ぐるめ 3考 |
ラーメン考 支那そばへのこだわり |
私には、ラーメンについて薀蓄(うんちく)を傾けるほどの蓄積はないし、各地を食べ歩き、微にいり細にわたる批 評を加える趣味もない。時々街のラーメン店に飛び込み、うまいか、まあまあか、まずいかの試行錯誤を繰り返し ている だけである。それなのに八ヶ岳の往来に限るとはいえ、「ラーメン店」を紹介しようというのだから、土台に なる「ラーメン考」とでも言うものを披瀝しておかなければならないだろう。
「支那そば」と「ラーメン」とは違う
今はない店の味をとやかくいわれても・・・と言われそうだが、なあに、今もあるのである。鶏がらスープでカンスイ(後述)
を使った黄色く 細い縮れ麺だ。世はラーメン全盛時代で、なかなか出会えないが、この系統に出会うとまず間違いな
く「◎」をつける。
「中華そば」ではなく「支那そば」のワケ
中華思想(ちゅうかしそう)とは、中国が世界の中心で、その文化や思想が最も価値のあるものとし、
漢民族以外の異民族を、「化外(けがい)の民」として見下す思想で、華夷思想ともいう。
中華思想に基づき、周囲を取り囲む異民族は蔑称で呼ぶ。東夷(とうい)=倭(日本)、朝鮮 など=、西戎(せいじゅう) 、
北狄(ほくてき)=匈奴 鮮卑 契丹 蒙古 など=、南蛮(なんばん)といったぐあいだ。 「夷」「戎」「狄」「蛮」は未開の
民族や犬などの動物を意味する。いまさら変更もきかないだろうから、中華というのは「中華街」と「中華鍋」くらいにしと
いてもらいたいものだ。
万里の長城で考える
2005年4月、中国各地で中国政府黙認のもと反日暴動が起きたが、これなども「東夷」の輩が国連常任理事国という「戦勝国」
の仲間入りするのが許せないのだろう。日本は国連分担金の20%以上を拠出しているが、中国は発展途上国扱いでわずか2%
だ。こうした事実には目をつぶって「歴史を反省しない日本は常任理事国入りの資格がない」とは恐れ入る理屈だ。
わき道にそれたが、だから、鼻白む「中華」より、いくら少数派でもいい、断じて「支那そば」なのだ。
透明なスープの湯気の中に思い出の香りまでにおいたつではないか。
昔から慣れ親しんだ名詞が、なんで突然言い方が変わったのか斟酌する
に、「支那(しな)」は差別用語だというのだろうが、そんなことはない。 いっとき流行した「言葉狩り」の影響で、した
り顔で「支那は蔑称だ」とでもいう輩の尻馬に乗ったのだろうが、それなら「東支那海」や陶磁器の 「China(チャイナ)」
はどうなる。土台、中国が抗議したという話は聞かない。
露西亜を征服するというので、水の悪い中国大陸用に日本陸
軍が開発した整腸剤「征露丸」が、民間に開放されたら、 いつのまにか「正露丸」に なったのと同じ轍だ。「支那そ
ば」でいいのだ。
「支那」の呼称について
さらに政府は、昭和21年6月6日付けで「支那」に関する外務省次官通達と、その内容をさらに細かく
記した総務局長通達で”使用禁止”にしている。通達には、
「中華民国の国名として支那といふ文字を使ふことは過去に於ては普通に行はれて居たのであるが
、其の後之を改められ中国等の語が使はれてゐる処、支那といふ文字は中華民国として極度に嫌ふ
ものであり、現に終戦後同国代表が公式非公式に此の字の使用をやめて貰ひ度いとの要求があった
ので、今後は理屈を抜きにして、先方の嫌やがる文字を使はぬやうにしたいと考へ、念のため貴意を
得る次第です」とある。
しかし、日本国内では「支那」という言葉は其の後も使われ続けた。「使うな」といってきた国民党政権は
その後共産党の中華人民共和国に取って代わられたのと、共産党政権は支那の呼称について何も言っていない
ためだ。もともと「支那」という言葉は、日本には平安時代に入ってきて、江戸時代末期になって広く
使われた言葉で、差別的な意味など一貫してなかった事は、語源をみても明らかだ。「使うな」といった
国民党政権も、差別的だからというのではなく、新しく名乗った国名を使わせたいがためだった。
ほんのいっときしか政権を掌握しなかった国民党政権の求めと、さらに戦後になって外務省が斟酌して「理屈を抜きに」次官や局長の
通達を出したために、日本国内では「支那」を使うのがなにか遠慮されるようになったのが見て取れる。
支那の語源については、@インドの仏教が中国に伝来するとき、経典の中にある中国を表す梵語
「チーナ・スターナ」を、当時の中国人の僧が漢字で「支那」と当て字にしたことによるとする説。
A秦の始皇帝によって中国最初の統一王朝となった「秦」の読みから「チーナ」になったする説がある。
いずれにせよ、シルクロードを伝って西方に広まり、英語の「チャイナ」やフランス語の「シーヌ」になって
いった。ここは同じように「支那」を使うほうが自然だと思うがどうだろう。
カンスイについて
カンスイは成分的には、炭酸カリウム、炭酸ナトリウムなどの塩基性塩に第二リン酸塩、第三リン酸塩などだ。麺の
コシを出すのはリン酸塩で、塩基性塩は麺のコシには関係なく、中華麺独特の黄色い色を発色する役目をする、と
いう。カンスイは水だが、日本では化学合成された粉末カンスイが長らく使われてきた。大阪で食べていたのも粉末
カンスイだろう。
成分は温泉によくあるものばかり。温泉がなければ、同様の成分を含む灰汁
(あく:草木灰を溶かした水の上澄み液)を使っても同じ効果が出る。事実、長崎チャンポンや沖縄そばは灰汁を使っ
ていた。ただ灰汁を使うと白い麺になる。
さて、そこでラーメンの話である。戦後、大陸からの引揚者が手っ取り早く日銭を稼ぐ方法として、向こうでしょっちゅ
う食べていた「支那そば」を日本にある食材にあわせて料理して屋台で出した。今ラーメンの有名店が九州や北海
道なのはそこが引揚者が多かったからだ。
ラーメン博物館の記述に、ラーメンの語源のひとつとして、大正初期、札幌の北大前の竹屋食堂にひとりの中国人コックがいた。いつも「ラー!」「ラー!」
(「はい!」という意味)と返事をしていたことから、そのコックの作るめんを「ラー・メン」と名付けた、というのがあった。私は昭和生まれなので大正時代
のことを、はっきり違うというのは難しいが眉唾だ。出来すぎているのとラーメンは戦後のものだからだ。
博多が豚骨スープなら、札幌が味噌、醤油、塩、そんなところだろうか。今ではラーメンの定義すら難しい。これに
加えて、米沢ラーメン、喜多方ラーメンなどご当地ラーメンが花盛りである。私は戦後いっとき米沢で暮らしたが米沢ラーメン
など聞いたことがない。米沢牛という名前すら知らなかった。有名銘柄といってもごく最近のことなのだ。
札幌のラーメンの歴史というのを見ていたら「1955年に札幌の『味の三平』で、大宮守人氏が味噌ラーメンを開発し」とあった。
このすぐあと学生だったから知っているが、ススキノ(薄野)にラーメン横丁が出来ていたが、もっぱら観光客ばかりで地元の
人間は賛否半ばしていた。「三平」も知っているが、みそラーメンなど少数派で、横丁のほかの店が繁盛していた。それぞれ別のひいきの店があった。
今はなき「爐」(いろり)恋しや
何十年かたって札幌を訪ねた。友人に「爐」が再建されたと聞き、京王プラザホテル近くの店を訪ねた。遠い親戚すじが引き継いだと聞いた。
パンフレットに「爐創業から45年を数え、札幌を代表する名物店。黒いスープの秘密は、コクと甘みを出し、水分をとばすために
使用している焦がしたラード。麺とスープの温度バランスにこだわり、さまざまな温度を下げないための工夫が
施されている。イカやツブ貝、ホタテなどのうまみを堪能できるスペシャルラーメン」とあった。
黒いのは「焦がしたラード」だったか、と
参考になったが、当時の店は学生料金でやっていたので、1000円という値段が気に入らなかった。味の方もまたまったく別物だった。
「爐創業から45年を数え」というと、こちらが学生のころも入るが、私はこんなおやじ知らない。
ラーメン屋、図に乗るでない!
調子に乗って店主まで「秘伝のタレです」と撮影拒否だという。行列ができるラーメン店特集だと。笑わせるでない。行列など行楽地
のトイレだって出来ている。どこだったか忘れたが、テレビが「行列ができるラーメン店」と紹介している店に入ったことがある。確かに
行列が出来ていたが、よく見たら、単に段取りが悪いだけだ。食べている客より待っている客が多かった。
池袋を通りかかったら「期間限定、札幌から進出の有名ラーメン店」とテレビライトを浴びていた。食べたが、「中の下」くらいの
味でがっかりした。いまやラーメンは無能なテレビ局がイージーに番組を作るときの道具と化している。
ラーメンに限らずものにはおのずと妥当な値段があると思う。今では見かけないからつぶれたのだと思うがオホーツクの名前がついたラーメン店があった。
社長は札幌で屋台から身を起こしたという立志伝中の人物というふれこみだった。三越本店をあの岡田某社長が牛耳っていたころで、両社長が組んで、
日本橋本店に1500円の
ラーメンを出した。街のラーメン500円くらいの時である。会ってくれといわれて会ったが、キャッシャーにはみな自分が手をつけた女性を座らせるのがモットーという男で辟易した。
隣の千疋屋で1個2000円のリンゴを売っていた。二つ並べて「モノにはおのずと常識的な値段がある」と記事にした。
二度とお呼びがかからなかった。
かくてラーメンは勝手に進化を遂げ、スープも麺も具も何でもありなのだ。基準などないし、作りようもないので、店主は勝手に講釈をたれている。
それをなおかつ「うまい」「まずい」というのは、私の能力を超えている。ここに紹介する店は半分評判、半分料金、そのほか独断偏見を加えたものと考えていただきたい。 |
うなぎ(鰻)考 つかみ所のない話 | ||||||||||||||||||||||
幸いなことに、うなぎについてあまりうるさく講釈を垂れる人はいない。それだけ日本中が均一化されているということだろうか。しかし、後述のように同じうな
ぎを使って、おなじような料理法でどうして違ってくるのか、旨い店とそれほどではない店は厳然として存在する
だいぶ前になるが、食通の映画評論家が伊豆の河津七滝あたりのうなぎ屋を週刊誌でべた褒めしたことがある。大変旨かったので、老婦人を案内した。伊豆高原に
あるその方の別荘の斜面にキーウイを植えさせてもらっているなど、日ごろ世話になっていたからだ。ところが、さっぱりうなぎをほめない。「今度わたしどもの町に案内します」といわれ、後日、その町、群馬県の館林市に出かけ、自宅近くのうなぎ屋につれていかれた。皇太子妃になられる前の正田美智子さんが疎開暮らしをしたという本家の近くだった。
これまた素人でうまく表現できないのだが、伊豆の”べた褒め”うなぎ屋よりだいぶ旨いのはわかった。「ついでにこれも」と食べさせられたてんぷらがまた美
味で「なんという魚ですか」と聞いたら、鯰(なまず)だという。最初に名前を知ると食べられないかも、というので伏せて出されたのだ。店主に聞くと「ウチ
ばかりでなく、このへんではどこでもこれくらいのものは出します」ということだった。日本一広大な関東平野は池や川が多い。わざわざうなぎの名店などと言
わずともそれぞれの土地でうまい店はあるのだ、と知った。
なぜ長野にうなぎの名所があるのか?
99%以上が養殖うなぎ 日本は世界一のうなぎ消費国だ。現在、日本の消費量は年間約12万トン(平成10年)、数でいうと約6億本だという。国民一人平均5本食べる。「うなぎは天 然ものに限る」と言う人がいる。統計をみれば、そんなことまず無理だと分かる。天然うなぎは年間たった860トン(平成10年)である。99%以上が養殖う なぎなのだ。
今では日本産が2割で、台湾、中国からの輸入が残り8割だ。中国が養殖を手がけたのはたかだか10数年前だが、その伸びは「うなぎのぼり」の一途で、しかも
中国産うなぎは、事前に白焼きや蒲焼の状態にされた加工品がほとんどだ。通ぶって、天然がどうの焼きがどうのという話ではない。中国の反日デモの裏返しとし
て日本人の中国嫌いが増えたが、だからといって中国産は食べないといってももう通らない。日中の貿易内容は互いにもはや無視できないレベルにまで達してい
るのがうなぎからでもわかる。 中国は最初日本ウナギ(アンギラ・ジャポニカ)のシラスを養殖していた。日本の養鰻業者が教えた。ところが、数は減るし値も張る。そんなジャポニカを見 限った中国の養鰻業は目を欧州に転じた。ヨーロッパウナギ(アンギラ・アンギラ)のシラスを大量に輸入し、養殖・加工して、日本に輸出するようになった。 いまや中国産かば焼きの8割は欧州原産のアンギラ種だという。 2007年6月、日本のウナギ事情はさらに厳しいものになった。オランダ・ハーグでのワシントン条約締約国会議で、 激減しているヨーロッパウナギの稚魚を規制対象とし、欧州連合(EU)も稚魚の漁獲量を60%減らすことを決めたのだ。 中国がヨーロッパの稚魚に目を向けたのは市場原理からだ。価格が安いスペインやフランスなどの海でヨーロッパウナギの稚魚を捕獲、養殖に適した中国へ送ら れる量は、年間約50〜60トン。ここで養殖された成魚はロシアやアメリカにも輸出されるものの、大半は日本に入という図式だった。 ところがここにいたって、 EUはヨーロッパウナギが「乱獲で80年代の2%以下に減少している。激減は中国や日本への輸出が原因」」と主張 2013年までに稚魚の漁獲量を60%減少させる大幅な規制策を出してきた。まだ紆余曲折はあるだろうが、日本への影響は2008年2月ごろから出始め、稚魚が成魚 になる2009年以降さらに大きくなるとみられている。 さらにうなぎ事情が厳しいものとなる事態も起きてきた。2007年6月29日、アメリカのFDAは中国産のうなぎ、えび、なまずの1/4に発ガン物質が検出されたとして 、検査なく輸入可能であったものを、第三者機関の証明書の添付を義務付けた。あわてた中国政府は自国の検査証明書で通関可能とするよう強硬に交渉中だ。FDAで 検出された物質のうちニトロフランとマラカイトグリーンは動物実験ですでに発ガン性が確認され、中国でも魚介類への使用が禁止されている物質だがどこかで使われている わけで中国の食の安全に疑問符が付けられている。 マラカイトグリーンは以前に中国産のうなぎから日本でも検出されたことがある。日本鰻輸入組合は「抗菌剤の問題(中国は養殖に薬剤を大量使用する)で中国 からの輸入は減っているが、さらに痛手になるのは確実。日本のうなぎ消費10万トンのうち6万トンが中国から。中国からの輸入が少なくなれば、全体の価格が上がる のは必至」という。 ニホンウナギの稚魚が沿岸を北上する台湾では稚魚を年間約5トン捕獲して日本に輸出している。稚魚が品薄になる3月以降、日本側が逆にシラスウナギを輸出 するよう要求しているが、日本側は資源保護を理由に拒否しているため、報復処置として対日輸出や期間の制限を検討しているありさまだ。うなぎをめぐる国際情 勢は四面楚歌である
もっと国産を増やせばいいが、国内でのうなぎの生産量は約2万2000トン(平成10年)にとどまる。県別では鹿児島県が最も多く、次いで愛知県そし宮崎県、
静岡県の順だ。市町村別では愛知県・一色町が最も多い。「あれ?浜名湖は」という人がいるだろう。そう、現在では浜名湖のうなぎは壊滅状態で、生産高は最盛
期の3割程度。新幹線から見ても養殖池は空きが目立つ。新幹線車内で「うなぎ弁当」が売られているが、そのうなぎはもはや浜名湖産ではなく中国産の可能性が
高い。
「天然うなぎ」は少ないが、関東平野や琵琶湖周辺、その他でまだ獲れるところはある。「天然うなぎ」のランクは、《沼、 池より川、川でも急流、本流より支流》がそれぞれ上物とされる。秋に獲れる「下り鰻」、河口の海で育った「海鰻」「シャコうなぎ」は特に上物とされた。また 関東の場合、春の彼岸から一か月ほどの間に印旛沼、霞ヶ浦で獲れる細いうなぎを「出縄」と呼んで珍重した。うなぎも「江戸前」が好まれた。「江戸前」の範囲は金 沢八景、品川付近から利根川までの間。それ以外を「旅のうなぎ」(田舎うなぎ)と呼んでバカにしたほど。
天然うなぎが珍重されたのは、大きさにかかわらず、どんなに脂がのっていても小骨が気にならないで、軽い味だということだが、戦後しばらくまでの話。しかも、
うなぎは何でも食いつく悪食だから産地、季節、川の水質、餌で違いがあり、養殖うなぎの方がいいときもある。加えて、川の漁で生計をたてるような川魚漁師
も激減、さらに護岸工事でコンクリートだらけになって生息できない環境もあり、天然うなぎは風前の灯火(ともしび)なのだ。 「天然うなぎ」に限らず活きがいいものは胸が淡黄色だ。うなぎは昔「むなぎ(胸黄)」と呼んでいた。これがうなぎの語源とされる。江戸の小噺によると、鵜飼の
時に、鵜が飲み込むのに難儀することから鵜難儀(うなぎ)となったというのがある。 徳川家康の時代に江戸は大干拓事業が行われたため多くの泥炭湿地が出現、ここにうなぎが住み着くようになった。このうなぎを人夫が蒲(かば)の穂のようにぶつ切りに して串に刺して焼いて食べた。これがうなぎの蒲焼で、このころは雑魚扱いだった。蒲焼は江戸発祥の料理なので江戸の代表的食物とされるが、一般に食べられるようにな ったのは江戸後期からで比較的新しい食べ物だ。注文があってから焼いたから、江戸っ子は「鰻屋でせかすのは野暮」として、蒲焼が出てくるまでは新香で酒を飲 んだ。鰻屋もまた新香に気をつかったものだという。明治のころまでは、関東ではうなぎは贅沢品だったが、関西では一般的に食べられていた。 関東でうなぎを蒸すようになったのは江戸のうなぎが泥臭かったからという説や江戸っ子は脂っこいものが嫌いで、脂を落とすために蒸したという説もあるが判然としない。 ただ、現在のような食べ方ではなく、うなぎを酢味噌や山椒味噌、辛子で食べていたという。天保年間になってやっとタレをつける現在のような食べ方が確立した。 鰻丼も江戸時代からあっものの、酒のつまみとして発達したのでうなぎとご飯は別々に出された。明治時代になって、冷めないように蓋をするようになり、重箱を使って高級 感を出しての「うな重」は戦後になってのことだ。
斎藤茂吉とうなぎ
自分が主宰する歌誌「アララギ」の選歌会で、うなぎの出前をとると「君、そっちのほうが大きいから替えてくれ」と弟子のを取り上げた。「茂吉日記」か ら丹念に彼が食べたうなぎを勘定した人がいる。24年間で1051匹だという。年間44匹だから、上述の「日本人の年間平均5本」と比べてもケタ違いに多い。創作 に行き詰まったときも、ひとたびうなぎを口にするや「一気呵成ニ歌十首ヲ纏(まと)ム」と日記に書いている。 一説では、中年からの24年間に約1000尾を食し、毎日のように蒲焼きを食べていた時期もある。
「ゆふぐれし机のまへにひとり居りて鰻を食ふは楽しかりけり」
「吾がなかにこなれゆきたる鰻らをおもひて居れば尊くもあるか」
うなぎの養殖は昭和はじめから
「石麿にわれ物申す夏痩せに良していふ物そ鰻取り食せ」
「石麿さんに申し上げます。夏痩せに効果があるそうです。鰻を召し上がってください」というのだから、1200年ほど前から日本人はうなぎを食べる慣習が あったのがわかる。しかし、うなぎの養殖は明治時代になってからで、大正末期から昭和初期にかけて急成長した。うなぎの養殖技術は発達したが、生態はまだ 分からないところが多い。 うなぎの人口養殖は昔から試みられてきた。人工孵化は1973年に北海道大学水産学部で初めて成功し、2003年には三重県の水産総合研究センター養殖研究所が、 世界で初めて完全養殖に成功したと発表した。しかし人工孵化と孵化直後の養殖には莫大な費用がかかり、成功率も低いためいまだ研究中で、養殖種苗とな るシラスウナギを海岸近くで捕獲し、成魚になるまで養殖する方法しかない。このため自然界における個体数の減少、稚魚の減少が各国の シラスウナギ輸出規制の動きとなり上述のように国際問題となりつつある。 養殖業者は毎年、12月から4月の間に海(河口付近の海岸部)で捕獲されるシラスウナギと呼ばれる体長5〜6センチの白く半透明のうなぎの稚魚を池に放す。 加温設備をそなえた池で水温は30℃位に保たれる。毎日エサを与えて大きくなるにつれ選別を行ないながらさまざまな技術のもとに管理され、6か月から遅く とも一年くらいの間に出荷される。
うなぎの生態 自然科学の祖でもあるギリシャの哲学者、アリストテレスはウナギを解剖しまくったが分からず「泥から生まれた」と言った。精神分析のフロイトも実は若い頃ウナギのオスの生殖器を見つけるという野望に燃え、丸一年ウナギを解剖し続けたが、発見できずに挫折した。 それからだいぶたつが、いまだに生態の多くはよくわかってい ない。うなぎの起源は1億年前後の白亜紀後にインドネシア付近で派生したと推定されている。そのまま残ったグループ(日本ウナギ・オーストラリアウナギ・そ の他)と海流に乗って西へ出たグループ(ヨーロッパウナギとアメリカウナギ)に分かれた。 日本以外にも朝鮮半島からベトナムまで東アジアに広く分布する。成魚が生息するのは川の中流から下流、河口、湖などだが、内湾にも生息している。夜行性で、 夜になると餌を求めて活発に動き出し、甲殻類や水生昆虫、カエル、小魚などいろいろな小動物を捕食する。 なにより驚くのが、川や沼にいるとき、つまり私たちが目にするような状態のとき、ウナギには生殖器がないということ(海に帰ったとき生殖器が発生する)。
ウナギは雌雄同体の生物で川にいるウナギはすべてオス。海へ下った時にメスになり、はるか外洋の産卵場で生まれるが、それがどこなのかくわしくは解明され
ていない。日本の
ウナギはフィリピン東方マリアナ海域で生まれ、欧米のうなぎは大西洋の真ん中サルガッソー海で生まれると見られている。その後レプトケファルスと呼ばれる
幼生になり、体長数ミリの幼生のまま大海を何千キロも泳いでから川を遡る沿岸にやってくる。この時がシラスウナギだ。シラスウナギは川をさかのぼり、クロコ、黄ウナギとなって川や湖で5年から15年成長し、体長5
0センチ(オス)から1メートル(メス)の銀ウナギになり、ある日突然思い立って秋の増水時に川を下り、再び海へ戻って産卵し一生を終える。この間数千キロに及ぶ回遊をするがこれもよく分かっていない。
ウナギはレプトケファルス→シラス→クロコ→キウナギ→下りウナギと成長に従い呼び名が変わる”出世魚”なのだ。
上で外洋の産卵場がわかっていないと述べたが、2006年2月23日の朝刊各紙が数十年来のこの謎に答えが出たことを報じた。 グアム島の北西約200キロの「スルガ海山」であることを、塚本勝巳・東京 大海洋研究所教授らの研究グループが突きとめ23日付の英科学誌「ネイチャー」に報告したという。大きな成果だ。 研究グループは前年6月、海洋研究開発機構の学術研究船・白鳳丸(3991トン)で現場海域を航行し、ネットを下ろして海面から水深500メートルに かけて引いた。その結果、スルガ海山の西約70〜100キロの地点で孵化(ふか)後2〜5日の幼生約400匹を捕獲することに成功した。DNA鑑定でニホ ンウナギの「プレ・レプトセファルス」と呼ばれる誕生直後の幼生(仔魚=しぎょ)であることがわかった(写真右上)。全長は4.2〜6.5ミリだった。 ニホンウナギの卵は、受精から1日半で孵化することがわかっている。ウナギの内耳には平衡感覚をつかさどる「耳石」(じせき)があり、そこにある「輪紋」 と呼ばれる模様が一日ごとに増える。樹木の年輪判定の要領でこの幼生は孵化から2日目であることがわかった。現場海域では時速1キロ前後の海流が西向きに流れ ており、捕獲した幼生の日齢から逆算して、産卵場は船から100キロ離れたスルガ海山であることが確定的となった。
スルガ海山は、北緯約14度、東経約143度にある。周辺は水深3000メートル前後の海底が広がり、海山の頂上は水 深約40メートル。広大な海の中で、親ウナギはこの海山を目印に集まるらしい。 ニホンウナギは一生の間に数千キロの大回遊をする。南の海で生まれた幼生は、北赤道海流で西に流された後、黒潮に 乗って北上し、3カ月〜半年かけて日本や中国など東アジア沿岸にたどり着く。その間に、幼生からシラスウナギへと姿を 変える。
太平洋上でより小さいシラスウナギ(稚魚)をさがし求めることで、ついにスルガ海山が産卵場であることをつきとめた日本のウナギ研究は、とうとう至難とされ たウナギの卵を採集することに成功した。2011年2月2日の新聞各紙によるとー。
◇ ◇ ◇ 九州の沖仲士の親分の息子で河童が好きだった作家、火野葦平が書いた小説「赤道祭り」に、水産学者の主人公が恋人と「竜王丸」という海洋調査船に乗って、 南洋に出かけ、ウナギの幼魚を発見する場面が出てくる。火野は『糞尿譚』で第6回芥川賞受賞したが応召中のため、戦地で授賞式が行われたことで知られる。戦後、『花と龍』 『革命前後』など自伝的作品を発表したが昭和35年自殺している。火野はウナギのルーツをフィクションとして書いたのだが、その通りの結末となった。場所は大 方推定されていたとはいえ「事実は小説より奇なり」を地で行く話だ。 〈ニホンウナギ〉日本や中国、韓国など東アジアに広く分布し、成長すると産卵のため川を下り海に入る。世界には、ヨー ロッパウナギやアメリカウナギなど18種類のウナギがいるが、国内で消費されるウナギの大部分はニホンウナギ。日本鰻 (うなぎ)輸入組合によると、国内流通量の9割近くを占めるという。 ニホンウナギの生活史(現在までに解明された点)
●海流に乗って東アジアへ向かう。この間に仔魚から「シラスウナギ」に成長。 ●初冬から翌年春ごろ日本などに到着する。 ●日本各地の河川に入り、淡水で5−10年過ごす。「クロコ」から「黄色ウナギ」に成長。 ●秋から冬に成熟をとげ、「銀ウナギ」になり、海に出てスルガ海山付近の産卵場を目指す。ウナギが方向を知るのは、耳の一部でスルガ海山の周りの流れが起こ す低周波を感じることができるのではないかという仮説がある ●産卵を終えたウナギは一生を終える。
東西の調理方法
土用丑の日とうなぎ
夏の土用の時期は暑さが厳しく夏ばてをしやすい時期だ。昔から、土用蜆(しじみ)、土用餅、土用卵などの言葉が今も残っているように「精の付くもの」を食べ
る習慣があり、精の付くものとしてうなぎは奈良時代から有名だったから土用うなぎというように結びついたのだろう。
うなぎの旬は本来冬なのだが、こうして夏の暑いときに土用にうなぎを食べる習慣が一般化したきっかけは、幕末の万能学者として有名な平賀源内が、夏場にうなぎが売れないので何とかしてほしいと近所のうなぎ屋に相
談され、「本日丑の日」と書いた張り紙を張り出したところ、大繁盛するようになった、という話が有名だ。でもどうもまゆつばのような・・・エレキテル(電気
)を作り出した最初の日本人だから、電気うなぎからの発想と見たほうが楽しくもある。
うなぎ屋の値段は高すぎないか
なが年「時価」ととぼけて高い料金を
取っていた寿司屋が100円寿司に押されて青息吐息だ。我ながらバカなことをしていたと反省しているが、座れば最低
一人1万5000円という馴染みの店があった。握りはそう好みでないので酒少々とつまみでこれでは高かろうと思っていた
が、今では4つあった支店を縮小して従業員も減らした。私も行かなくなった。
こちらは生来、吝嗇の上ひねくれている。私は、もう30年以上床屋に行ったことがない。T椅子という会社を取材
中、床屋の値段が高いのは、こういう椅子のメーカーがマッサージつき、洗面台つきなどいらぬ機能をつけて何百
万円もする椅子を売りつけていることを知ってからだ。この償還に追われるから高い。一方、実利第一のアメリカの
床屋には20万円程度のものを輸出していた。
これを知って、断固床屋に行くのをやめたのだ。女房に生涯散髪代として前渡し金を取られたが以後タダだ。30年間、これで別に不自由はない。長髪ブームという追い風にも乗って、わざとそうしている風にみえるのも幸いした。3年ほど前一度危機が訪れた。長女の結婚式で「花嫁の父」をつとめるのにそれじゃまずかろうということになった。禁を破るか、と思ったが、式の直前、硬膜下血腫で手術する羽目になり、看護婦の手で丸坊主にされた。結婚式は五分刈りで臨んだから床屋には行かずにすんだ。
現在、床屋の廃業が相次いでいる。一方でカットだけの1000円床屋がにぎわっている。椅子メーカーも株価は低迷している。業界がいい気になって値上げに次ぐ値上げをつづけた結果だ。30年にわたる個人の抵抗運動が効いたか、と快哉を叫んでいる。
この伝で、私がうなぎ屋を拒否する時代が来ないことを祈る。
ウナギ稚魚、歴史的不漁で高値に上のような話を書いて10年ほどたった2018年、大変なことになった。シラスウナギがほとんど獲れなくなった。よくて前年の1割。これでは価格は暴騰する、客足は遠のく、うなぎ屋 の経営が立ち行かなくなる――の三連鎖で、最早食べるどころの騒ぎではなくなった。
稚魚の輸入先である中国や台湾でも極端な不漁で、早くも値上がりを見越しての売り渋りも出ている。稚魚の価格が3倍ということは、現在「うな重」に例を取れば、店によって違うとはいえ 「2000円台から3000円台」である。これが一挙に1万円台になる理屈である。うなぎの名店とされるところではコース料理にして「1万円ちょっと」取っているから、3万円になる。 誰が注文するものか。うなぎ滅亡の時代である。 ウナギ不漁は風で回遊ルートがずれたためかニホンウナギの不漁が続いているが、稚魚の「シラスウナギ」が減ったからではなく、日本沿岸を訪れる時期がずれ込んだためらしい。最近の研究で稚魚が生まれる場所や、回遊ルートに 及ぼす風の影響などが判明し、謎だった生態の一部が見えてきた。 日本の河川で育ったニホンウナギは産卵期が近づくと、太平洋を南下しマリアナ海溝付近で産卵する。孵化した幼生は北赤道海流に運ばれて西へ向かい、フィリピン沖から台湾沖へ北上。そ の後は黒潮に乗り、稚魚のシラスウナギとなって日本に戻ってくる。 日本の養殖ウナギの大半は、沿岸にたどり着いた稚魚を12〜4月の漁期に捕まえて、養殖池に入れて育てている。昨年12月の池入れ量は前年同月比97%減のわずか0・2トンにとど まり、今期は空前の不漁が懸念されていた。 だが漁獲量は徐々に増え、4月末までの池入れ量は計14トンに。水産庁によると2003年以降では13年に次ぐ少なさだが、前年の7割程度を確保でき、かば焼きが食べられなく なる事態は回避された。 この理由について、水産研究・教育機構中央水産研究所の黒木洋明グループ長は「稚魚の量が急減したというより、日本近海に来る時期が遅くなったことが原因の一つだろう」とみている。 確かに過去2年間の池入れ量のピークは12〜1月だったが、今期は3月と大きくずれ込んだ。国内で禁漁となる5月以降も、日本沿岸にかなりの稚魚が来遊していることが水産関係者から 報告されているという。 台湾沖で稚魚に日本に戻ってくるウナギは全て稚魚で、幼生のまま来ることはない。幼生がどこで稚魚に姿を変えるかは謎だったが、同研究所は台湾の東方沖で稚魚に変態する途中の個体を多数採取。変 態中のウナギが同じ海域で大量に見つかった例はなく、ここが稚魚の故郷らしいことが分かった。 この海域には直径数百キロの大きな渦がいくつもあり、自ら泳ぐ力がない柳の葉のような形の幼生(レプトセファルス)を取り込んでいく。福田野歩人(のぶと)研究支援職員は「幼生 は渦の中で変態し、稚魚になって泳ぐ力がつくと渦を抜け出して黒潮に乗るのではないか」とみている。 稚魚は黒潮の早い流れにいったん乗ると、最速約1週間で日本近海に到着する。日本への到着時期が数カ月も前後するのは、いつ台湾沖を訪れ、渦を脱出するかが鍵を握っている可能性がある。 産卵時期や成長速度、海流の向き、渦の強さなどで変動すると考えられるが、詳しい研究はこれからだ。 太平洋の風が鍵
一方、稚魚が減少する新たな要因も分かってきた。1950年代に年間200トンを超えていた国内の漁獲量は昨年、15・5トンに落ち込んだが、この長期的な減少は太平洋の風が影 響していることを海洋研究開発機構と日本大の研究チームが突き止めた。 チームは気象や海洋の観測データに基づき、93年から約20年間のウナギ回遊ルートの海流変動を模擬解析した。その結果、回遊ルートの内側を時計回りに吹く風が弱まる傾向にあるこ とが分かった。 風が弱いと北赤道海流は南方に移動するため、幼生の多くは台湾沖に向かわず、フィリピン沖を南下する別の海流に乗ってしまい、日本に来る個体が減って不漁になるという。 マリアナ海溝付近で1万8千個の卵が孵化したと仮定し、約8カ月で稚魚がどこまで到達するかも解析。風が弱い年は日本にほとんど届かず、強い年は大量にやってくることが判明し、 実際の漁獲量ともほぼ一致していた。 風の強さは長期的に変動することも分かった。もし今後、強い時期に転じれば日本近海の稚魚が増える可能性もある。海洋機構の宮澤泰正グループリーダーは「ニホンウナギの大回遊と資 源量の変動には数多くの謎が残っている。さらに解析の精度を上げて解き明かしたい」と話している。(2018年6月4日、産経新聞) |