ぐるめ 3考

ラーメン考 支那そばへのこだわり

私には、ラーメンについて薀蓄(うんちく)を傾けるほどの蓄積はないし、各地を食べ歩き、微にいり細にわたる批 評を加える趣味もない。時々街のラーメン店に飛び込み、うまいか、まあまあか、まずいかの試行錯誤を繰り返し ている だけである。それなのに八ヶ岳の往来に限るとはいえ、「ラーメン店」を紹介しようというのだから、土台に なる「ラーメン考」とでも言うものを披瀝しておかなければならないだろう。

「支那そば」と「ラーメン」とは違う
私の中では「支那そば」と「ラーメン」は峻別されている。別物である。 個人的体験でいうのだが、「支那そば」というのは、大阪ミナミの難波駅近く、心斎 橋を少し御堂筋側に入った「桃園」 が原点だ。だいぶ前に店は姿を消した。その系譜があるのだろうが知らない。 両親に連れられて食べ盛りの男兄弟3人 が満腹した思い出がある。家族の団欒というものと重なってなつかしい。

今はない店の味をとやかくいわれても・・・と言われそうだが、なあに、今もあるのである。鶏がらスープでカンスイ(後述) を使った黄色く 細い縮れ麺だ。世はラーメン全盛時代で、なかなか出会えないが、この系統に出会うとまず間違いな く「◎」をつける。

「中華そば」ではなく「支那そば」のワケ
このホームページでは「支那そば」で通しているが、街の表記は「中華そば」が多い。これなど、ラーメンと 違うんだ、といいたいがためだろう。でも「中華そば」というのもそぐわない。何千年来も中国人に染み付いている 「中華思想」を連想させる。なんだそれは、という人が多くなったから、ラーメンを離れてすこし説明がいるだろう。

中華思想(ちゅうかしそう)とは、中国が世界の中心で、その文化や思想が最も価値のあるものとし、 漢民族以外の異民族を、「化外(けがい)の民」として見下す思想で、華夷思想ともいう。

中華思想に基づき、周囲を取り囲む異民族は蔑称で呼ぶ。東夷(とうい)=倭(日本)、朝鮮 など=、西戎(せいじゅう) 、 北狄(ほくてき)=匈奴 鮮卑 契丹 蒙古 など=、南蛮(なんばん)といったぐあいだ。 「夷」「戎」「狄」「蛮」は未開の 民族や犬などの動物を意味する。いまさら変更もきかないだろうから、中華というのは「中華街」と「中華鍋」くらいにしと いてもらいたいものだ。

万里の長城で考える
万里の長城は地球外の星から見える唯一の人工構築物だが、この途方もないものを 作ったのは北狄から身を守るためだ。騎馬民族が飛び越えられないように、と営々と築いた。八達嶺に立って見ると わかるが、今となっては愚行と思えるものに注いだ国家の意志のスケールに圧倒される。「そんな昔のこと」と思うだろうが、なに今も生きていて、同じ共産主義国なのに、ホーチミン率いるベトナムに「懲らしめのため」出兵した のはそんな昔のことではない。だからベトナム人は中国より日本を向いている。

2005年4月、中国各地で中国政府黙認のもと反日暴動が起きたが、これなども「東夷」の輩が国連常任理事国という「戦勝国」 の仲間入りするのが許せないのだろう。日本は国連分担金の20%以上を拠出しているが、中国は発展途上国扱いでわずか2% だ。こうした事実には目をつぶって「歴史を反省しない日本は常任理事国入りの資格がない」とは恐れ入る理屈だ。

わき道にそれたが、だから、鼻白む「中華」より、いくら少数派でもいい、断じて「支那そば」なのだ。 透明なスープの湯気の中に思い出の香りまでにおいたつではないか。

昔から慣れ親しんだ名詞が、なんで突然言い方が変わったのか斟酌する に、「支那(しな)」は差別用語だというのだろうが、そんなことはない。 いっとき流行した「言葉狩り」の影響で、した り顔で「支那は蔑称だ」とでもいう輩の尻馬に乗ったのだろうが、それなら「東支那海」や陶磁器の 「China(チャイナ)」 はどうなる。土台、中国が抗議したという話は聞かない。

露西亜を征服するというので、水の悪い中国大陸用に日本陸 軍が開発した整腸剤「征露丸」が、民間に開放されたら、 いつのまにか「正露丸」に なったのと同じ轍だ。「支那そ ば」でいいのだ。

「支那」の呼称について
「支那」というのは日本が勝手におもんぱかって使用をはばかっているのだろう、 と書いたが、昭和5年(1930年)5月、南京にあった蒋介石の「南京国民政府」(中華民国の正当な政権)から 日本政府に対して、中華民国という国号を使用することを求め、「支那」の文字を使用した公式文書は受け取り を拒絶すると通告があり、日本政府は同年10月に「支那」を中華民国と呼ぶよう閣議決定していることがわかった。

さらに政府は、昭和21年6月6日付けで「支那」に関する外務省次官通達と、その内容をさらに細かく 記した総務局長通達で”使用禁止”にしている。通達には、

「中華民国の国名として支那といふ文字を使ふことは過去に於ては普通に行はれて居たのであるが 、其の後之を改められ中国等の語が使はれてゐる処、支那といふ文字は中華民国として極度に嫌ふ ものであり、現に終戦後同国代表が公式非公式に此の字の使用をやめて貰ひ度いとの要求があった ので、今後は理屈を抜きにして、先方の嫌やがる文字を使はぬやうにしたいと考へ、念のため貴意を 得る次第です」とある。

しかし、日本国内では「支那」という言葉は其の後も使われ続けた。「使うな」といってきた国民党政権は その後共産党の中華人民共和国に取って代わられたのと、共産党政権は支那の呼称について何も言っていない ためだ。もともと「支那」という言葉は、日本には平安時代に入ってきて、江戸時代末期になって広く 使われた言葉で、差別的な意味など一貫してなかった事は、語源をみても明らかだ。「使うな」といった 国民党政権も、差別的だからというのではなく、新しく名乗った国名を使わせたいがためだった。 ほんのいっときしか政権を掌握しなかった国民党政権の求めと、さらに戦後になって外務省が斟酌して「理屈を抜きに」次官や局長の 通達を出したために、日本国内では「支那」を使うのがなにか遠慮されるようになったのが見て取れる。

支那の語源については、@インドの仏教が中国に伝来するとき、経典の中にある中国を表す梵語 「チーナ・スターナ」を、当時の中国人の僧が漢字で「支那」と当て字にしたことによるとする説。 A秦の始皇帝によって中国最初の統一王朝となった「秦」の読みから「チーナ」になったする説がある。

いずれにせよ、シルクロードを伝って西方に広まり、英語の「チャイナ」やフランス語の「シーヌ」になって いった。ここは同じように「支那」を使うほうが自然だと思うがどうだろう。

カンスイについて
「支那そば」というと「あの独特のカンスイを使った麺」ということになる。これがまたあいまい だ。 「カンスイ」とは「鹸水」または「〓水」(木へんに見)」と書く。中国奥地の鹸湖(かんこ)から沸き出す水で小麦 粉を練ったところ、腰が出て延ばしやすいことから中国料理の麺づくりには欠かせないものとされてきた。その腰( 弾力性)と風味(香り)と旨そうな色(黄色)を出すのがカンスイで、ラーメンの麺には欠かせないものだ。

カンスイは成分的には、炭酸カリウム、炭酸ナトリウムなどの塩基性塩に第二リン酸塩、第三リン酸塩などだ。麺の コシを出すのはリン酸塩で、塩基性塩は麺のコシには関係なく、中華麺独特の黄色い色を発色する役目をする、と いう。カンスイは水だが、日本では化学合成された粉末カンスイが長らく使われてきた。大阪で食べていたのも粉末 カンスイだろう。

成分は温泉によくあるものばかり。温泉がなければ、同様の成分を含む灰汁 (あく:草木灰を溶かした水の上澄み液)を使っても同じ効果が出る。事実、長崎チャンポンや沖縄そばは灰汁を使っ ていた。ただ灰汁を使うと白い麺になる。

さて、そこでラーメンの話である。戦後、大陸からの引揚者が手っ取り早く日銭を稼ぐ方法として、向こうでしょっちゅ う食べていた「支那そば」を日本にある食材にあわせて料理して屋台で出した。今ラーメンの有名店が九州や北海 道なのはそこが引揚者が多かったからだ。

ラーメン博物館の記述に、ラーメンの語源のひとつとして、大正初期、札幌の北大前の竹屋食堂にひとりの中国人コックがいた。いつも「ラー!」「ラー!」 (「はい!」という意味)と返事をしていたことから、そのコックの作るめんを「ラー・メン」と名付けた、というのがあった。私は昭和生まれなので大正時代 のことを、はっきり違うというのは難しいが眉唾だ。出来すぎているのとラーメンは戦後のものだからだ。

博多が豚骨スープなら、札幌が味噌、醤油、塩、そんなところだろうか。今ではラーメンの定義すら難しい。これに 加えて、米沢ラーメン、喜多方ラーメンなどご当地ラーメンが花盛りである。私は戦後いっとき米沢で暮らしたが米沢ラーメン など聞いたことがない。米沢牛という名前すら知らなかった。有名銘柄といってもごく最近のことなのだ。

札幌のラーメンの歴史というのを見ていたら「1955年に札幌の『味の三平』で、大宮守人氏が味噌ラーメンを開発し」とあった。 このすぐあと学生だったから知っているが、ススキノ(薄野)にラーメン横丁が出来ていたが、もっぱら観光客ばかりで地元の 人間は賛否半ばしていた。「三平」も知っているが、みそラーメンなど少数派で、横丁のほかの店が繁盛していた。それぞれ別のひいきの店があった。

今はなき「爐」(いろり)恋しや
またも個人的体験で申し訳ないが、ラーメンというとき「うまい」と思ったのは北16条の市電通り(今は市電は撤去された)沿いの 小さなラーメン屋「爐(いろり)」だ。北大の恵迪寮(けいてきりょう)の途中にあり、ここの寮生ひいきで数人はいれば一杯という小さな店。市電で通ったぐらいだ。料理の素養がなくて 説明できないが、スープが真っ黒だった。なにを使うとこうなるのか分析できないが、こげた匂いがして、少し置かないと舌をやけど しそうなほど熱かった。この店もその後つぶれたのかどうか、なくなった。

何十年かたって札幌を訪ねた。友人に「爐」が再建されたと聞き、京王プラザホテル近くの店を訪ねた。遠い親戚すじが引き継いだと聞いた。 パンフレットに「爐創業から45年を数え、札幌を代表する名物店。黒いスープの秘密は、コクと甘みを出し、水分をとばすために 使用している焦がしたラード。麺とスープの温度バランスにこだわり、さまざまな温度を下げないための工夫が 施されている。イカやツブ貝、ホタテなどのうまみを堪能できるスペシャルラーメン」とあった。

黒いのは「焦がしたラード」だったか、と 参考になったが、当時の店は学生料金でやっていたので、1000円という値段が気に入らなかった。味の方もまたまったく別物だった。 「爐創業から45年を数え」というと、こちらが学生のころも入るが、私はこんなおやじ知らない。

ラーメン屋、図に乗るでない!
新横浜のラーメン博物館が一種変わったテーマパークとしてにぎわっている。こうしたラーメン全盛時代を招来したのはテレビの 力だ。しかし、現在のように一切の定義を寄せ付けないものにしたのもテレビの罪だ。 毎週おびただしい番組でラーメン特集がある。キャアキャア騒ぐばかりの食い物タレントがひたすら「うまい」と叫んでいる。「シナチクと海苔がないとラーメンとは言わない」 といってるのを聞いたことがある。なにをほざくか。そんなものどうだっていいのだ。

調子に乗って店主まで「秘伝のタレです」と撮影拒否だという。行列ができるラーメン店特集だと。笑わせるでない。行列など行楽地 のトイレだって出来ている。どこだったか忘れたが、テレビが「行列ができるラーメン店」と紹介している店に入ったことがある。確かに 行列が出来ていたが、よく見たら、単に段取りが悪いだけだ。食べている客より待っている客が多かった。

池袋を通りかかったら「期間限定、札幌から進出の有名ラーメン店」とテレビライトを浴びていた。食べたが、「中の下」くらいの 味でがっかりした。いまやラーメンは無能なテレビ局がイージーに番組を作るときの道具と化している。

ラーメンに限らずものにはおのずと妥当な値段があると思う。今では見かけないからつぶれたのだと思うがオホーツクの名前がついたラーメン店があった。 社長は札幌で屋台から身を起こしたという立志伝中の人物というふれこみだった。三越本店をあの岡田某社長が牛耳っていたころで、両社長が組んで、 日本橋本店に1500円の ラーメンを出した。街のラーメン500円くらいの時である。会ってくれといわれて会ったが、キャッシャーにはみな自分が手をつけた女性を座らせるのがモットーという男で辟易した。 隣の千疋屋で1個2000円のリンゴを売っていた。二つ並べて「モノにはおのずと常識的な値段がある」と記事にした。 二度とお呼びがかからなかった。

かくてラーメンは勝手に進化を遂げ、スープも麺も具も何でもありなのだ。基準などないし、作りようもないので、店主は勝手に講釈をたれている。 それをなおかつ「うまい」「まずい」というのは、私の能力を超えている。ここに紹介する店は半分評判、半分料金、そのほか独断偏見を加えたものと考えていただきたい。


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蕎麦(そば)考             信州ではそばを食すべし

高校まで大阪でもっぱら「きつねうどん」で過ごしてきた。このときの同級生にそば好きがいた。いま関西の私大の学長をしているが、ある夏、東大生の彼が北大生の私の下宿までやってきた。 片道20数時間の時代の話だが、金がないせいもあるが、彼は行き帰りの朝昼晩三食、駅そばを食べて平気だった。そんなにうまいものかと不思議だった。 その後私も東京に出たが、雑巾を煮締めたような出汁のうどんに絶望してそばに変えた。関東は、そばならどこでもそこそこのものが出てくるが、うどんはいけない。

長野オリンピックのとき痛感したのだが、ゲームのあった志賀高原や途中の長野市内で、事前に評判を調べる時間も なくて手近なそば屋に飛び込んだが、どこでもおいしいそばを出した。

「信濃では月と仏とおらがそば」

といわれる。私たちがいるのは信濃といっても、東端、野辺山なのだが、どこに飛び込んでも、まず水準以上のものが出てくる。感心していたのだが、その後ハタと手を打った。信州の川上(南佐久郡)や柏原・戸隠(上水内郡)は上等なそば粉の産地として、江戸にまで聞こえた名産地で、信濃の大名が将軍にそば粉を献上していたことを知ったのだ。

この川上というのは現在の川上村で我々がいる南牧村の隣である。それだけでなく、現在食べているそばは「そば切り」が多いが、その発祥の地とされる「本山」というのは現在の塩尻市で、これまたほんの近くである。信濃では、古くから街道や社寺の門前でそばを食べさせる 店が発達し、江戸時代には農村にも普及していたという土地柄である。知らずしてそばの本場にいたことになる。つまり、ここに山小舎を建てて「地元民」になっているからには、そばを食べるべき環境にあるのだ。

そば打ち名人
静岡で新聞社の支局長をしていたとき、中部電力の支店長と知り合った。この 時東京電力社員のそば打ち名人というのを静岡市内の中電寮に招いての試食会があった。 静岡県というところは電力の分水嶺にあたるところで、富士川をはさんで東日本と西日本で50サイクルと60 サイクル地帯に分かれる。県内に2つのサイクルが共存するという関係で両社ともに支店があり、われわれ メディアも両方とおつきあいする。両社共同企画というような席だった。

このときの味を「うまかった」としか表現できないのが残念だが、驚いたことは、東電社員氏は打ち方、だし、具 を変えながら7種類ものそばを繰り出したことだ。自前でそろえた20万円もする漆塗りのそば打ちの器(ちゃんと した名前があるのだろうが)をクルマに積んで、来週はどこそこに呼ばれていますといっていた。プロとしていつ でも開業できるなと思ったが、このような余暇活用型企業人のはしりだった。現在では、各地でそば打ち教室が 開かれている。定年退職した人がそば屋を開業するという話をよく聞くようになった。

家内は世田谷区と姉妹提携している長野か群馬の村にそば打ち体験に行った。大晦日近くになって八ヶ岳で 実験するといいだした。山小舎の向こう三軒両隣に「年越しそばを買わないで。お持ちしますから」と声をかけた。 紅白歌合戦が始まる頃配られたが、つまむとプツプツ2センチほどに切れて、口元まで運ぶのに苦労する代物で、 元日そうそう申し訳なくてうつむいて歩いたほどだ。信州だから黙っててもおいしいそばが出来るということでは ない。

この失敗は「つなぎ」が出来てないことによる。「つなぎ」に小麦粉を使えば「グルテン」という蛋白質が含まれてい るので切れにくく加工できるが、そば粉だけだとグルテンがない分難しくなる。

昔の農村では、小麦粉を「つなぎ」にしたそばの作り方を「一升五合」といった。そば粉一升に小麦粉五合の割合 でつくった。雪が深くその小麦の栽培ができないところでは、「つなぎ」を使わない、今の「十割そば」を打つ技法が あった。「十割そば」とは、100%そば粉でつくるそば切りをいい、「生蕎麦(きそば)」、「生粉(きこ )打ち)」ともいった。「更科そば」というのはそば粉の中心部のサラッとした部分を使うそばで、これだと「十割そば」 ができる。

「十割そば」は誰でも作れる
上述のように、つなぎの小麦粉を使わず、そば粉100%で造ったのが「十割そば」だ。しかし、粘り気がないため打っている最中にばらばら になり、麺の形までもっていくのが難しい。

そのため「二八そば」は、そば粉八割、つなぎの小麦粉二割、「外一(そといち)そば」は、そば粉10、つなぎの小麦1の割合 でつくる。近ごろ「十割そば」の看板が増えてきた。石臼で挽いた挽きたてのそば粉を熱湯で湯ごねするなど、職人の技を誇示 するものでもあるが、素人でも簡単に「十割そば」ができるものなのだそうだ。2006年9月10日付日経新聞に、科学が解き明かした秘訣が掲載されていた。

「十割そばは軽く握って指の形が付くくらいのやわらかいそば粉でないとつくれません。こうなるのは直径が0.1ミリより小さい粉です。そんな粉を作れば子どもや老人でも簡単につくれるんです」

「昔から細かい粉をひくには抹茶用の石臼(いしうす)が使われているんですが、これをまねてレーザー加工で金属製の臼を作ったら、0,08ミリの粉ができた」

「細かいとそば粉の表面積が大きくなり、つなぎの役目をするたんぱく質がつながりやすくなるんです。職人が練るそば粉は0.1−0.12ミリです。こねている間にさらに細かくなってつながるんですね」

「つなぎになるたんぱく質やうまみにつながる脂分は、これまで捨てていた種皮や子葉(コメの胚芽にあたる)にあるんです。この臼だと全部そば粉にできます。これを全粒粉といいます」

そう語るのはつくばにある食品総合研究所の堀金彰・上席研究員。粉の粒の大きさに「十割そば」のコツがあるわけだ。

信州そばの特徴は辛味そば
芭蕉は『更科紀行』の中で「身にしみて大根からし秋の風」と詠んだ。 辛い地大根の搾り汁を使う食べ方は、北の更科郡・埴科郡、南は上伊那地方が本場で「おしぼり」「辛つゆ」など と呼ぶ。地大根のオロシを布でこした汁に味噌を溶かしこむと大根の苦味が消えて、絶妙な味になる。信州のそ ば屋では一般的な食べ方になってきたそうだ。

新そばとは名ばかりの時代
秋になると、全国で「新そば」ののぼりが目に付く。たいていはウソであることは、わが国のそば粉の生産量を見れ ば分かることだ。 現在、日本では年間およそ13万トンのそば粉が消費されている。これに対して、日本の年間生産量はたった2万ト ン強である。国産そば粉は消費量の約20%そこそこで、不足分の約80%のほとんどが中国からの輸入、あと少し がアメリカ、カナダからの輸入だから、新そばがそうそうあるわけないのである。

国内のそばの産地はというと、北海道が約50%、ついで鹿児島を始めとする南九州地区、さらに長野県、福島、 茨城、栃木と続く。北海道と南九州のそばでは、栽培時期や性質にかなりの違いがある。北海道では日長反応の 弱い夏型のそばが用いられ、5月上中旬から7月上旬にかけて栽培される。一方南九州地区では日長反応の強い 秋型のそばが用いられ8月中旬から10月にかけて栽培される。

船山滋生「ソバの花」
我が家と交流がある船山滋生氏の
作品「ソバの花」。千曲川下流の
東御市に一時お住まいで作家、
水上勉の挿絵を担当されていた。
長野県で多く栽培されているのは「秋そば」だ。10月に収穫し、脱穀・製粉して11月に入ると食べられる。清里を 東側に入ったところに「北甲斐亭」というそば屋がある。過疎対策で巨費をかけてつくったもので、すぐ横にそば畑 が広がる。観光客がいなくなる頃に新そばを出す。新そばは、少し青みがかった色をして、かすかな香りが立ち、旨 味がある。長野では新そばが食べられる確率が非常に高いということになる。

「そば前」というと、お酒をさす。そば屋は飲み屋も兼ねていた伝統で、そばを食べる前に軽く飲む。信州では今でも 鶏もつで酒を飲んでいる人が多い。そればかりか、そば屋は明治時代まで薬屋も兼ねていた。関東でも関西でもそ ば屋やうどん屋で風邪薬を出していた。

そばにつきものの薬味で多いのは、ネギ、ワサビ、七味唐辛子。少ないが大根オロシやゴマ、クルミをも出す店も ある。信州だからワサビは有名な穂高など安曇野産があるが、生のワサビは強い風味がそばには邪魔だといっ て、粉ワサビを使用するところもある。

そばの色の決まり方
「そば切り色」という色名があった。うぐいす色などと同じ和名だ。

夕山やそば切色のはつ時雨   一茶

という俳句からも、私は勝手に出雲そばのような色をイメージしていたが、そば切りの色は白いものから黒いもの まで各種あり、これでは土地により色のイメージが違うことになる。「そば切り色」が美人の表現であってもおかしく ない土地も出てこよう。私たちは、そば粉の配合が少ないほどそば切りの色が白く、逆に配合が多いほど色が黒 いと考えがちだが、これは違う。

色はそばの実のどの部分を製粉したかにより決まる。三角形のそばの実は、中心に胚芽があり、そのすぐ外側に は胚乳部分、その外側に甘皮部分があり、さらに外側に殻がある。中心部を製粉したそば粉を使えば白く、外側の 甘皮部分のそば粉を使用したら黒くなる。

そばの実の中心部分を製粉したそば粉は「一番粉」又は「内層粉」といい、白く上品な色合のそば粉になり、デンプ ン質が多いため歯切れの良い食感があるものの、タンパク質が少ないためそばの風味に欠ける。 一番粉より外側の胚乳部のそば粉は「二番粉」又は「中層粉」といわれ、一番粉より色合が濃いそば粉で、デン プン質とタンパク質のバランスが良く、食感と風味のバランスの取れたそば粉とされる。

更に外側の甘皮部分のそば粉は「三番粉」又は「外層粉」といわれ、最も色合が濃く、最もそばの風味の強いそ ば粉だが、一番粉のような歯切れ良い食感には欠ける。 一番粉から三番粉まで、どれを使用したかで、そば切りの色、食感、風味が決まってくる。

そば切り
そば切り発祥の地は我々の山小舎からそう遠くない、塩尻市本山地区だということは上で書いた。このあたりでの そばの栽培は縄文時代からだという。近くの平出遺跡から、そばの種子が見つかっていることでわかる。しかし、 そばを麺にして食べることが普及したのは、江戸時代以降のようだ。木曽郡大桑村にある定勝寺の文書に1574 年仏殿の修理工事の際にそば切りを振る舞ったと記されている。「そば切り」の文字が残された最古の文書であ るといわれている。

本山宿が”そば切り発祥の地”といわれる根拠は、宝永3年(1706年)に芭蕉の門人の森下許六が出版した「本朝 文選」に『蕎麦切りは、もと信濃の国本山宿より出て、あまねく国々にもてはやされける』と書かれているためだ。 本山宿本陣では、寛文10年(1670年)6月4日、参勤交代の大名宿泊時に蕎麦切り献上の記録が残っている。

信州にいるからにはそばを食べるべきだ、という話をもう少し。
信州は古くから山間の傾斜地を切り開いてそばを栽培してきた。信州の気候はそばの栽培に適しており、良質の ソバが取れ、「信州そば」の名が広く知られるようになった。「信州そば」と一口にいってもその産地は、北から南ま で県内に隈なく分布している。そのため同じ信州でも産地によって栽培時期が異なる。たとえば戸隠では 8月中旬 頃に種がまかれ10月半ばに刈り取られる。一方開田村では7月中旬に種がまかれ9月下旬から10月初めに収穫 される。収穫時期のずれが長期間にわたる原料供給を可能にし「信州そば」の名をより高めたのであろう。

「信州そば」のなかでも戸隠村と開田村のそばが有名だ。

  ◆「戸隠そば」
戸隠村は飯綱山の火山灰土に覆われている。年間の平均温度が8.6度と低く昼夜の気温差が大きいから、夏でも 霧が出る。一年を通じて日照時間が短い。農作物の栽培に不向きな自然条件がむしろそばに適している。肥えた 土地よりも、やせていても水はけがよく、昼夜の気温差が大きいほど実が締まったうおいしいそばができる。戸隠、 黒姫、妙高一帯のそばは「霧下そば」と呼ばれ特別に評価されているのは霧の産物だからだ。

戸隠は夏でも冷たく清らかな水に恵まれている。戸隠でそば屋に入ると水をあまり切らずに小分けして、竹のざる に盛った「ぼっち盛り」(写真=左)で出てくる。一口ぐらいの量に束ね、5〜6束をひとつのざるに並べたのがなぜ「ぼっち」な のかわからないが、この地方ではそばは神様や来客へのおもてなし料理だった。薬味に使う「ねずみ大根」や 飯綱山に自生する根曲がり竹を編んだ「ざる」もこの地方の特産品で、みなそばを出すときに一役かっている。

 ◆「開田そば」
御岳山がひかえる開田村もそば産地で、やはり盆地状の高原で、標高が高いため一年を通じて気温が低く、昼夜 の気温差が大きい。水田が少なく、ヒエ、アワ、とともにそばを栽培してきた歴史がある。開田村では「すんきそば」 が名物だ。「すんき」とはこの地方で作られるカブ菜漬の一種で、かけそばに細かく刻んだすんきと削り節をかけて 食べる。酸味のきいた「すんき」と「そば」の組み合わせを楽しむ。

「そばがき」について
神田の「藪そば」目指して淡路町で降りて歩くのだが、たいていその手前の「まつや」に入ってしまう。ここも十分 うまいそばの名店で、インテリ親父が取り仕切り繁盛している。「そばがき」は、ここの名物だ。そばの香りを十分 に感じたかったらこれにかぎる、と通はこれで酒を飲んでいる。「そばがき」はそば粉を熱湯でただかき回しただ けの単純なもので、料理ともいえないくらいだ。

つけつゆにワサビを溶いて。海苔で巻いて生醤油で。紅葉おろしとつゆ。またはゆず味噌で。食べ方はいろいろだ。

「藪」と「砂場」と「更科」
江戸そばの老舗で代々続いている「のれん御三家」といえば、数ある中でもやはり代表は「藪」と「更科」それと 「砂場」だろう。

「藪」の中でも、東京の神田「やぶ」、並木藪蕎麦、池之端藪蕎麦の3店を称して「藪御三家」というそうだ。 このうち神田やぶそばを本家として「藪睦会」なる暖簾会がある。茨城のゴルフ場の帰り、やくざの親睦会のようだ と思いながら入ったが、めっぽう旨かった。

神田やぶそばの起こりは明治13年に「団子坂藪蕎麦」という店を堀田七兵衛が譲り受けたことから始まるという。 本来は「蔦屋」が正式な屋号だったが、このあたりは竹やぶが多かったので、いつしか「やぶそば」となったとか。 明治39年に突然廃業する。このとき「藪蕎麦」の看板を受け継いだのが現在の「神田やぶそば」。 関東大震災で消失したが、すぐに再建。現存する建物はこのとき以来のものだ。

「並木藪蕎麦」は堀田七兵衛の三男・勝三が京橋にのれん分けをして始めた店で、大正2年に雷門から目と鼻の 先にある浅草の現在地に移転した。並木の由来は当時の地名が「浅草並木町」だったことによる。

「池之端藪蕎麦」は勝三の三男・鶴雄が昭和29年に開業した。親子三代が御三家だ。

数寄屋橋の「君の名は」みたいだが、大阪市西区新町南公園に、「ここに砂場ありき」と刻まれているという。 「砂場」のルーツは大阪である。砂場では「虎ノ門砂場」が有名だが、ここの正式な屋号は「大坂屋」という。「砂場」 は大坂起源説が有力で、大阪城築城の際に資材置き場としたところを、地元の人たちが「砂場」と呼んでいたとも いう。それがどうして上京したのかの経緯はわかっていないという。

現在まで続いているのは、「糀町七丁目砂場藤吉(現・南千住砂場)」。ここからのれん分けして独立したのが 「室町砂場」。ここは「天もり」を考案した店として有名。「赤坂砂場」は「室町砂場」の三代目の弟が昭和39年にの れん分けした店。「虎ノ門砂場」も「糀町七丁目砂場」からのれん分けした店で、創業は明治5年。関東大震災前 の造りで、木造三階建て。震災・戦災を免れた建物だ。「巴町砂場」というのもあるが、こちらは上記の系譜とは 違い、東京でもっとも古いそば屋ということになっている。

麻布永坂町の「信州更科蕎麦処 布屋太兵衛」が現在の「更科」の総本家とされる。太兵衛の領主であった信州の 保科家との関係で、大名屋敷に出入りし、その当時から高級なそば屋として名を成し、四代目の時に将軍家御 用達となったことから、以後は「御前そば」の名前も使われるようになった。この店は上品な一番粉を使用し、真っ 白なそば=さらしなそばを確立する。明治以降「麻布永坂更科」は家の名前であった堀井を冠し「更科堀井」と称 し、皇室や宮家へ出前を届けるようになる。こんな名店も昭和16年に廃業してしまった。昭和59年になって創業の 血を引く堀井家八代目が「総本家更科堀井」の看板を掲げた。「更科」がのれん分けして、明治32年、築地の「 さらしなの里」が、明治35年には「有楽町更科」が開店しているが、みな一門だ。

「そば」の字
蕎麦屋の看板に楚(そ)の字と「む」を崩したような字が書いてある。これは漢字「者」の草書体で、かなでは「は」と 読む。「楚者」と書いて「そは」、その右側の点は濁点。だから、「そば」だ。

かなの表記はいろいろあったのだが、現代のかなのように、一音一字になったのは、1900年(明治33年)以来。帝国 教育会が「同音ノ仮名ニ数種アルヲ各一様ニ限ルコト」としてからだ。それ以外のものは「変体かな」という名称 を与えられ、日常生活では使われなくなった。明治の制定以前からの伝統であることを特に示したい業界はわ ざと使っていてそば屋はその代表。ただのれんに「生楚者」と書いてあるのを見かけるが、「生そば」は新そば のことで、年中使うのは看板に偽りありだ。

「そば」は安く、量もしっかり出せ
八ヶ岳への途中「ほうとう」の看板をよく見かける。でも絶対に入らない。「ほうとう」は甲州名物として有名だ。かぼちゃや野菜がどっさり 入っている。しかしみな1000円前後とって平気でいる。歴史を知っているのかといいたい。貧乏な百姓料理という出自を考えたら もっと安くなければご先祖様に申し訳なかろう。

同じ伝で、そばは山の傾斜地や荒地でもよく育つ穀物だ。飢饉の食べ物として重宝された。祝い事などではたっぷり 供するのがもてなしの精神だ。ところが、最初から大盛を注文させるのがみえみえのかぼそい盛りだったり、料金も平気で1000円かそれ以上 取るところがある。そばの歴史を知らない輩の根性が気に入らない。近ごろでは「ざる」でなく「盛り」で700円まで、しっかり腹におさまる量が ないとそば屋と認めないことにしている。そば如きで講釈を垂れる輩も気に入らない。「そばつゆにほんの少し浸して、つるつるとのど越しを味わう」などと 高座で落語家がしゃべっているが、これも余計なお世話だ。こんなの前振りに使うようではろくな噺家ではない。


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うなぎ(鰻)考             つかみ所のない話

幸いなことに、うなぎについてあまりうるさく講釈を垂れる人はいない。それだけ日本中が均一化されているということだろうか。しかし、後述のように同じうな ぎを使って、おなじような料理法でどうして違ってくるのか、旨い店とそれほどではない店は厳然として存在する

だいぶ前になるが、食通の映画評論家が伊豆の河津七滝あたりのうなぎ屋を週刊誌でべた褒めしたことがある。大変旨かったので、老婦人を案内した。伊豆高原に あるその方の別荘の斜面にキーウイを植えさせてもらっているなど、日ごろ世話になっていたからだ。ところが、さっぱりうなぎをほめない。「今度わたしどもの町に案内します」といわれ、後日、その町、群馬県の館林市に出かけ、自宅近くのうなぎ屋につれていかれた。皇太子妃になられる前の正田美智子さんが疎開暮らしをしたという本家の近くだった。

これまた素人でうまく表現できないのだが、伊豆の”べた褒め”うなぎ屋よりだいぶ旨いのはわかった。「ついでにこれも」と食べさせられたてんぷらがまた美 味で「なんという魚ですか」と聞いたら、鯰(なまず)だという。最初に名前を知ると食べられないかも、というので伏せて出されたのだ。店主に聞くと「ウチ ばかりでなく、このへんではどこでもこれくらいのものは出します」ということだった。日本一広大な関東平野は池や川が多い。わざわざうなぎの名店などと言 わずともそれぞれの土地でうまい店はあるのだ、と知った。

なぜ長野にうなぎの名所があるのか?
うなぎの名所は平野部か沿岸部ばかりだと思っている人が多い。山に囲まれた長野、山梨にもあるとは、私も、諏訪湖や小淵沢でうまい店に出会うまで知らなかっ た。岡谷は、天竜川の源として、昔からうなぎの漁獲量、消費量ともに多く、うなぎ料理に関して研究、努力が進んだところなのだという。だから諏訪湖周辺や岡 谷では、今でもこだわりのある独自の味を出す店があるのだという。そのうち、うなぎだけのために再訪しようかと思う。

99%以上が養殖うなぎ
うなぎを食べる国としてはスペインと日本が双璧だろう。スペインではアンギラスといって稚魚(シラス)を食べる。シラスをニンニク入りのオリーブ油で煮たも ので名物料理になっている。成長したのを、開いて蒲焼きにする食べ方は日本だけだ。ところがこれまで大量にとれていたヨーロッパのシラスが、今や20年前の5 ―10%に激減したという(EUの説では2%に落ちたとも)。日本のニシンと同じで乱獲が祟ったと見られる。

日本は世界一のうなぎ消費国だ。現在、日本の消費量は年間約12万トン(平成10年)、数でいうと約6億本だという。国民一人平均5本食べる。「うなぎは天 然ものに限る」と言う人がいる。統計をみれば、そんなことまず無理だと分かる。天然うなぎは年間たった860トン(平成10年)である。99%以上が養殖う なぎなのだ。

シラスウナギ
養殖うなぎというのは、日本ものにしろヨーロッパものにしろまず、河川を遡上(そじょう)しようと河口に集まったところを網ですくい取る(シラス漁)。これ をほかの土地で育てる。はじめは浜名湖あたりで純国産でやっていたが追いつかなくなった。

今では日本産が2割で、台湾、中国からの輸入が残り8割だ。中国が養殖を手がけたのはたかだか10数年前だが、その伸びは「うなぎのぼり」の一途で、しかも 中国産うなぎは、事前に白焼きや蒲焼の状態にされた加工品がほとんどだ。通ぶって、天然がどうの焼きがどうのという話ではない。中国の反日デモの裏返しとし て日本人の中国嫌いが増えたが、だからといって中国産は食べないといってももう通らない。日中の貿易内容は互いにもはや無視できないレベルにまで達してい るのがうなぎからでもわかる。

中国は最初日本ウナギ(アンギラ・ジャポニカ)のシラスを養殖していた。日本の養鰻業者が教えた。ところが、数は減るし値も張る。そんなジャポニカを見 限った中国の養鰻業は目を欧州に転じた。ヨーロッパウナギ(アンギラ・アンギラ)のシラスを大量に輸入し、養殖・加工して、日本に輸出するようになった。 いまや中国産かば焼きの8割は欧州原産のアンギラ種だという。

2007年6月、日本のウナギ事情はさらに厳しいものになった。オランダ・ハーグでのワシントン条約締約国会議で、 激減しているヨーロッパウナギの稚魚を規制対象とし、欧州連合(EU)も稚魚の漁獲量を60%減らすことを決めたのだ。

中国がヨーロッパの稚魚に目を向けたのは市場原理からだ。価格が安いスペインやフランスなどの海でヨーロッパウナギの稚魚を捕獲、養殖に適した中国へ送ら れる量は、年間約50〜60トン。ここで養殖された成魚はロシアやアメリカにも輸出されるものの、大半は日本に入という図式だった。

ところがここにいたって、 EUはヨーロッパウナギが「乱獲で80年代の2%以下に減少している。激減は中国や日本への輸出が原因」」と主張 2013年までに稚魚の漁獲量を60%減少させる大幅な規制策を出してきた。まだ紆余曲折はあるだろうが、日本への影響は2008年2月ごろから出始め、稚魚が成魚 になる2009年以降さらに大きくなるとみられている。

さらにうなぎ事情が厳しいものとなる事態も起きてきた。2007年6月29日、アメリカのFDAは中国産のうなぎ、えび、なまずの1/4に発ガン物質が検出されたとして 、検査なく輸入可能であったものを、第三者機関の証明書の添付を義務付けた。あわてた中国政府は自国の検査証明書で通関可能とするよう強硬に交渉中だ。FDAで 検出された物質のうちニトロフランとマラカイトグリーンは動物実験ですでに発ガン性が確認され、中国でも魚介類への使用が禁止されている物質だがどこかで使われている わけで中国の食の安全に疑問符が付けられている。

マラカイトグリーンは以前に中国産のうなぎから日本でも検出されたことがある。日本鰻輸入組合は「抗菌剤の問題(中国は養殖に薬剤を大量使用する)で中国 からの輸入は減っているが、さらに痛手になるのは確実。日本のうなぎ消費10万トンのうち6万トンが中国から。中国からの輸入が少なくなれば、全体の価格が上がる のは必至」という。

ニホンウナギの稚魚が沿岸を北上する台湾では稚魚を年間約5トン捕獲して日本に輸出している。稚魚が品薄になる3月以降、日本側が逆にシラスウナギを輸出 するよう要求しているが、日本側は資源保護を理由に拒否しているため、報復処置として対日輸出や期間の制限を検討しているありさまだ。うなぎをめぐる国際情 勢は四面楚歌である

もっと国産を増やせばいいが、国内でのうなぎの生産量は約2万2000トン(平成10年)にとどまる。県別では鹿児島県が最も多く、次いで愛知県そし宮崎県、 静岡県の順だ。市町村別では愛知県・一色町が最も多い。「あれ?浜名湖は」という人がいるだろう。そう、現在では浜名湖のうなぎは壊滅状態で、生産高は最盛 期の3割程度。新幹線から見ても養殖池は空きが目立つ。新幹線車内で「うなぎ弁当」が売られているが、そのうなぎはもはや浜名湖産ではなく中国産の可能性が 高い。

偽装うなぎ
偽装表示の蒲焼
案の定、中国産の偽装事件が起きた。中国産ウナギを「愛知県三河一色産」と偽装表示して販売していたもので2008年11月15日、水産物輸入会社「魚秀」 (大阪市)の社長、中谷彰宏容疑者(44)など8人が逮捕された。中国産を3億円で仕入れ、国産として7億円で売りさばいて巨額の利益を得ていた。 DNA鑑定しなければわからないほどだが国産と中国産ではとんでもない価格差になる”信仰”につけいった犯罪だが、こうなると消費者ももはや輸入物しかないという 前提で食べたほうがいい。

なぜ天然うなぎが珍重される
「天然うなぎ」は少ないが、関東平野や琵琶湖周辺、その他でまだ獲れるところはある。「天然うなぎ」のランクは、《沼、 池より川、川でも急流、本流より支流》がそれぞれ上物とされる。秋に獲れる「下り鰻」、河口の海で育った「海鰻」「シャコうなぎ」は特に上物とされた。また 関東の場合、春の彼岸から一か月ほどの間に印旛沼、霞ヶ浦で獲れる細いうなぎを「出縄」と呼んで珍重した。うなぎも「江戸前」が好まれた。「江戸前」の範囲は金 沢八景、品川付近から利根川までの間。それ以外を「旅のうなぎ」(田舎うなぎ)と呼んでバカにしたほど。

天然うなぎが珍重されたのは、大きさにかかわらず、どんなに脂がのっていても小骨が気にならないで、軽い味だということだが、戦後しばらくまでの話。しかも、 うなぎは何でも食いつく悪食だから産地、季節、川の水質、餌で違いがあり、養殖うなぎの方がいいときもある。加えて、川の漁で生計をたてるような川魚漁師 も激減、さらに護岸工事でコンクリートだらけになって生息できない環境もあり、天然うなぎは風前の灯火(ともしび)なのだ。

「天然うなぎ」に限らず活きがいいものは胸が淡黄色だ。うなぎは昔「むなぎ(胸黄)」と呼んでいた。これがうなぎの語源とされる。江戸の小噺によると、鵜飼の 時に、鵜が飲み込むのに難儀することから鵜難儀(うなぎ)となったというのがある。
関西ではウナギのことを「まむし」と呼ぶが、これはヘビのマムシからきたものではなく、鰻飯(まんめし)を「まむし」と言っていたものが、原材料のウナギを いうようになったとか、関西の調理法の特色である、蒸さずに蒲焼にして、飯の上に乗せた上に更に飯を乗せて蒸らす「飯蒸し」(ままむし)から来たという説 、飯の上にウナギやたれをまぶすものとして「まぶし」が転じたとの説まで諸説ある。

徳川家康の時代に江戸は大干拓事業が行われたため多くの泥炭湿地が出現、ここにうなぎが住み着くようになった。このうなぎを人夫が蒲(かば)の穂のようにぶつ切りに して串に刺して焼いて食べた。これがうなぎの蒲焼で、このころは雑魚扱いだった。蒲焼は江戸発祥の料理なので江戸の代表的食物とされるが、一般に食べられるようにな ったのは江戸後期からで比較的新しい食べ物だ。注文があってから焼いたから、江戸っ子は「鰻屋でせかすのは野暮」として、蒲焼が出てくるまでは新香で酒を飲 んだ。鰻屋もまた新香に気をつかったものだという。明治のころまでは、関東ではうなぎは贅沢品だったが、関西では一般的に食べられていた。

関東でうなぎを蒸すようになったのは江戸のうなぎが泥臭かったからという説や江戸っ子は脂っこいものが嫌いで、脂を落とすために蒸したという説もあるが判然としない。 ただ、現在のような食べ方ではなく、うなぎを酢味噌や山椒味噌、辛子で食べていたという。天保年間になってやっとタレをつける現在のような食べ方が確立した。

鰻丼も江戸時代からあっものの、酒のつまみとして発達したのでうなぎとご飯は別々に出された。明治時代になって、冷めないように蓋をするようになり、重箱を使って高級 感を出しての「うな重」は戦後になってのことだ。

斎藤茂吉とうなぎ

無類のうなぎ好き
斎藤茂吉
アララギ派の歌人、斎藤茂吉(1882-1953)は無類のうなぎ好きとして知られる。長男の茂太氏が結婚するとき、相手の家族と銀座のうなぎ屋で会食した。息子 の婚約者が緊張で食べ残したうなぎを見て茂吉は「それを私にくれ」といってぺろり平らげたという。

自分が主宰する歌誌「アララギ」の選歌会で、うなぎの出前をとると「君、そっちのほうが大きいから替えてくれ」と弟子のを取り上げた。「茂吉日記」か ら丹念に彼が食べたうなぎを勘定した人がいる。24年間で1051匹だという。年間44匹だから、上述の「日本人の年間平均5本」と比べてもケタ違いに多い。創作 に行き詰まったときも、ひとたびうなぎを口にするや「一気呵成ニ歌十首ヲ纏(まと)ム」と日記に書いている。 一説では、中年からの24年間に約1000尾を食し、毎日のように蒲焼きを食べていた時期もある。

「ゆふぐれし机のまへにひとり居りて鰻を食ふは楽しかりけり」

「吾がなかにこなれゆきたる鰻らをおもひて居れば尊くもあるか」

家族などには食べさせないで、ひとりだけで味わうという「姑息」な食べ方のようで、よほど好きだったのだろう。

うなぎの養殖は昭和はじめから
万葉集の中の大伴家持の歌に、

「石麿にわれ物申す夏痩せに良していふ物そ鰻取り食せ」

「石麿さんに申し上げます。夏痩せに効果があるそうです。鰻を召し上がってください」というのだから、1200年ほど前から日本人はうなぎを食べる慣習が あったのがわかる。しかし、うなぎの養殖は明治時代になってからで、大正末期から昭和初期にかけて急成長した。うなぎの養殖技術は発達したが、生態はまだ 分からないところが多い。

うなぎの人口養殖は昔から試みられてきた。人工孵化は1973年に北海道大学水産学部で初めて成功し、2003年には三重県の水産総合研究センター養殖研究所が、 世界で初めて完全養殖に成功したと発表した。しかし人工孵化と孵化直後の養殖には莫大な費用がかかり、成功率も低いためいまだ研究中で、養殖種苗とな るシラスウナギを海岸近くで捕獲し、成魚になるまで養殖する方法しかない。このため自然界における個体数の減少、稚魚の減少が各国の シラスウナギ輸出規制の動きとなり上述のように国際問題となりつつある。

養殖業者は毎年、12月から4月の間に海(河口付近の海岸部)で捕獲されるシラスウナギと呼ばれる体長5〜6センチの白く半透明のうなぎの稚魚を池に放す。 加温設備をそなえた池で水温は30℃位に保たれる。毎日エサを与えて大きくなるにつれ選別を行ないながらさまざまな技術のもとに管理され、6か月から遅く とも一年くらいの間に出荷される。

うなぎの生態

ギリシャの哲学者、アリストテレスもうなぎを食べたが、「うなぎは泥から生まれた」といった。それからだいぶたつが、いまだに生態の多くはよくわかってい ない。うなぎの起源は1億年前後の白亜紀後にインドネシア付近で派生したと推定されている。そのまま残ったグループ(日本ウナギ・オーストラリアウナギ・そ の他)と海流に乗って西へ出たグループ(ヨーロッパウナギとアメリカウナギ)に分かれた。

日本以外にも朝鮮半島からベトナムまで東アジアに広く分布する。成魚が生息するのは川の中流から下流、河口、湖などだが、内湾にも生息している。夜行性で、 夜になると餌を求めて活発に動き出し、甲殻類や水生昆虫、カエル、小魚などいろいろな小動物を捕食する。

ウナギは雌雄同体の生物で川にいるウナギはすべてオス。海へ下った時にメスになり、はるか外洋の産卵場で生まれるが、それがどこなのかくわしくは解明され ていない。日本の ウナギはフィリピン東方マリアナ海域で生まれ、欧米のうなぎは大西洋の真ん中サルガッソー海で生まれると見られている。その後レプトケファルスと呼ばれる 幼生になってから沿岸にやってくる。この時がシラスウナギだ。シラスウナギは川をさかのぼり、クロコ、黄ウナギとなって川や湖で5年から15年成長し、体長5 0センチ(オス)から1メートル(メス)の銀ウナギになり、秋の増水時に川を下り、再び海へ戻って産卵し一生を終える。この間数千キロに及ぶ回遊をするがこ れもよく分かっていない。 ウナギはレプトケファルス→シラス→クロコ→キウナギ→下りウナギと成長に従い呼び名が変わる”出世魚”なのだ。

◇ ◇ ◇

ウナギの産卵場所ついに解明

上で外洋の産卵場がわかっていないと述べたが、2006年2月23日の朝刊各紙が数十年来のこの謎に答えが出たことを報じた。 グアム島の北西約200キロの「スルガ海山」であることを、塚本勝巳・東京 大海洋研究所教授らの研究グループが突きとめ23日付の英科学誌「ネイチャー」に報告したという。大きな成果だ。

研究グループは前年6月、海洋研究開発機構の学術研究船・白鳳丸(3991トン)で現場海域を航行し、ネットを下ろして海面から水深500メートルに かけて引いた。その結果、スルガ海山の西約70〜100キロの地点で孵化(ふか)後2〜5日の幼生約400匹を捕獲することに成功した。DNA鑑定でニホ ンウナギの「プレ・レプトセファルス」と呼ばれる誕生直後の幼生(仔魚=しぎょ)であることがわかった(写真右上)。全長は4.2〜6.5ミリだった。

ニホンウナギの卵は、受精から1日半で孵化することがわかっている。ウナギの内耳には平衡感覚をつかさどる「耳石」(じせき)があり、そこにある「輪紋」 と呼ばれる模様が一日ごとに増える。樹木の年輪判定の要領でこの幼生は孵化から2日目であることがわかった。現場海域では時速1キロ前後の海流が西向きに流れ ており、捕獲した幼生の日齢から逆算して、産卵場は船から100キロ離れたスルガ海山であることが確定的となった。

確定したウナギの産卵場
長年の謎に決着。グアム島の北西200キロの
「スルガ海山」がその場所だった。
=産経新聞から(右 上も)=

スルガ海山は、北緯約14度、東経約143度にある。周辺は水深3000メートル前後の海底が広がり、海山の頂上は水 深約40メートル。広大な海の中で、親ウナギはこの海山を目印に集まるらしい。

ニホンウナギは一生の間に数千キロの大回遊をする。南の海で生まれた幼生は、北赤道海流で西に流された後、黒潮に 乗って北上し、3カ月〜半年かけて日本や中国など東アジア沿岸にたどり着く。その間に、幼生からシラスウナギへと姿を 変える。

塚本教授
ウナギの産卵場所を
突き止めた塚本教授
=読売新聞(5/1)から
ウナギをサケのように人工孵化したいところだが、ウナギは繊細な魚で現在の技術では、一応孵化させることは出来るが100日以上生きるのは1万匹に数匹でと ても養殖とまではいかない。現在は天然シラスウナギの捕獲に頼っているが、今回産卵場所が特定できたので、研究は大幅に進むことが期待されている。塚本教授 は「産卵場探しが決着したことで、今後の調査では、ウナギの回遊や資源変動のしくみを本格的に解明できるようになる」と話している。


卵持つ雌ウナギ
2009年捕獲された卵を持つ雌ウナギ
2009年6月には水産庁と水産総合研究センターの調査船が、同海域でウナギ8個体(雄4、雌4)を採取、そのうち雌1個体は多くの成熟 卵を持っていて(写真右)、ここが産卵場所であることが特定でき、ウナギの完全人工養殖へむけ大きな前進となった。

ついにウナギの卵を採取

太平洋上でより小さいシラスウナギ(稚魚)をさがし求めることで、ついにスルガ海山が産卵場であることをつきとめた日本のウナギ研究は、とうとう至難とされ たウナギの卵を採集することに成功した。2011年2月2日の新聞各紙によるとー。

日本列島から南に約2000キロのマリアナ諸島沖で、ニホンウナギの卵を採取したと、東京大と水産総合研究センターの研究チームが1日付の英科学誌「ネイチ ャー・コミュニケーションズ」に発表した。人類が初めて目にした天然ウナギの卵だ。世界的に激減しているウナギ資源の保全や養殖技術向上への貢献が期待さ れる。

東大大気海洋研究所の塚本勝巳教授(62)らは2009年5月22日、グアム島の西のマリアナ海嶺南端の海山が並ぶ海域で、ニホンウナギの受精卵31個を採取した。卵 は受精から1日半後には孵化するので、船上でDNAの遺伝子解析を行い、ニホンウナギと確認した。直径1・6ミリほどで、受精後約30時間。産卵水深は約1 60メートルだった。

ついに見つけた卵
ついに発見されたウナギの卵
卵が採取されたのは新月の2日前でニホンウナギは海山付近で新月のころに産卵するという塚本教授の「海山仮説」と「新月仮説」が完全に証明された。また、産卵 期の親ウナギも捕獲され、ニホンウナギが複数回産卵を行うことや、オオウナギも同じ海域で産卵していることなどが分かった。

採集場所は、水深が3000〜4000メートルあり、二つの海水がぶつかって塩分濃度が変化する約10キロ四方のごく狭い海域だった。卵は水深200メートル前後にあ ったとみられる。チームの塚本教授は「卵がふ化するまでの日数はわずか1・5日。採集できたのは幸運だった」と話している。

「怪しい卵があるので来てください」。2009年5月22日午前6時半、学術研究船「白鳳丸」で個室にいた塚本教授は、緊張した思いで実験室に向かった。午 前5時に引き揚げた採集物から、初めてウナギの卵らしきものが見付かった。円窓から差し込んだ光を受けて、「その卵だけが虹色に光っていた」。30年以上探 し求めていた天然ウナギの卵だった。

水産総合研究センターは2010年に、ウナギの完全養殖に成功しているが、稚魚に育つ割合が低く実用化の壁になっている。天然ウナギの産卵生態や水温など環境が分 かると、最適な餌の開発などに生かせると期待される。

ウナギの産卵場所は、20世紀初めまで知られていなかった。1920年代に、大西洋のバミューダ島の南にあるサルガッソー海がヨーロッパウナギの産卵場所だと 分かり、60年代からは太平洋でニホンウナギの産卵場所調査が本格化。2005年には塚本教授らが孵化後2日目の仔魚、プレレプトセファルスを採取し、マリ アナ諸島沖の産卵場所を絞り込んでいた。

南の海で生まれた仔魚は、北赤道海流と黒潮に乗って日本や台湾、中国、韓国の近海にたどりつき、シラスウナギに姿を変えて河川を遡上する。塚本教授によると 、仔魚が採取される海域が南下する傾向があり、こうした変化がシラスウナギの資源量激減に関与している可能性がある。

研究は終わりではない。オスとメスがどのように出合うのか。なぜ新月間近に産卵するのか、など新たな疑問が山積している。「次は産卵シーンを撮影したい」。 塚本教授は5月、再び研究航海に乗り出す。

◇ ◇ ◇

九州の沖仲士の親分の息子で河童が好きだった作家、火野葦平が書いた小説「赤道祭り」に、水産学者の主人公が恋人と「竜王丸」という海洋調査船に乗って、 南洋に出かけ、ウナギの幼魚を発見する場面が出てくる。火野は『糞尿譚』で第6回芥川賞受賞したが応召中のため、戦地で授賞式が行われたことで知られる。戦後、『花と龍』 『革命前後』など自伝的作品を発表したが昭和35年自殺している。火野はウナギのルーツをフィクションとして書いたのだが、その通りの結末となった。場所は大 方推定されていたとはいえ「事実は小説より奇なり」を地で行く話だ。

〈ニホンウナギ〉日本や中国、韓国など東アジアに広く分布し、成長すると産卵のため川を下り海に入る。世界には、ヨー ロッパウナギやアメリカウナギなど18種類のウナギがいるが、国内で消費されるウナギの大部分はニホンウナギ。日本鰻 (うなぎ)輸入組合によると、国内流通量の9割近くを占めるという。

ニホンウナギの生活史(現在までに解明された点)
ウナギ生活史
ウナギの生活史
●夏にマリアナ諸島沖スルガ海山付近で産卵。2日後に孵化。
●海流に乗って東アジアへ向かう。この間に仔魚から「シラスウナギ」に成長。
●初冬から翌年春ごろ日本などに到着する。
●日本各地の河川に入り、淡水で5−10年過ごす。「クロコ」から「黄色ウナギ」に成長。
●秋から冬に成熟をとげ、「銀ウナギ」になり、海に出てスルガ海山付近の産卵場を目指す。ウナギが方向を知るのは、耳の一部でスルガ海山の周りの流れが起こ す低周波を感じることができるのではないかという仮説がある
●産卵を終えたウナギは一生を終える。

東西の調理方法
うなぎを料理するとき関東では背で裂き、関西では腹を裂く。また関東では焼く前に蒸すという作業が入る。この関東関西の料理方法の違いは、浜名湖の今切(静 岡県浜名郡舞阪町)で分かれている。東海道の舞阪宿の今切渡しがあったところだ。関東では切腹を連想するので武士が嫌ったという説が有力だ。 静岡はそれより東で関東の調理法地帯だが、関西風に焼いているところを知っている(静岡の「石橋」)。きっちり分けられるという話でもない

土用丑の日とうなぎ
季節を感じさせる風物詩的な記事を新聞社では「スケッチ」といっている。日ごろから社会部記者はその季節のスケッチを書かせられる。文章の訓練もかねている 。私も「今日は土用丑の日、うなぎ屋大賑わい」といった新聞記事を書いた覚えがある。書いたものの、なんで土用丑の日のうなぎなのか、考えたこともなかった。

夏の土用の時期は暑さが厳しく夏ばてをしやすい時期だ。昔から、土用蜆(しじみ)、土用餅、土用卵などの言葉が今も残っているように「精の付くもの」を食べ る習慣があり、精の付くものとしてうなぎは奈良時代から有名だったから土用うなぎというように結びついたのだろう。

うなぎの旬は本来冬なのだが、こうして夏の暑いときに土用にうなぎを食べる習慣が一般化したきっかけは、幕末の万能学者として有名な平賀源内が、夏場にうなぎが売れないので何とかしてほしいと近所のうなぎ屋に相 談され、「本日丑の日」と書いた張り紙を張り出したところ、大繁盛するようになった、という話が有名だ。でもどうもまゆつばのような・・・エレキテル(電気 )を作り出した最初の日本人だから、電気うなぎからの発想と見たほうが楽しくもある。

うなぎ屋の値段は高すぎないか
最近、うなぎ屋とてんぷら屋の値段が上がりすぎのような気がする。上がる理由がないのにだ。鮮度と食材が違 うなどというがそんなものたいした値段ではなかろう。格好付けすぎなのだ。もっとも2005年は海流が日本列島から 遠く回遊した影響でシラスウナギが激減して値が上がった。これなども私に言わせれば、値上げするなら(養殖した)来年からで ないと間尺にあわないと思う。高いシラスを食べるのは来年で、それまでは便乗値上げだ。

なが年「時価」ととぼけて高い料金を 取っていた寿司屋が100円寿司に押されて青息吐息だ。我ながらバカなことをしていたと反省しているが、座れば最低 一人1万5000円という馴染みの店があった。握りはそう好みでないので酒少々とつまみでこれでは高かろうと思っていた が、今では4つあった支店を縮小して従業員も減らした。私も行かなくなった。

こちらは生来、吝嗇の上ひねくれている。私は、もう30年以上床屋に行ったことがない。T椅子という会社を取材 中、床屋の値段が高いのは、こういう椅子のメーカーがマッサージつき、洗面台つきなどいらぬ機能をつけて何百 万円もする椅子を売りつけていることを知ってからだ。この償還に追われるから高い。一方、実利第一のアメリカの 床屋には20万円程度のものを輸出していた。

これを知って、断固床屋に行くのをやめたのだ。女房に生涯散髪代として前渡し金を取られたが以後タダだ。30年間、これで別に不自由はない。長髪ブームという追い風にも乗って、わざとそうしている風にみえるのも幸いした。3年ほど前一度危機が訪れた。長女の結婚式で「花嫁の父」をつとめるのにそれじゃまずかろうということになった。禁を破るか、と思ったが、式の直前、硬膜下血腫で手術する羽目になり、看護婦の手で丸坊主にされた。結婚式は五分刈りで臨んだから床屋には行かずにすんだ。

現在、床屋の廃業が相次いでいる。一方でカットだけの1000円床屋がにぎわっている。椅子メーカーも株価は低迷している。業界がいい気になって値上げに次ぐ値上げをつづけた結果だ。30年にわたる個人の抵抗運動が効いたか、と快哉を叫んでいる。

この伝で、私がうなぎ屋を拒否する時代が来ないことを祈る。

ウナギ稚魚、歴史的不漁で高値に

上のような話を書いて10年ほどたった2018年、大変なことになった。シラスウナギがほとんど獲れなくなった。よくて前年の1割。これでは価格は暴騰する、客足は遠のく、うなぎ屋 の経営が立ち行かなくなる――の三連鎖で、最早食べるどころの騒ぎではなくなった。

 

例年の1割以下
国内の養殖池に入れられた稚魚は1月末時点で前年同期の1割程度にとどまり、稚魚の取引価格は1キロ・グラムあたり300万円超と前年平均の約3倍の高値となっている。  ウナギとして出荷される来年以降、品薄と値上がりは避けられそうにない。

「今期はとにかくシラスウナギが取れない。漁場に足を運ばなくなった人もいる」。全国有数のウナギの産地、浜松市の天竜川白子うなぎ採捕組合の池田惇組合長(72)は、  ため息交じりに嘆く。天竜川河口は稚魚の漁が盛んだが、今期の漁獲量は極端に少ない。

国内のシラスウナギ漁は、11月から春までが漁期だ。国内に出回るウナギの大半は養殖もので、稚魚を養殖池で成魚に育てて、市場に出荷している。 (2018年2月27日 読売新聞)

稚魚の輸入先である中国や台湾でも極端な不漁で、早くも値上がりを見越しての売り渋りも出ている。稚魚の価格が3倍ということは、現在「うな重」に例を取れば、店によって違うとはいえ 「2000円台から3000円台」である。これが一挙に1万円台になる理屈である。うなぎの名店とされるところではコース料理にして「1万円ちょっと」取っているから、3万円になる。 誰が注文するものか。うなぎ滅亡の時代である。

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