戦後60年

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[シベリア抑留]

心支えた捨て犬「クロ」

帰還船追い氷海に…ともに日本へ


日本人抑留者を追って、日本にやって来たクロ。
1957年ごろ、玉有勇船長と再会した
(玉有正明さん提供)

 真っ黒な雌の子犬が、ハバロフスクの収容所にいた。名前は「クロ」。日本人抑留者たちが飼っていた。

 シベリアでの抑留生活も10年を過ぎたころ、野外の作業所に捨てられていたのを、だれかが拾ってきたらしい。抑留者たちはわずかな食事を少しずつ分け与えてかわいがった。

 当時は抑留者の処遇も徐々に改善され、日本から小包も届いた。井上平夫さん(84)(鳥取県八頭町)も、菓子などを与えては、クロの頭をなでた。

 「日本人にはなつくのに、ソ連兵を見るとけたたましくほえてね。まったく私らの心情をわかった、賢い犬だった」


11年間に及んだ過酷な抑留生活と、クロとの交流を
振り返る井上さん
(鳥取県八頭町の自宅で)

 「矯正労働25年」。ソ連の軍事法廷が1949年8月、井上さんに出した判決だ。気の遠くなるような年月を極寒のシベリアで働き、思想を「矯正」しなければならない。理由は、井上さんの軍歴にあった。陸軍中野学校を出た井上さんは、特殊任務、つまりスパイ活動に携わっていた。

 自分から望んだ任務ではないが、選ばれたからには国のために身をささげようと覚悟した。モンゴルの民族社会に溶け込み、ソ連軍の情報収集などを行った。終戦後、満州(現中国東北部)でソ連兵に捕まった。

 一般の抑留者とともに収容所を転々としたが、判決後は、奥地のタイシェト近くの囚人用収容所に入れられた。わずかな黒パンと塩汁だけで、来る日も来る日も鉄道工事に駆り出された。50年4月、ソ連が「戦犯を除き、日本人抑留者は送還した」と発表した。戦犯とされた自分はまだシベリアにいる。日本で待つ母の落胆を思い、打ちひしがれた。

 その後、ハバロフスクに移され、クロに出会った。

 クロが球拾いをする野球大会は「クロ野球」と呼ばれ、抑留者の大きな楽しみだった。深夜、収容所の火事をクロが見つけ、事なきを得たという手柄話も残っている。先の見えない抑留生活の中で、井上さんにとっても、クロは心の支えだった。昼間の作業を終え、くたくたになって帰ると、クロがしっぽを振って迎えてくれた。疲れが和らいだ。

 56年10月の日ソ共同宣言調印を機に、すべての抑留者の帰国が決まった。クロとの別れでもあった。

 「クロだ! クロがいるぞ」。抑留者の一人が、岸壁を指さして叫んだ。

 56年12月24日朝。井上さんを含め、最後までシベリアにとどめ置かれた1025人の抑留者が、帰還船「興安丸」でナホトカの港を出航した。その直後、クロが氷の海に飛び込んだ。

 ハバロフスクからナホトカまで、約800キロ。だれかがこっそりクロを帰国列車に乗せたのか――。真相は分からないが、とにかく、クロはナホトカまで来ていた。

 「戻れクロ、死んでしまうぞ!」「岸に帰るんだ!」。抑留者たちは甲板で叫んだが、クロは割れた氷を渡り歩いて追ってくる。氷の間から海に落ちた。抑留者たちの悲鳴が上がった。

 何度も帰還船の航海をこなし、“引き揚げ者の父”と呼ばれた玉有(たまあり)勇船長が船を止めた。縄ばしごで下りた船員が、クロを抱き上げた。甲板に響く歓声。クロはぶるっと体を震わせて、全身の氷を振り払い、しっぽをうれしそうに振った。みんな涙が止まらなかった。

 そのままクロも舞鶴港(京都府)に「帰還」した。近くの住民に引き取られ、数年後に生まれたクロの子は、玉有船長の家に贈られた。船長は73年5月に66歳で亡くなったが、長男の正明さん(70)は「抑留者とクロの交流に父も心を打たれたのでしょう。もらった子犬はクロと同じく真っ黒で、おとなしい犬でした」と、振り返る。

 11年間に及んだ過酷な抑留体験だったが、井上さんは、クロの話をする時だけは、目を細めた。「自分を救ってくれた日本人のことを、クロは命がけで追ってきた。互いに苦しかったからこそ、心が結びついた。つらく長かった日々の中で、そこだけが今も輝いているようです」

2005年9月25日  読売新聞)

ソ連によりラーゲリ(露: Лагерь 収容所)で僅かな黒パンと塩汁だけで、来る日も来る日もシベリアの鉄道工事や建物建設工事に駆り出され、強制労働にこき使われた日本兵は約60余万人。飢えと寒さの為死んだ人は6万人以上。そんな過酷な生活からかろうじて生き残った人を慰めた「クロ」のことは、その後もひんぱんにメディアに取り上げられている。

その中で少しずつ「クロ」と収容者との交流が明らかになっていった。以下は2006年1月26日よるフジテレビ「奇跡体験!アンビリーバボー シベリア抑留者と忠犬『クロ』の物語」で放映された番組から、「クロ」がどうしてラーゲリの中に入ってきたかわかる部分を、ブログ「ほたるのひとり言」から要約した。

その犬の名は、『クロ』日本人抑留者達が、収容所で飼っていた犬だった。勿論、抑留者たちは犬を飼う事など、許されてはいなかった。

ある日、仲間の1人が、労働先で黒い捨て犬を見つけ、何とか身体検査を通り抜け、収容所へ連れ帰った。その犬は『クロ』と名付けられ、仲間の1人が自分の1日分の大事な食料である黒パンを与えた。クロは、美味しそうに食べ、殺伐とした収容所の中で皆の笑顔が起きた。しかし、子犬の鳴き声にソ連兵が気付き、元居た場所に捨てて来るように命じた。皆泣く泣く捨てに行き、寒空で一匹残された子犬を想って涙していた。するとその収容所の外で犬の鳴き声がした。なんと、外にはあのクロがいた。5キロ以上も先の労働先から戻って来ていたのだった。

その後、何度捨てに行っても、また戻って来てしまうため、ソ連兵も黙認するようになった。抑留者の生活も10年を過ぎ、徐々に処遇も改善され、日本からの小包みも許されるようになっていた。抑留者の1人だった井上平夫さん(現在84歳)も、小包みに中から、お菓子等はクロに分け与えた。

「日本人には、なつくのに、ソ連兵を見るとけたたましく吠えてね。全く私らの心情を解った、賢い犬だった」と…。やがて、棒と綿糸で巻いた球での野球も愉しめるようになった。クロはいつも抑留者と一緒だった。そんなある日、仲間の1人が打ったボールが鉄条網を越えて飛んでいってしまった。頭上ではソ連兵が、銃を向けて見張っている。貴重なボールだが取りに行けなかった。するとクロが走り出し、鉄条網を潜り抜けそのボールを咥えて来た。流石のソ連兵も犬を撃つ事は出来なかった。

その野球はクロが球拾いをする事から、「クロ野球」と呼ばれ、抑留者の大きな楽しみになった。また、或る深夜、クロが、けたたましく吠えて仲間を起こし、収容所の火事も大事にならずに済んだというお手柄話も記録されている。井上さんたちの、先の見えない抑留生活の中で、クロは抑留者皆の心の支えだった。昼間の作業を終え、くたくたになって帰ると、クロがしっぽを振って迎えてくれた。すると疲れが和らいだそうだ。

1956年10月、日ソ間で交わされた、共同宣言調印を機に、全ての抑留者の帰国が決まった。喜びに沸く収容所。しかし、全員がクロの事を心配した。犬は連れて帰れない。クロはまた捨て犬になってしまうのか。1956年(昭和31年)12月23日、収容所最後の夜は、誰もがクロの事が気がかりで眠りにつく事が出来なかった。

井上さんの抑留生活は11年を過ぎていた。帰国が許されると皆、ハバロフスクからナホトカまで、800キロを運ばれた。ナホトカ港には、帰還船「興安丸」が待っていた。その時、犬の鳴き声がした。クロだった。誰かが列車に乗せたのだろう…クロはナホトカまでついて来ていたのだ。

井上さんたちは、ソ連の憲兵にクロの乗船を懇願した。しかし許可は下りなかった。そこへ「興安丸」の玉有船長がやって来た。玉有船長は、“引き揚げ者の父”と呼ばれおり、みんなの心情を最も理解している人だった。「このクロは、自分たちと苦しい時を一緒に過してきたのです」。井上さんは、玉有船長にすがった。しかし、「規則は破れません」とクロの乗船を認めなかった。井上さんたちは、泣く泣くクロを港に残して乗船し、甲板からクロに別れを告げた。クロは、ずっと吠えながらみんなを見つめていた。

「興安丸」は、ナホトカの港を出航した。ハバロスクの港と共に、クロの姿も遠くなっていく。するとその時、厳寒の冬の氷の海に、クロが飛び込んだ。

「戻れクロ、死んでしまうぞ!」「岸に帰るんだ!」。抑留者たちは甲板で叫んだが、クロは割れた氷に登り、渡り歩いて必死で船を追ってくる。そして、氷の間から海に落ちた。抑留者たちの悲鳴が上がった。それでもクロは、泳ぎ続け船を追った。「クローっ」甲板にいる全員が叫んでいた。

ガックンと大きな衝撃が起こり、船が停まった。玉有船長は、実は出航前から、日本国に忠犬クロの事で、連れて帰る許可を求めていたしかし、連絡が取れず、やむなく出航したのだが、クロが追いかけてくる姿を見て、停船命令を決断したのだった。興安丸から、氷上に縄梯子が降ろされ、クロが引き上げられた。甲板に歓声が響き渡った。クロはぶるっと体を震わせて、全身の氷を振り払い、嬉しそうに尾を振った。そこにいた全員、涙が止まらなかった。

日本人抑留者を追ってきたシベリア犬、クロ。クロも舞鶴港(京都府)に「帰還」し、クロは動物検疫を受けて日本に上陸した。 井上さんは仲間と相談して、結局、舞鶴市議会議員の1人長木さんに引き取られる事となった。既に甲板に引き上げられるクロの写真は、「興安丸」の着岸より先に新聞で報じられていて、クロは忠犬として、日本国内で話題の的だった。

クロは犬種は不明ながらメス犬だった。数年後、子犬を産んだ。その中の一匹が、玉有船長の家に贈られた。船長は1973年5月に66歳で亡くなったが、長男の正明さん(70)は「抑留者とクロの交流に、父も心を打たれたのでしょう。貰った子犬はクマと名付け、クロと同じく真っ黒で、おとなしく賢い犬でした」と、振り返った。

「クロ」の物語はその後もメディアでよく取り上げられた。内容は上で紹介した範囲を超えるものではないが、2021年2月14日 の朝日新聞電子版「ソ連兵に内緒で飼った『クロ』 海を走って追いかけ船へ」の記事で、初めて「クロ」が凍りついたナホトカ港で助けあげられるシーンが掲載された。

クロ救出 引揚者とクロ
ナホトカ港の氷の中から引き揚げ船「興安丸」の
船員に助け出されるクロ
引揚者に抱かれて写真に収まるクロ

この記事は、興安丸の地元である京都府舞鶴市の東舞鶴高校の生徒たちが、実話をもとにした紙芝居の英語版を朗読しユーチューブで公開するという話題のなかで、当時の朝日新聞で紹介された「クロ」救出の瞬間の写真を紹介していた。また舞鶴上陸後だと思われる記念写真に収まっている「クロ」の姿もあるので再録する次第。

当時、興安丸が到着した舞鶴港では新聞社が先を争って取材合戦を繰り広げた様子はこのブログでも取り上げた。朝日新聞記者が書いた当時の記事では、犬の名前を「クマ」として紹介されている。その後、「クロ」という犬の話として絵本や児童書にもなった。