である5月8日前後には、今も台湾人主体の追悼式が行われ、花が手向けられ、線香が焚かれる。そこにあるのは「日本人だから敬う」のではなく、「この土地を救った人だから忘れない」という極めて実利的で生活に根ざした評価である。

2000年代以降、台湾では「台湾主体性」を重視する歴史観が強まった。いわゆる脱中国化の流れの中で、日本統治時代の評価も再検討されるようになる。その際、八田與一はしばしば象徴的に取り上げられた。

それは彼が「支配の象徴」ではなく、「生活改善の象徴」として位置づけられたからである。中国国民党政権下では、日本統治時代は一括して否定的に扱われがちだったが、民主化以降の台湾では「誰が、何をしたのか」が個別に問われるようになった。その文脈で、嘉南大圳は今なお機能し続ける現役インフラとして再評価され、八田與一の名も台湾人の中から自然と浮かび上がったものである。

頼清徳総統
2025年5月8日、頼清徳総統は慰霊祭に訪れ銅像に献花した。
特に民進党政権下では、八田與一は「台湾近代化の協力者」というニュアンスで語られることが多い。これは日本への郷愁というよりも、「中国中心史観から距離を取るための、台湾ローカルな記憶の再発見」と言うべき現象である。

2017年、八田與一の銅像が何者かによって破壊される事件が起きた。犯行は政治的動機を背景としたもので、中国統一を志向する立場からの抗議と受け止められた。

夫妻の墓
湖畔にある夫妻の墓は今も献花が絶えない
しかし注目すべきは、その後の台湾社会の反応だった。事件直後から地元住民や農民が自発的に募金を行い、銅像は短期間で修復された。行政の指示を待たず、地域が動いたのである。

この出来事は、八田與一が「政治的スローガン」ではなく、「生活の記憶」として人々の中に根づいていることを明確に示した。破壊は忘却を生まず、むしろ記憶の強度を可視化する結果となった。

一方、日本国内で八田與一が広く知られるようになったのは比較的最近のことである。前の章で紹介したように李登輝前総統が講演の中で大半を割いて八田與一が今なお台湾で尊崇を集めていることを紹介したことも預かっているだろう。

李登輝と八田與一は、いずれも台湾が自ら選び取った日本像である。前者は主体的に語り直された日本、後者は結果によって評価された日本だ。

なぜ台湾弾圧の”主”である国民党の李登輝総統が八田與一を称賛したのか

頼清徳総統
八田與一の名を日本に知らしめた李登輝
この項の冒頭で紹介したように、それまでほぼ無名だった八田與一の名前を日本に紹介したのは台湾国民党の李登輝総統である。国民党といえば台湾に逃げ込んだ蒋介石が統率して台湾弾圧と反日をもっぱらにした政党である。その国民党の李登輝総統がなぜ八田與一を讃えたのだろうか? 筆者がそうであったように不思議に思う人が多いのではなかろうか。すこし説明しよう。

李登輝本人が「22歳まで私は日本人だった」というように、台北高等学校から京都帝大という学歴で分かるように日本の高等教育を受けた経歴と「難しいことは日本語で考える」という思考過程で分かるように日本人としての部分の成せる業ということが多いのはもちろんだが、もう一つ「台湾人」=「内省人」としてのアイデンティーからくるところが大きい。

李登輝は蒋介石の息子、蒋経国総統の下で副総統として支えていたが1988年1月13日、蒋経国が死去し、決まりにより総統として突然国民党のトップに座った。李登輝はそれまで政権を独占してきた外省人(蒋介石に従って戦後に大陸から来た人々)ではなく、本省人(戦前から台湾に住んでいた人々)で国民党政権の中で異質な存在だった。

李登輝は総統に就任したものの、軍の後ろ盾もなく、その座は不安定だった。いわば形だけの総統、傀儡にすぎなかった。しかしその後の舵取りが巧妙だった。徐々に民主化を進めて上席者を巧妙に排除していく。

例えば、政権にとって最大の懸念であった軍事クーデターの芽を摘むため、軍のトップである郝柏村をあえて政府の長(行政院長)に就けた。軍事力から切り離して自分のコントロール下に置く狙いだった。この大胆な人事により、李登輝は保守派の抵抗を封じ込め、台湾の民主化を強引に推し進めることに成功した。 国民党の権威主義体制を内部から改革したのである。

李登輝の功績は
・ 国民党の戒厳体制(白色テロ)を終わらせた
・ 台湾の民主化を推進
・ 台湾の主体性(Taiwan identity)を強調
の三点である。

1949年以降、蒋介石政権は台湾で日本統治期を否定し、「日本は台湾を搾取した」「国民党が台湾を解放した」という歴史観を押しつけてきたが、台湾のいわゆる「内省人」の日本へのシンパシーは違っていた。

日本統治期にインフラ・教育・衛生が整備されたこと。八田與一の業績に代表されるように日本が手掛けた嘉南大圳などの水利事業で農民の生活が劇的に改善されたことから、国民党の歴史教育と、台湾人の記憶の間には大きなギャップがあったのだが、その隙間を李登輝が埋めた。つまり台湾の主体性を再構築するための政治的・歴史的選択を李登輝が果たしたのである。

李登輝が八田を讃えたことは、国民党の戦後支配の歴史を相対化し、台湾の主体性を取り戻す政治的行為だった。これにより
・ 国民党の「中国中心史観」からの脱却
・ 台湾社会の実感に基づく歴史評価の回復
・ 台湾アイデンティティの強化

という台湾の歴史を正しく位置づけ直すことに成功した。その後、台湾の与党は民進党政権に移るが陳水扁、馬英九、蔡英文、頼清徳の各総統ともこの台湾アイデンテティー路線を引き継いで八田與一の墓参りなどを続けている。