八田與一の生涯
「台湾」でいまなお、大人からも子どもからも尊敬されている日本人![]() |
| 烏山頭ダムの一角にある八田與一の座像 |
しかし、その中国の対岸「台湾」は多分世界一の親日国である。いざ「台湾有事」では日米共同して侵攻に立ち向かうという安全保障面での信頼感から来るところもあるが、それよりずっと前から台湾の人は日本に心を寄せてきた。
台湾台南市にある烏山頭ダムの一角に一人の日本人の銅像がある。正装して正面向いた威風堂々の姿ではなく、普段着らしい作業着で片膝に置いた腕に頭をのせ、なにか考え事をしているかのように、遠くを見つめている。
八田與一(はったよいち)といっても、日本では誰もピンとこないだろうが、台湾では荒地だった嘉義台南平野十五万町歩 (一町歩はおよそ一ヘクタール)の農地を潤す烏山頭(うざんとう)ダムをつくりあげ、六十万人の農民から神のごとく祭られ、毎年の命日は農民によりお祭りが行われていて、教科書をつうじて子どもから大人まで全台湾人が知っている日本人なのである。
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| 台湾最大の穀倉地帯である嘉南平野を貫くように台湾高速鐵路(台湾高鐵)が突っ走っている。 2004年日本から新幹線の車両技術を現地導入して完成した。この地を沃野に変えたのが八田與一だ。 |
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| 嘉南平野 |
この計画というのは、嘉南平野を流れる台湾で4番目に長い曽文渓(そぶんけい)*1の流れを中途でせき止める烏山頭(うざんとう)ダムを建設し、この水で華南平野一帯を潤すというもので、その計画全体の名称が「嘉南大圳」(かなんたいしゅう)*2である。
*1 台湾で「渓」は日本でいう「川」、大きな川を「河」といい、中小河川を「渓」とよぶ。![]() |
| 今に残る八田與一の生家(金沢市) |
雪解け水が勢いよく流れる春、逆に水量が減り田が干上がる夏。水一つで人の暮らしが天国にも地獄にも変わることを、幼い與一は肌で感じていた。後年、彼が「水を制することは、人の生を支えることだ」と語ったと伝えられるが、その思想の芽はこの頃すでに育まれていた。
当時の日本は、近代国家としての基盤整備を急速に進める時代であり、土木技術者は国家発展を担う重要な存在とみなされていた。1910(明治43)年、大学を卒業した八田與一は台湾総督府の土木局技師として台湾へ渡る。南国の陽光に包まれた島は一見豊かに見えたが、嘉南平原の現実は苛烈だった。
雨季には川が暴れ、村が水に沈む。乾季には空が割れるほど晴れ渡り、田はひび割れる。農民は「天に見放された土地」と嘆き、飢えと貧困が日常だった。
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| 八田與一 |
「この地に水を与えられぬなら、技術者である意味はない」
嘉南平原を救うには、曾文渓の水を広範囲に行き渡らせるしかない。しかし曾文渓は暴れ川で、当時の常識では制御不能とされていた。上司や同僚からは「若気の至り」「技術者生命を賭ける気か」と忠告されたという。
それでも八田は引かなかった。彼は従来型の高いダムを捨て、低い堰と蜘蛛の巣のように張り巡らせた用水路網による新方式を構想する。「水を溜めるのではなく、水を生かす」という思想だった。
こうして八田與一は烏山頭(うさんとう)ダムと総延長1万6千キロメートルにも及ぶ嘉南大圳の設計図を練り上げていった。反対の声も多かった。だが、反対会議の席で、八田は模型を前に黙々と説明を続けた。声を荒げることはなく、ただ一つ一つの疑問に丁寧に答えたという。その姿勢が次第に周囲の心を動かし、1918(大正7)年、ついに嘉南大圳工事は着工される。工事には、日本人も台湾人も一緒に参加した。その数、およそ2000人。
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| 満々と水を貯めた烏山頭ダム | 烏山頭ダムの水門 |
着工後も10年以上にわたり困難な作業が続いた。資材不足、台風や洪水による被害、労働環境の過酷さなど、数々の障害に直面しながらも、八田は現場に立ち続け、設計変更や技術的改良を重ねて事業を推進した。八田は毎日現場に立ち、労働者と同じ水を飲み、同じ土を踏んだ。
工事は日本人と台湾人で進められた。八田は今までにない技術を工事に取り入れたり、アメリカから巨大重機を取り寄せたりすることで、この巨大工事を進めていく。パワーショベルやエアーダンプカーといったアメリカ製の最新式の重機を次々と導入、作業の効率化を図った。
やり方も変わっていた。普通、労働者は遠くからでも通ってくるものだった。だが八田は労働者の家族を呼び工事現場近くに村をつくることからはじめた。作業員たちのために、宿舎はもちろん学校や病院まで建設した。
「これだけ過酷な状況を家族と離れ離れになって頑張れるわけがない。家族がいるからこそ頑張れる。家族のためというやりがいを皆が感じることで重労働を乗り越えよう」と考えたのだ。
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| 八田與一が暮らした住宅(再建)。総指揮官のものとしては質素だ。 |
それでも工事現場は地獄のようだった。灼熱の太陽、マラリアや赤痢、そして事故や事件にも出くわし計画は一時暗礁に乗り上げたこともあった。
大正11年(1922)、八田與一が、アメリカのダム視察を終えて、帰台した12月6日烏山嶺隧道工事が90b堀り進んだときだったが、突然石油が噴出し、爆発事故が起こった。死者が50余名を数えた。
報告を受けた八田は、その場で帽子を脱ぎ、しばらく黙祷した後、遺族の家を訪れた。言葉の壁がある中で、彼は深く頭を下げ、涙を流したと伝えられる。その姿に、遺族だけでなく周囲の村人も胸を打たれた。「日本人の偉い役人が、ここまでしてくれるのか」と。
この出来事以降、現場では八田を「八田先生」と呼ぶ声が増えた。
また大きな災難が襲った。大正12年9月1日の関東大震災である。この大震災により、日本は政治、経済、社会面で大混乱となり、その影響は、台湾にも波及した。嘉南大圳事業は大幅な補助費の削減となり、 組合員の半数が人員整理対象となった。誰しも下級の技術者から馘首すると思ったが八田は違った。
「確かに、力のある者を残しておきたい。しかし、能力のある者は、他でもすぐ雇ってくれるだろうが、そうでない者が再就職するのはなかなか難しい。今、これらの者の首を切れば、家族共々路頭に迷うことになる。だから、あえて、惜しいと思われる者に辞めてもらうことにした。その穴埋めは、君達が残った者を教育し補ってくれ。辞めさせる以上、辞めていく者の就職口は、必ず私が見つけてくる。」
誰もが、心で泣いていた。決して、部下を粗末にしない與一の温かい心が泣かせたのである。 もはや、誰も何も言わなかった。
その通り八田は翌日から退職者の職場探しのため奔走した。そして、烏山頭出張所に勤めていた時より、良い俸給の職場を探し出しては世話をした。與一は、決して、技術者を安売りする人間ではなかった。就職を頼みに行った会社で高い俸給を要求して、それを通してしまうのである。このことが、また、與一の評価を高くした。
特筆すべきは、八田が単なる机上の技術者ではなく、現場主義を貫いた点である。彼は常に作業員と行動を共にし、安全管理や生活環境の改善にも心を配った。また、ダム設計においては当時としては先進的な「半水圧式(セミハイドロリック)」構造を採用し、地震や洪水に耐える合理的な構造を実現した。こうした技術的創意工夫が、嘉南大?を長期にわたり機能させる要因となっている。
1930(昭和5)年、嘉南大圳はほぼ完成する。平野部を縦横に走る用水路の全長は、実に1万6000キロにも及んだ。これは万里の長城の総延長の2.5倍以上に相当する距離である。ダムの規模は「東洋一」と称された。これにより嘉南平原は安定した水供給を得ることとなった。最初に水が流れ込んだ日、農民たちは用水路に集まり、手を合わせて泣いたという。乾いた土に染み込む水を、まるで命そのもののように見つめていた。ダムの周囲の街路樹には、完成の記念として日本の桜が植えられた。
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| 今も嘉南平野を潤す運河。この水がこの地を沃野に変えた | 2023年の大干ばつで以前の荒野の姿になった嘉南平野 |
これで米作りは二期作が可能となり、収穫は倍増した。台湾南部の農業生産力は飛躍的に向上した。農民の生活は安定し、地域経済は大きく発展したのである。子どもたちは学校に通えるようになり、家々には笑顔が戻った。八田はその光景を遠くから静かに見つめ、「これでいい」とだけ呟いたと伝えられる。
完成式典での表彰を辞退し、「この水は農民のものです」と語ったという逸話は、今も台湾で語り草になっている。
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| 八田與一の妻・外代樹 |
そんな巨大事業を成功させた八田であったが、その後の人生は悲劇的な道を辿った。昭和17(1942)年5月5日、八田は広島県の宇品港から輸送船「大洋丸」に乗船。新たにフィリピンの綿作灌漑調査を命じられた八田は、シンガポールを経由して目的地へと向かう予定であった。八田はフィリピンの農業の発展にも精力的に取り組むつもりだった。しかし、八田がフィリピンの地を踏むことはなかった。
5月8日の午後8時40分、五島列島の南方を航行していた「大洋丸」は、米軍の潜水艦「グレナディアー」などからの魚雷攻撃に遭った。大きく浸水した同船は、雷撃から約55分後に沈没。817名が亡くなるという惨劇であった。その犠牲者の中に、八田與一も含まれていた。
嘉南平野を肥沃な地に変えた男は、志半ばにして逝った。享年56。遺体は約1カ月後、漁師の網に引っ掛かって発見されたという。
同時に八田が愛した台湾の地も激変していった。昭和20(1945)年8月の敗戦によって日本の統治下から離れた。台湾で生活していた邦人たちは、みな日本への帰国を余儀なくされていた。そんな時に外代樹の許に夫の訃報がもたらされた。
多くの日本人が帰国の道を選んだ中で八田與一の妻である外代樹が選んだのは、別の道であった。外代樹が選択したのは、夫の「遺作」となった烏山頭ダム(珊瑚潭)の放水口に己の身を投じることだった。昭和20年(1945)9月1日、この日はちょうどダムの着工記念日だった。45歳の生涯だった。
「主人は水とともに生きた。ならば私も水とともに…」。彼女の最期は、台湾の人々にさらに深い哀惜の念を残した。
ダムサイトの一角に、上に掲載した八田の銅像が建っている。木立の合間に佇たたずむ八田像は、右膝を立てて座っている。これは生前の八田が考えごとをする際によくとっていたポーズだ。 近隣には八田に関する記念室(八田技師紀念室)がある。室内には生前の八田が愛用していたという腕時計や、外代樹が使っていた硯箱や手鏡などが展示されている。
記念室から少し歩くと、小高い丘の上に殉工碑(慰霊碑)が聳えている。ダムの建設中に落盤事故などによって亡くなった134名の御霊を弔うためのものである。碑には犠牲者全員の姓名が、亡くなった順番で刻まれている。八田の強い要望により、日本人と台湾人の別なく列記されている。
殉工碑から南部に伸びる車道の脇には、桜が植えられている。完成時に記念として植樹された街路樹である。桜並木の長さは約1.2キロに及び、春には可憐な花びらが舞う。少し離れた場所には「八田與一紀念公園」という別の施設もあるが、その敷地内には八田の妻・外代樹の銅像も建てられている
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| ダムサイトには現地の人が妻・外代樹を 偲んで建てた立像がある |
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| 夫妻で撮った最後の写真。 |
日本統治時代の人物評価は、戦後台湾社会において一様に否定されたわけではない。しかし、多くの日本人官僚や軍人が急速に忘却される中で、八田與一だけが例外的に尊敬を集め続けてきた事実は、極めて象徴的である。
嘉南農田水利会(現・嘉南農田水利署)の敷地に建つ八田與一像は、単なる歴史記念物ではない。命日である5月8日前後には、今も台湾人主体の追悼式が行われ、花が手向けられ、線香が焚かれる。そこにあるのは「日本人だから敬う」のではなく、「この土地を救った人だから忘れない」という極めて実利的で生活に根ざした評価である。
2000年代以降、台湾では「台湾主体性」を重視する歴史観が強まった。いわゆる脱中国化の流れの中で、日本統治時代の評価も再検討されるようになる。その際、八田與一はしばしば象徴的に取り上げられた。
それは彼が「支配の象徴」ではなく、「生活改善の象徴」として位置づけられたからである。中国国民党政権下では、日本統治時代は一括して否定的に扱われがちだったが、民主化以降の台湾では「誰が、何をしたのか」が個別に問われるようになった。その文脈で、嘉南大圳は今なお機能し続ける現役インフラとして再評価され、八田與一の名も台湾人の中から自然と浮かび上がったものである。
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| 2025年5月8日、頼清徳総統は慰霊祭に訪れ銅像に献花した。 |
2017年、八田與一の銅像が何者かによって破壊される事件が起きた。犯行は政治的動機を背景としたもので、中国統一を志向する立場からの抗議と受け止められた。
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| 湖畔にある夫妻の墓は今も献花が絶えない |
この出来事は、八田與一が「政治的スローガン」ではなく、「生活の記憶」として人々の中に根づいていることを明確に示した。破壊は忘却を生まず、むしろ記憶の強度を可視化する結果となった。
一方、日本国内で八田與一が広く知られるようになったのは比較的最近のことである。前の章で紹介したように李登輝前総統が講演の中で大半を割いて八田與一が今なお台湾で尊崇を集めていることを紹介したことも預かっているだろう。
李登輝と八田與一は、いずれも台湾が自ら選び取った日本像である。前者は主体的に語り直された日本、後者は結果によって評価された日本だ。